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アドミニストレーターズ! 2  作者: 椎名 典明
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第四章

プロローグ+全5章+エピローグの第4章です。

 そして翌週。学校。昼休み。教室には半分くらいの生徒がいて、比較的穏やかな空気が流れていた。

 今日はももちゃんは部活の関係でおらず、鹿井君も他の友達とご飯を食べているのかいなくて。私と葉山君は隣同士でそれぞれ昼ご飯を食べていた。

 ……別に一緒に食べてるわけじゃないですよ? ただ、二人が別々に自分の席で食べているだけ。


「葉山君の部屋って、意外と片付いてるんですね」


 二人で無言で昼食を食べていても別に気まずさや息苦しさを感じたりはしないのだけれど、そういえば思い出したことを何となく言ってみる。葉山君のお部屋に行ったときは部屋のお話をするような状況じゃなかったし。

 それにしても、葉山君のお部屋は物がすごく少なくてびっくりした。ベッドに机、それと大きな本棚(漫画本ばかりでした)が一つあるだけで、他には何もなかった。テーブルもなかったし、来客があったらどうするつもりなんでしょう。

 来客……あ、冷静に考えると、私って同級生の男子の部屋に一人で上がりこんだんだ。うーん、何か想像していたような色っぽい状況と違う……。


「もっと汚れてると思ったか?」


 葉山君は漫画雑誌のページをめくりながら答える。月曜日はいつもこの人、この少年漫画雑誌読んでるなー……二十六歳なのに。


「おっしゃる通りです。絶対もっとだらしないと思ってました」

「引っ越してきたばっかりだからな……。まぁ、文字通りあの野郎に土足で踏み荒らされて掃除が大変だった。「石」まで奪われてたら踏んだり蹴ったりだったな」

「そういえばあの「石」って、魚が触っちゃったらどうなるんでしょうね」


 私は昨日自分が海に捨ててきた「石」に想いを馳せてなんとなく思ったことを尋ねる。


「さあな。虫に触らせても何も起こらなかったが、魚はどうなんだろうな。ある程度の知性みたいなものを持つ生物じゃないと効かないのかもしれねえな」


 葉山君はコンビニで買ってきたであろうおにぎりを頬張りながら何となく言う。


「色々試してたんですね」

「仕事だからな」


 仕事……きつい仕事もあったものだ。


「今回は特にひやひやしたわ。何しろ一瞬でも触ったら終わりだからな」

「確かに。怖かったでしょうね」

「普通に生きてたら絶対味わえねえスリルだな……ストレスとも言うが」


 葉山君はため息をついて言う。心底ほっとしているようだった。


「でも、それももう終わりですね」

「……………………。あれで終わ……」


 葉山君は漫画雑誌をめくるページを止めて押し黙ると、熟考した後に何か言いかけて。

 そのとき、葉山君のスマホが鳴り響いて、メールか何かの着信を告げる。葉山君は私に言いかけた言葉の続きを発することはなく、スマホを操作して何かを確認すると。


「ほれ」


 私にスマホの画面を見せつけてきた。その画面には「送信者:山田 他」さんからのメールが。山田 他て。ゲイリーさんたち三人で共用してる携帯からなんだろうけど。そういえば三重人格の最後の一人はどんな人なんだろう。

 大事なメール本文は、なになに……。


『乱暴者が子猫を再び手懐けた。

 お前に今日デートの予定が入っていなければ後で話し合いがしたい。

 十六時ちょうどに喫茶チカに来い。

 出来ればガールも連れてくるように』


 乱暴者が子猫を再び手懐けた……?

 うーん……なんでこの人は難解な言い回しをするんでしょう。洋画チックで洒落た言い回しなのかもしれないけど、意味が分かりません。


「分からないか?」

「正直……」


 私は素直に分からないことを認めると、葉山君は続けて言う。



「蘇我の奴が「石」を手に入れたってことだよ」



・・・・・・・・・



 月曜日。朝。昨日はよく眠れなかった。悔恨、後悔、憎悪……諦念。そう言った感情が渦巻いて、ベッドの中でおれの心を苛んだ。

くそ、くそ、くそ!

 「石」は結局手に入らなかった。

 葉山のやつがあれほど強情だとは思わなかった。丸一日。丸一日だ! おれはやつを殴り続けた。蹴り続けた。踏みつけにしてやった。だがやつは、金庫の開け方を喋る素振りすら見せなかった。常に不敵に笑いながら、おれを挑発するようなことを言い続けるだけだった。

 甘かった。おれはあんなやつはちょっとナイフで脅してやれば、泣いて小便を漏らしながらすぐに「石」をおれに渡すと思っていた。浅はかだった。あれほど覚悟が決まっていたとは!葉山には絶対に「石」を渡さないという覚悟があって。おれ如きには口を割らせることは出来まいという確信もあった。くそ、舐めやがって!

 ……だが、見込みが甘かったのは認めざるを得ない。おれは当然、今まで生きてきて人を拷問したことなど一度もない。もっと事前に計画を練っていくべきだった。葉山を無力化して、「石」の在処を突き止めるまでは計画通りだったのに、最後の最後で詰めを誤った。もっと効率的に苦痛を与える方法を練りこんで、そのための道具を用意するべきだった。

「石」……ああ、「石」!

 気が狂いそうだった。どうして俺の手元にあの「石」がないのか。

この世で一番「石」を愛しているのはおれなのに。

この世で一番「石」を必要なのはおれなのに。

この世で一番「石」に愛されているのはおれなのに!

 ……昨日の時点で「石」は常に移動していた。やつらが持ち運んでいる状態の「石」に何の対策も講じていないと考えるほどおれは浅はかではない。おれは「石」が一所に留まるのを待ってから次の行動に移ろうと思っていたが……それも間違いだった。

 奴らはあろうことか「石」を海に捨てたのだ。間違いない。距離感と、地面より遥か下に「石」がある感覚……地図を見るとそちらの方角は太平洋だった。

 ……馬鹿な。おれは思い返して自分の部屋の壁を殴りつける。葉山を殴りすぎて痛めた拳が悲鳴をあげて危険信号を脳に伝えるが、そんなことはどうでもいい。

あの「石」を海に捨てるだと⁉ 馬鹿げている! この地球上でもっとも価値のある「石」を奴らは飲み終わった空き缶を捨てるかのように海に捨てたのか!

 到底許される行為ではない。奴らには相応の報いを与えなければならない。だが、それも「石」を取り返してからの話だ。だが、どうやって? おれにスキューバダイビングでもしろというのか? 海の真ん中まで行く手段は? 潜ったとして「石」が拾えない場所に入り込んでいた場合の対処方は? そもそも泳ぎが苦手なおれが海に潜ることなどできるのか?

 ……あの「石」を取り戻すためなら無論おれは何だってやる。だが……超えるべきハードルの数を数えるだけで嫌になってくるし、あまりにも時間が足りない。こうしている間にも「石」は回収不能な地点に転がり落ちていってしまうかもしれない。

 おれは目を瞑って意識を集中させ「石」の声を探る。


「……………?」


 「石」がまだ、海の中にあるのはおそらく間違いない。地面より下にあるのも間違いない。

 だが気のせいだろうか。昨日よりもこちらに近づいてきている……?

 もう一度、意識を集中させる。

 ……間違いない。昨日よりも陸側にあるし、今、この時も石はこちらに向かってきている。

 おれは「石」が存在する方角を感知すると、PCから地図を開いて大体の場所の当たりを付ける。そしてスマホのアプリを使ってタクシーを呼び出すと、急いで身支度を整えて、飛び出すように家の前に呼んだタクシーに乗り込む。珍しく平日なのに家に居た邪魔な親にはちょっと早いが大学に行く、と伝えておいた。最近、自分の行動がおかしいと思われているので少々慎まなければ。

 乗り込んだタクシーの運転手に行先を告げると、あまりの遠さに驚いたようだ。金はちゃんとあるのかい、と問われたが、おれは札束を見せてやることで安心させてやった。なるほど。金がある、ということは人生を豊かにする必須条件の一つのようだ。情報としてもちろん知ってはいたが、おれは今回の件でそのことを身をもって学んだ。

 タクシーを走らせること数時間。海岸沿いを走らせて「石」を近くに感じる場所でタクシーを止めると、料金を払っておれは駆け出すように外に出る。

 近い。すぐ近くにある。「石」に呼ばれている。「石」がおれを呼んでいる。

 おれは道路から海水浴場に降りると、砂浜を走って波打ち際へと走っていく。走る。走る。靴の中に水が入る。膝まで水に浸かる。波に攫われて、全身が水びたしとなる。それでも立ち上がって前へ。水の抵抗でなかなか前に進まないし、足を砂に取られてもつれるが、少しずつ前へ。この辺りのはずだ。最早腰まで海水に浸かる場所までおれはやってきて、目を瞑る……真下だ。真下にある。

 おれは目を瞑ったまま、腰を落として右手を足元へと伸ばす。手探りで、辺りの砂を探る……小指の先に何かが当たった。硬い感触。それを握り締めて、目の前へと持ってくる。


「あった……」


 おれの手の中に収まっている「石」。掌中の珠とはこのことか。間違いない。本物だ。「石」が再びおれの手元に。ぎゅっ、と抱きしめるように両手で握り締めて胸の中に収める。もう絶対に離さない。もう二度と離れない。もう葉山などには絶対に触れさせない。

 海に腰まで浸かったまま「石」を見つめる。

 ……海の中で転がっていたせいか、前とわずかに形状が変わっている。

 だが、この「石」の美しさには一片の揺らぎもない。むしろ、今の形こそが「石」のあるべき形ではないかとさえ思えてきた。

 もう二度と離さない……絶対に。

 おれは愛しい人をこの腕で抱きしめた時のような幸福感と安心感に包まれて。

 いつまでもいつまでもそうしていた。



・・・・・・・・・



 午後。十六時。私と葉山君は二人で喫茶チカを訪れた。

 喫茶店に入った瞬間、窓際の四人席に座っている白髪の大男……ゲイリーさんの姿が見えて私たちはその席へと向かう。


「デートの予定はなかったか。安心した……おっと、二人でデートの予定だったか?」

「蘇我のやつが「石」を取り戻したって?」


 葉山君はゲイリーさんが私たちを見るなり放った言葉を完全に無視すると、そのままゲイリーさんの目の前の席に座る。今日はゲイリーさんなんだ。残念。鬼瓦さんにも会ってみたかったけど。

 私もその隣にちょこんと座りゲイリーさんの話を伺う。なんかすっかり私もアドミニストレーターズの一員みたいになってますけど、私ってどういう扱いなんでしょうか。アルバイト?


「ああ、あいつは急に水遊びでもしたい気分になったのだろうな。いきなりタクシーで海水浴場を目指し始めて、服を着たまま浮き輪もせずに季節外れの海水浴を楽しんでいたところ、僥倖にも足元に落ちている「石」を見つけたようだ」

「ふうん、なるほどね。あの「石」は海中深くに捨てたにも関わらず、潮の流れを無視して海岸沿いで拾える場所まで戻ってきた、ってことか」


 蘇我さんが「石」を取り戻したことを聞いても、葉山君はそれほど驚いた様子はないようだった。


「あの、一応言っておきますけど、私はちゃんと捨てましたからね?」

「安心しろ、ガール。俺たちはガールのことを疑ってなどいない」

「多分あの「石」は、放っておくと自動的に持ち主の方向に転がっていくんだろうな」


 葉山君は店員さんから差し出されたお冷を一口煽ると、事も無げに呟いた。


「……分かってたんですか?」

「俺があの「石」の調査をしているときも、勝手に動き始めてたからな。金庫にしまってるときも中でたまにカンカン音させてたし」


 そのときは、どういう原理で動いてるのかまでは特定できなかったけどな、と、葉山君は言う。それほど事態を深刻に考えていないような言い方。

 これって一大事だと思うんですけど……。


「なるほど、一次接触者は「石」がどこに居るのか分かるし、「石」は勝手に一次接触者に寄っていくというわけか。略奪愛をされても安心安全、相思相愛で結構なことだ。悪漢が二人の仲を引き裂いても、結局物語はハッピーエンドを迎えるというわけだ」


 ゲイリーさんはお手上げだ、とでも言うようにオーバーリアクションで両手を肩の辺りまで上げながら言った。


「やかましい。誰が悪漢だ」

「でも……実際、どうすればいいんでしょう。またあの人から石を取り戻さなくちゃ……」


 流石に二度目ともなれば泥棒なんて簡単に出来ないと思うし、一体どうすればいいのだろう。気が滅入ります。


「そこは心配いらん。問題は、取り返した後にどうするかだ」

「え。どうやって奪い返すかもう腹案があるんですか。また泥棒の片棒を担がされるのは嫌ですよ?」

「大丈夫だ。そこは手を打ってある」


 確かに、保険を掛けておく、って言ってたし、最初からそういう可能性を考慮していたのなら、何かしらの手を打っていてもおかしくはないけれど。


「じゃあ、問題は手に入れたあとどうするかですね……うーん、壊しちゃうのはどうでしょうか?」

「あの「石」を完全に壊すことは出来ない。実験済だ」


 そんな実験までしているとは。壊せるアドミもいる、って前に葉山君は言っていましたけど、それって裏を返せば壊せないアドミが多いっていう意味で。あの「石」は壊せない方に分類されるってことなのかな。


「じゃあ……完全に消滅させる、とか」

「素晴らしいアイデアだ、四条君。だけどどうやって消滅させる? この石の反物質でも持ってくるか? 蒸発でいいんなら、水素爆弾でもなんとかなると思うが」


 えーと……何を言われているのかは分からないですけれど、消滅させる、っていうのが非現実的だっていうことはなんとなく分かりました。


「あと、蘇我さんもどうにかしないといけませんよね。一生「石」に魅了されたままの人生なんて、そんなの可愛そうすぎます」

「……………………」

「……………………」


 私の言葉に二人はぽかんとした表情を見せていた。


「あ、あれ? ごめんなさいっ、ちょっとずれたこと言っちゃいました……」

「いや、いいんだ。ガールはその素敵な心を忘れるな。俺やソウジがいつの間にか落としてもう拾えなくなってしまったものだ。こんな仕事を続けていると、みんなそうなってしまう」


 ゲイリーさんに優しく褒められて、私は恥ずかしさで顔が真っ赤になってしまった。

ちなみに葉山君は私の発言に対して何も言わない。きっと、私の甘さが嫌になってるんだろうなあ。


「しかしソウジ、実際のところどうするつもりだ。何やら昨日動いていたのは知っているが、こういうときのために手を打ってあるのだろうな」

「まぁな……どうするかは一応考えてある。用意してほしいものが一つと、身辺調査をしてほしい人間が一人、だ」

「ほう、組織の方から手を回しておこう。何と、誰だ?」

「用意して欲しいものは、犬だ。犬が一匹」

 ……え? 犬? どうして?



「それと俺の担任の田島先生の身辺調査をしてくれ。大至急だ。詳細は後でメールする」



 ……え? 田島先生の?



・・・・・・・・・・



 「石」が再びおれの手元に戻ってきた。

 月曜日から今日までおれは日がな一日「石」を眺めていた。今日も朝から眺めているが、全く飽きることはない。

 言葉にならない。この美しさを表現する言葉をおれは知らない。どんなに素晴らしい文学者がどれほど華美で瀟洒な美辞麗句を並べても、決してこの「石」の素晴らしさを表現することは出来ないだろう。百万の並べ立てられた美しい言葉は、一瞬眺めるこの石の魅力に負ける。この石の魅力をどう伝えればいいのか。

 言葉にならない。

 言葉じゃ足りない。

 言葉はいらない。

 この「石」の素晴らしさ、美しさを伝えたいのならば、この「石」を直接見せてやるしか方法はないだろう。

 ……だが、いつまでもこの「石」を眺めてばかりもいられない。

 おれはこの「石」を守らなければならない。葉山から。家族から。あらゆる外敵から。

 葉山はこの「石」を守る良いヒントをくれた。誰にも触れない金庫に入れてしまうというのは良いアイデアだ。中の「石」を誰かが欲しがっても、おれが口を割らなければ絶対に手に入れることは出来ない。このおれには葉山以上に「石」を守る覚悟がある。絶対に誰もおれの口を割ることは出来ないだろう。

 明日になったら金庫を買いに行こう。丈夫で持ち出せず、決して開けられない金庫。そのための資金は葉山が用意してくれた。ありがたいことだ。「石」を捨てた上に、金まで無駄にするとはな。哀れなやつだ。

 ……と、おれが明日金庫をどこで購入するか計画を立てていたとき。おれのスマホが音を立てて振動し始めた。


「この番号は……!」


 忘れもしない。

 先日、警察関係者を名乗っておれに掛けてきた番号。つまり……!

 おれはスマホの画面をスワイプしてそのかかってきた電話を取る。


『よう、今日も一日、そのちんけな「石」を眺めてたのか?』

「葉山……!」


 葉山。開口一番、おれを最も不快にするセリフを吐く。あれだけ殴ってやって、歯も何本も折れていたはずだが、その声色にはケガをしているような素振りは見られない。

 ……というより、おれが「石」を取り戻したことをもう既に知っているのか。おれは尾行されていたのか?


「……可哀そうなやつだな、葉山。この「石」の魅力に気が付かないなんてな」

『可哀そうなのはお前の方だよ。気づいてないのか? その「石」に触ったやつは「石」の虜になっちまうんだ。自分の意志に関わらずな。お前の友達の一家もその「石」に心を奪われて殺し合いにまで発展したんだよ』

「………………」


 なに……? 「石」に触ったら、虜になる……?

 確かに思い返せば、あのファミレスでおれがこの「石」に触れた瞬間から、おれは「石」の魅力に気付いた。「石」に触ったことで、おれはこの「石」に心を操られたとでもいうのか?

 そして、この「石」のせいで加藤一家は殺し合いをした、だと……?

 辻褄が合わない話ではない。この「石」はそもそも加藤から送られてきたものだし、おれだってこの「石」を隠されたらその相手をどうしてしまうか分からない。葉山のことだって、金庫のことがなければ殺していたかもしれない。


『悪いことは言わねえ。その「石」を俺に渡せ。お前はその「石」に操られてるだけだ。「石」に操られたまま過ごす人生なんて虚しくないか?』

「………………」


 おれが「石」に操られている。

 いや、だが、そうだとしてもこの「石」が素晴らしいことには変わりない。おれが「石」を愛していることに違いはない。「石」はおれの心を操っているのではなく、自分の魅力に気付かせただけだ。


「「石」は絶対に渡さない。絶対だ」


 仮に、おれがこの「石」に操られていたとしても、もうおれはこの「石」がない生活など考えられないし、「石」と離れたくない気持ちは変わらない。変えようがない。


『だろうな。まぁ、そう言うと思ったよ。仕方ねえな』

「なんだ……? 無理やりにでも奪い返す、とでも言うつもりか? もう二度とおれはお前に「石」を渡すつもりはない」

『お前、アドミニストレーターズを舐めてるな? 俺たちが本気でその「石」を奪うとなったら、どんな強固な金庫使ったって無駄だよ。例え銀行の金庫に入れたって破ってやるよ』


 試してみるか? と葉山は不敵に呟く。


「……っ!」


 おれが金庫を使おうとしているのが見透かされている。

 ……確かにこいつの組織は得体が知れない。警察との繋がり。あの「石」にぽんと二百万円以上の金をすぐに払えるほどの資金力。あれほどの金庫をただの調査員とやらがたくさん保持している事実。あの「石」が普通じゃないのはおれにも分かる。こいつらはそれを調査している組織で、それほどの力を持っていたとしても不思議ではない……。


『はは、いや、悪い。我ながら今のは最高に格好悪いセリフだったな。自分の力じゃなくて組織の力を自慢するなんてな。悪い悪い。俺たちはそういうことが出来るけど、俺はしない。安心しろよ』

「じゃあなんだ。「石」は諦めるとでもいうのか」

『まさか。ここは一つ、ゲームで決めないか?』

「ゲームだと……?」

『ゲームで俺が勝ったら「石」は貰う。お前が勝ったら俺は「石」を諦める』


 ……こいつ、何を考えてる? どうしてゲームで勝負しなければならない?


『お前、得意だろ? そういう勝負。ファミレスで話したときから透けて見えてたぜ。お前が他人のことを馬鹿だと思って見下してること』

「…………!」


 見透かされている。

 別に自分が優秀であることを隠してきたわけではないが、自分の内面をえぐられたようで動揺が走る。


「お前も、おれと同類か? 他人が馬鹿に見えて仕方がないタイプなのか?」

『馬鹿言うな。俺はお前とは違う。他人を見下したことなんてねえ。……まぁ、そんなことはどうでもいいんだよ。ゲームの話だ。言っておくが、これは強制だ。お前に拒否権はない。拒否するなら、アドミニストレーターズの方法で「石」を手に入れることにする』

「本当に、おれがそのゲームに勝ったら「石」を諦めるんだな?」

『約束しよう』

「……どんなゲームだ」

『これか十五分後、俺はお前のことを追いかけ始める。追いかけて、「石」を奪う。お前は必死こいて俺から逃げればいい。時間切れの時点で「石」を持っていた方の勝ちだ。簡単だろ? つまり鬼ごっこみたいなもんだ』


 鬼ごっこ……? 正気か? 


「一つ確認したい。追ってくるのはお前だけか?」

『ああ、俺だけだ……いや、強いて言うなら四条とあと一人、同僚が一緒のときもあるが、安心しろ。別行動はしねえし、直接お前と接触するのは俺だけだ。人海戦術なんて使う気はねえよ』

「どこに逃げてもいいのか? 乗り物を使っても?」

『ああ、好きにしろ』


 こいつ、正気か? 乗り物を使って逃げる相手を、本気で捕まえられるとでも思っているのか? しかも、一人で、だ。一体どんな手段を用いればそんなことが可能なのか、おれには全く分からない。


『そうだな。制限時間は二十四時間にしよう。これから十五分後……正確には十七分後の午前十一時からスタートして、明日の午前十一時がタイムリミットだ。その時点で「石」を持ってた方の勝ち、だ』


 は? 二十四時間だって……? 正気か?


『さて、それじゃあ質問はないか? ないみたいだな。それじゃあ、十五分後にゲームスタートだ。また会おう。健闘を祈る』


 おれが質問を探して黙っていると、葉山は一方的に話を打ち切って通話を終えた。

くそ、猶予はたったの十五分か。十五分ではギリギリ駅まで行けるか行けないか……いや、駄目だ。やつはそれくらい予想しているかもしれないし、駅に辿り着いても電車が来るまでのタイムラグがある。その間に追いつかれたら一巻の終わりだ。

 タクシー……も、十五分で来れるかどうかは微妙だ。それに、今、タクシーに上手く乗れたとしても、乗るところを見られてしまったら意味がない。葉山が車を使っていたら、そのまま後ろにくっつかれて結局追いつかれてしまう。

 ……こうして迷っている間にもどんどん時間が迫ってくる。残りあと十二分。くそ、葉山は一体どこから追いかけ始めるんだ。それを聞いておけばよかった。

 落ち着け。落ち着くんだ。

 ……冷静に考えろ。おれは普通に自転車で逃げればいい。自転車でどこか遠くに逃げれば、やつはおれのことを追跡しようがない。下手に駅なんかに行ってしまうと、そこから足が付く可能性がある。ファミレスのことから、やつは警察と結託している可能性がある。警察は駅の防犯カメラをリアルタイムで使う権限がある。銀行の金庫だって破れると豪語した葉山の組織なら、それくらいのことはやりかねない。つまり、おれが指名手配犯扱いされている可能性だ。どれだけ遠くに逃げても逃げた先が筒抜けになってしまっては意味がない。同じ理由でタクシーを使うのも控えた方がいい。この日に備えて、各タクシー会社におれの人相を通達されている可能性がある。

 ならば土地勘のあるこの辺りを逃げた方がまだマシだ。なんせやつは一人なのだ。入り組んだ路地を通りつつ逃げれば車やバイクでの追跡も降り切れるので、やつは絶対におれを追跡出来ないじゃないか。

 やつの脚力が如何ほどのものかは知らないが、高校時代に陸上部に所属していて長距離で県大会まで出場したことのあるおれに適うとは思えない。

 それだけでいい。いや、それだけでいいだと?

 そもそも葉山は一体どうやっておれのことを追いかけるつもりだ? 常識的に考えて、範囲のない鬼ごっこなど成立しない。一対一では、逃げる側が圧倒的に有利すぎる。あいつはそんな勝算のない勝負を挑んでくるようなやつか?

 奴にはどうにかしておれの居場所を特定する方法があるのか……?

 まずはそれを考えろ。逃げるのは五分前からでいい。

 さっきも思ったが、あいつは警察にコネクションがある。なら、街中に設置されているライブカメラを使える……? いや、あいつは一人だけなのだ。リアルタイムの鬼ごっこでそれはあまり有効な手段には成り得ないはず……。

 警察……。警察か。

 そうか……そういう手を使ってくる可能性はあるな。

 頭の中に閃くものがあった。やはりおれは冴えている。

 おれは「石」を掴んでバッグの中に入れ、必要な荷物を手早くまとめると、両親に今日は帰らない旨を告げて家を飛び出す。なんやかんや背後で両親が言っていたが、非常事態だ。おれはその言葉を無視した。そもそも、何を言っていたのかもよく聞いていない。おれは外に出て自転車で走り出す。

もちろん、胡椒は持ってきた。



・・・・・・・・・



 水曜日。私があの石を捨ててから三日。蘇我君があの「石」を取り戻してから二日が経った。今、私は葉山君の部屋に居て(学校、初めてサボっちゃいました……うう)。

葉山君は私の目の前でベッドに寝転がりながら蘇我君に電話を掛けたあと、寝ころんだままベッドサイドに置いてあった漫画本を読み始めました。


「……って、蘇我君のことを追いかける準備しなくていいんですかー!」

「いいよまだ……ゆっくりしてろよ」


 この人、十五分後に追いかけ始めるって言ってたのに。全くそんな素振りないじゃないですか……嘘つき。

 十五分後と聞いて、私は一生懸命出掛ける準備を整えたのに、馬鹿みたい。ああもう、こんなことしてる間にも蘇我君はどんどん遠くへ行ってしまうかもしれないのに……!

 ていうか、蘇我さんもあんな真面目な話をこんな風に寝ころびながらされてるとは思いもしなかったでしょうね……。この人、通話しながら鼻毛抜いてましたよ。

 そして、追いかけ始める約束の十五分はとっくに経過して。さらに時計の長い針が四分の一回転ほどしたとき。


「ん……そうだ」


 葉山君は漫画本を閉じて枕元に置くと、寝ころびながらスマホを操作して何かを確認し始める。


「出発ですか⁉」


 ようやく葉山君が動き出したことで、そわそわして落ち着かなかった私も立ち上がったのだけれど。


「いや、明日の天気が気になってな……」


 ずこー。


「そんなこと気にしてる場合ですか!」

「大事なことだ。雨だったら大変だろ」


 そりゃ雨だったら追いかけるの大変かもしれないですけど! 今気にすることですか⁉

 ……それからたっぷり一時間後。

 もうどうなったっていいや……と思って、私も床の絨毯の上に寝ころんでクッションを枕にしつつ葉山君の家にある本棚から適当に漫画本を取り出して読みふけっていたとき。

 ピンポーン、と葉山君の家のチャイムが鳴って、誰かがやってきた。


「葉山君、お客さんですよ?」


 チャイムが鳴ったのに寝ころんだままの葉山君に私は言う。


「……お前出ろよ……。新聞勧誘だったら断れ……」


 葉山君は仰向けに寝っ転がって漫画雑誌を顔に被せたまま、機嫌が悪そうに言う。


「え、なんで私が出なきゃいけないんですか?」

「俺が……眠いからに決まってんだろ……」


 葉山君は今にも眠りそうな声でそんな我儘なことを。私が怒るべきかどうするべきか迷っている間にも、もう一度チャイムがピンポーンと部屋に鳴り響く。

 もー、しょうがないなぁ……。微動だにしない葉山君を見て、仕方なく私は玄関へ向かう。……って、もしここで玄関の外に居るのが葉山君の彼女だったら修羅場になるよね。葉山君って彼女とか居るのかな。

 私は自分がした想像になんとなくもやもやした感情を抱いてしまいながら、玄関のドアを開ける。


「あら~? 汐音ちゃ~ん?」


 ドアの外に居たのは、心配していた通り女性だった……けれど。


「あ、えっと……鬼瓦さん? こんにちは」


 しかも会ったことのない女性だったけれど、聞いたことのある声だし私の名前を知っていたので誰なのかはすぐに分かった。声のイメージ通り、おっとりとした甘めの大人の女性で……身長は少し高めでやせ型だけど……その、む、胸が大きいです。完全に負けている……っ。


「あらあら、おうちデート中だった~? ごめんね~、お邪魔しちゃって~」

「いえ、そういうんじゃないです。今日から蘇我さんの「石」を取り返す作戦を始めるって言ってたから、私も最後まで手伝いたくて……」

「うふふ、冗談よ~。私はそのための秘密兵器を持ってきたの」


 これ、と言って、鬼瓦さんは足元に置いていた大きな……大きな、なんだろ、カゴ?を手に持って差し出した……その中には。


「あ! わんちゃんだ! 可愛いー!」


 それは持ち運び用のケージで、中には柴犬が入っていた。普通の柴犬より小さいけど、まだ子供なのだろうか。それとも、小さい豆柴っていう犬種?


「あー……ようやく来たか。おせえぞ」


 と、私がケージの中の犬をしゃがんで眺めていると、後ろから寝起きの葉山君が頭を掻きながらやってきた。


「これでも急いできたのよ~? ソウジ君、無茶ばっかり言うし~。私、種子島帰りなんだからね~?」

「悪い悪い……だけどまぁ、これで全部準備は出来たな」

「ということは……?」


 私が葉山君の準備が出来た、という言葉に期待を込めて言うと。


「これから蘇我のやつを追いかける。その犬を使ってな」



・・・・・・・・・



 おれが家を飛び出してから四時間が経過した。時刻は午後三時。タイムリミットまで残り二十時間。

 最初は必死に逃げ回っていたおれも、これは体力を無駄にしているだけだということに気付き、二時間前からおれは大きな市民公園の広い道路で自転車に腰かけたまま待機している。

 この場所は三百六十度全方位の視界が開けているので、誰か怪しい人間が近寄ってくればすぐに分かる。もちろん、葉山が変装をしている可能性も考えて、近寄ってくる人間の全てからおれは一定以上の距離を置いている。

 それにしても、葉山が追ってくる気配はない。まさかあいつは無策だったのか? やつが追ってくるあらゆる方法をシミュレートしていたが、ひょっとしておれはあいつを過大評価していたのか?

 ……いや、油断するな。やつはおれが油断したところを狙っていると思え。悔しいが、葉山は頭が切れるし度胸もある。それを認めるところから始めろ。だが、おれの方が頭は切れる。それは絶対だ。このゲームに勝ってそれを証明してやる。

 ……それからさらに三十分が経った頃。道の遠くから、犬を散歩している男がやってくるのが見えた。

 まだ遠くにいて、顔ははっきりしない……だが、おれは犬を連れてくるやつを一番警戒していた。だから、目を凝らしてそちらの方をじっくりと眺める。少し速足でこちらに近づいてくる男……そして、その後ろの女性。

 ……あれは葉山だ。間違いない。後ろの女性は四条さんだ。


 やはり犬か! おれの予想通りだ。奴らは警察犬を使っておれを追いかけてきている!


 葉山達が近づいてくる。もうあちらからおれのことを視認されているのか? 分からないが、おれは鞄の中から慌てずに胡椒を取り出すと、自分の身体にふりかけ、そして自転車を発進させながら道に胡椒を巻く。

 やつが警察犬を使ってくるのは読めていた。駅に逃げれば防犯カメラで。タクシー会社にも手を回して、直接逃げれば警察犬を使う。

 おそらくはそれが葉山の考えた必勝法だろう。だが、その必勝法は破綻する。おれは奴の手口を読んでいた。警察犬は胡椒を巻かれるとその鼻が機能しなくなり、目的を追うことが出来なくなるのだ。

 おそらく奴は前におれの部屋に忍び込んだ時か、あるいはおれのゴミか何かからおれの匂いが染みついたものを用意しておいたのだろう。

 なるほど、その先を読む力、慧眼と言える。だが、おれは葉山の一つ上を行った。もうやつは、おれのことを追うことは出来ない。

 勝った。おれは笑みを浮かべつつ自転車を走らせる。




 市民公園で葉山と遭遇してから三時間。現在時刻は十八時半。タイムリミットまであと十六時間半。もうすっかり日が暮れた。

 ……おかしい。

 あれから葉山は四回。四回、おれのことを捕捉してきた。

 十メートル以内に接近されたことはないが、ことごとくおれの居場所を特定して接近してくる。どうやら葉山は、車で途中まで移動して、おれが近くにいることが分かったら車を降りて犬を使って追いかけてくるようだ。

 しかし、どうやって?

 犬の鼻は胡椒で無力化しているはず。なのにどうやっておれのことを追える? ひょっとしてGPSで位置を特定されているのかと思い、スマホは電源を切っておいた。だが、それでも葉山はおれを追ってくる。

 どうやって? どうやって? 混乱しながら自転車を漕ぐ。

 くそ、もう何時間自転車を漕いでいるんだ。足がもつれてきた。今おれは、どことも知れない場所を自転車で走っている。何しろ夢中だったので、ここがどこなのかも分からない。左に学校……おそらくは小学校?が見える道をひたすら走る。

 そして、進行方向、三十メートルほど先で車が止まるのが見えた。あの軽自動車は葉山が乗っている車だ。正面から止まるのを見て、運転手が女性……四条さんとは違う女性だということが分かった。

 だがそんなことはどうでもいい。直接おれに接触してくるのは葉山一人というルールだ。葉山のことだけ気にしていればいい。

 おれはブレーキをかけて自転車を止めると、進行方向逆に車体を翻して、反対方向に進む……はずだった。

 がしゃあん、と大きな音がして、自転車が倒れる。倒れた自転車は後輪を空転させて、住宅街にカラカラという虚しい音を響かせる。

 ……くそ。足がもつれて転んでしまった。まずい。立ち上がるも足ががくがく震えている。とてもじゃないが、今の状態で自転車を走らせたり走って逃げたりするのは分が悪い。

 葉山の方を見る。車から降りて、犬と共におれの方に向かってくるのが見えた。まずい。どうする……。

 おれは窮余の一策で左の小学校の網のフェンスによじ登る。そのフェンスは二メートルほどだったので、よじ登るのはそう難しいことではなかったが……フェンスの先端がこちら側に返されていて、上部を有刺鉄線でガードされていた。


「ぐ……つっ!」


 おれはその有刺鉄線を覚悟を決めて両手で掴み、勢いをつけて自分の身体を持ち上げると、反対側に自分の身体を強引に持っていく。その途中で有刺鉄線が身体を引っ掻いて傷を何か所かに作ったが、おれはそんな痛みなど意に介さずに学校内……校庭に逃げ込む。

 「石」を奪われる苦しみに比べれば、身体の痛みなんていくらでも耐えられる。おれは血のにじむ手を握り締めながら、追いつかれないよう、夜の小学校の校庭を走る。

 走る。走る。息が切れて、足がもつれそうになっても走る。

 走りながら葉山がどのくらいまで追ってきているかを確かめるために、後ろを振り返る。


「…………?」


 葉山は……追ってきていない。何故だ。今、追われたらかなり危なかった。犬はきっとあの網フェンスを乗り越えることは出来ないだろうが、葉山はおそらく越えようと思えば越えられたはず……やつは車で移動しているので体力は十分にあるはず。

 ……何故なのか。まさか、有刺鉄線で手や身体が傷つくのが嫌だったなどということはあるまい。以前の奴の覚悟の決まり方は尋常じゃなかった。

 理由は分からないが、どうやらおれは助かったらしい。



・・・・・・・・・



「あ! 蘇我さん、フェンスを越えて逃げましたよ!」


 葉山君が犬と一緒に蘇我君を追いかけ始めて、蘇我君が転んてしまい、もう少しで追いつきそうになったとき。

 蘇我君はなんと、網のフェンスを乗り越えて小学校の中へと逃げだした。え、あのフェンス、有刺鉄線がついてるのに……!


「……………………」


 葉山君は蘇我君がフェンスを登った場所まで追いかけると、立ち止まってフェンス越しに蘇我君の背中を眺めている。


「お、追わないんですか⁉」


 蘇我君は正直、疲れているのか、足を半分もつれさせながら逃げている。今、追いかければ捕まえられるかもしれないのに。


「腹減ったな……」

「はぁ⁉」


 葉山君はお腹を押さえながら立ち尽くして、まるで追おうとする様子を見せない。お、お腹が減ったとか、今そんなこと気にしてる場合じゃないのに!

 葉山君がリードで繋いでいるわんちゃんだけが、蘇我君のことを追おうと吠え喚いている。


「それにめんどくせえ……。この有刺鉄線越えるときケガするだろ、絶対。犬も連れていけねえし」


 葉山君は吠えるわんちゃんを抱きかかえると、逃げていく蘇我君に背中を向けて車に戻っていく。

えー、えー、えー……。

 この人、寝ればどんなケガでも治るくせにケガするの嫌なんですか……。


「お前ひょっとして、寝れば治るのにケガするのが嫌なのか、って思ったか? ケガしたら普通に痛いんだぞ、俺も」


 そりゃそうかもしれないですけど。なんというか、こう……。


「とりあえずメシ食いに行こうぜ。この犬も走らせすぎて可愛そうだ」


 そう。なんだか葉山君には必死さが足りない気がした。これは余裕というものなのかな。

 校庭の中の蘇我君を見ると、もう豆粒ほどの大きさになっていて。

 どうやら蘇我君は葉山君のやる気のなさに救われたみたいだった。



・・・・・・・・・



 学校で葉山を撒いてからさらに一時間半。現在時刻は二十時。タイムリミットまであと十五時間。もうそろそろ夜も更けてくるこの時間。

 あの後、自転車を失ったおれは、葉山がいないことを確認しながら学校から外に抜け出して、ちょうどやってきたバスに乗り込んだ。そうだ。バスに乗ってしまえば、もうあの犬はおれの匂いを追跡することは出来ない。胡椒が警察犬に効く、というのは俗説だったのかもしれない。葉山の連れていた犬は、胡椒などものともせずにおれのことを追いかけてきた。

 そのまま、バスに揺られて一時間。とりあえず足を休めつつ、おれは終点のバス停で降りると、昼間から何も食べていないことを思い出し、近くにあった国道沿いのコンビニで簡単に食べられるおにぎり二つと水分補給のための水、そしてケガをした手を治療するための絆創膏を買い、イートインスペースで手の治療したあと、食事をする。

 ……とりあえず、もう大丈夫だ。スマホのGPSで追われることもない。犬に追跡されることもない。コンビニの防犯カメラは警察でもリアルタイムで見ることは出来ない。

 おれはゆっくりと買ったコンビニのおにぎりを咀嚼しつつ考える。ここは一体どこなのだろう。どこかも分からない場所からどこに向かうかも知れないバスに揺られて全く知らない街に来てしまった。スマホの電源を入れるわけにはいかないので、この場所が一体どこなのか知るすべもない。だが、今はそんなことはどうでもいい。このイートインスペースで出来る限り時間を潰そう。

 それからおれは、考え事をしているうちにそのイートインスペースで二時間ほど眠ってしまったらしい。店内の時計を見ると、そろそろ時刻は二十一時五十分。……どうやら、このイートインスペースは二十二時までの解放らしい。

 くそ、このまま明日の昼までここに居てもよかったのだが、そうはいかないか。仕方ない、近くのファミレスにでも行くか……と思い、コンビニの自動ドアの前に立って、ドアが開いたとき。


「「あ」」


 そこで葉山と遭遇した。思いがけないエンカウントに二人で揃って間抜けな声をハモらせてしまった。

 心臓が止まるかと思った。

 葉山との距離は五メートルなかった。おれは犬を連れている葉山の姿を見た瞬間、その横をすり抜けて脱兎のごとく駆け出した。


「まぁーてぇー! ルパーーン!」


 そんなことを叫びながら追ってくる葉山。く、ふざけたやつだ……! だが、先ほどの校庭のときとはおれのコンディションが違う。おれは必死で二車線の国道を走る。持久力には自信がある。振り返ると、葉山は十メートルほど後ろを付いてきている。相変わらず犬を連れている。なぜだ。葉山の顔には傷一つ見えなかった。あれだけ殴ったにも関わらず、だ。もう治ったとでも言うのか? そんなことは普通あり得ない。あの男は何かがおかしい。

 くそ……どうしてあいつはおれの居場所が分かる⁉ 普通の警察犬ならばおれの位置を突き止められるはずはないのに! 

 まさか奴は人工衛星からおれを覗いてるとでも言うのか……? いや、まさか、奴の組織にいくらなんでもそこまでの力はないと思いたい。そうだとしたら、おれは勝ち目のない勝負を挑んだことになる。

 くそ、くそ、くそ! どこに逃げても葉山はおれの居場所が分かるのか! 一体、どうすればいい? おれは訳が分からなくなって、国道沿いの雑木林の中に逃げ込む。

 このまま国道を逃げ続けても葉山を振り切れるヴィジョンが湧かなかった。もしも奴が衛星からおれのことを見張る術を持っているのなら、雑木林の中に逃げ込むのは有効な手段だと思われた。何しろ、この雑木林の中は暗闇だ。

 無我夢中で、足元の草と落ち葉を掻き分けて走る。出来るだけ入り組んだ道を。坂を。時折転びながら、薄い月明かりだけに照らされた闇の深淵に落ちていくかのように、都会の雑踏から離れて、山に入っていく。

 どれだけ逃げただろうか。肺が悲鳴をあげて、もうこれ以上は身体に酸素を送り込めない、というところまで追いつめられたところで立ち止まり、背後を振り返る。

 ……葉山は追ってきていない。追ってきていないはず。

 息を押し殺して周りの音に集中する。

 足音が聞こえない……。時折風が吹いて木々のざわめきが聞こえる。そして遠くから微かに聞こえる鈴虫の鳴き声。この枯れ葉だらけの雑木林を音を立てずに歩くのは不可能のはずだ。

 暗闇の中で葉山の姿を目視はできない。音だけが頼りだ。しかしそれは相手も同じはず。

 恐ろしい。これほどの恐怖を感じたことはこれまでの人生で一度もなかった。

 理解不能の葉山の力。段々と追い詰められていく自分の身体と神経。「石」を奪われることへの恐怖。砕かれていくプライド。揺らぐ自信。薄らいでいく自尊心。嫌だ。嫌だ。負けたくない。葉山にだけは負けたくない。

 ここで葉山に負けたら、自身のレーゾンデートルさえも失われる気がした。自分の最も憎悪する男が、自分よりも上だなどとは絶対に認められない。「石」を奪われることの次にそれが恐ろしい。

 残り時間が何時間かは分からない。

 おれはその夜、一睡もせずに木に寄りかかったまま、葉山が忍び寄ってくる恐怖と戦いながら一夜を過ごした。


 だが葉山は来なかった。


 そして夜が明けた。



・・・・・・・・・



「はー、はー……や、やっと追いつきました……そ、蘇我君は?」


 私が国道を走っていった葉山君に追いついたとき。葉山君は国道沿いの歩道に立ち尽くしていて。


「ここに逃げて行った」


 葉山君は国道沿いの雑木林を指さして呟いた。


「ここに? 追わなくていいんですか?」


 葉山君が指さした雑木林は、夜の闇を体現したかのような漆黒の空間だった。ここに逃げたんだ、蘇我君……危ない。私なら絶対入りたくない。


「は、早く追わなくちゃ」

「んー……いいわ」

「えっ、でも、追わなくちゃ捕まえられないですよ?」

「懐中電灯持ってねえしな。こんな夜中に真っ暗な雑木林に入っていくとか正気か? その奥で首つり自殺でもするつもりか?」

「ちょ、ちょっと待って。でも、蘇我さんを捕まえないと「石」が取り返せないですよ。追わなきゃまずいですよ」

「じゃあ、お前が追うか?」


 ほれ、と葉山君はわんちゃんの手綱を私に押し付けようとしてくる。う……この雑木林を懐中電灯もなく追うのか……私は躊躇して、とても手綱を受け取れる気分にはならなかった。


「自分が出来ないことを人にやらせるもんじゃないぞ、四条君」


 ははは、と葉山君は笑う。


「じゃ、じゃあどうするんですか? 他に何か手でも……」

「帰る。寝る」


 そう言って葉山君は身を翻すと、雑木林の中に入っていきたそうなわんちゃんを抱っこしてコンビニの方へ戻っていく。


「えっ! ちょ、ちょっと! 寝るってどういうことです⁉」


 私は慌てて葉山君のことを追いかけるとその横に並ぶ。いいなぁ、小っちゃいわんちゃん可愛い。私も抱っこしたい……って、それは今はいいんですけど。


「もうそろそろ遅い時間だからな……結構走ったし、疲れて眠くなってきた。お前も鬼瓦に送らせるから、さっさと家に帰れよ。親に心配掛けるな」

「う……それは、私はそうですけどー……」


 私は確かにもうすぐ二十二時だから流石に帰らなきゃまずいのだけど(学校もサボって夜遊びして、悪の道に進みかけてます)、葉山君が帰るのはおかしいんじゃ。もっとガッツを見せて欲しいんだけど。なにがなんでも「石」を手に入れるっていうガッツを。

 ていうか葉山君にそんな常識人みたいなことを言われるとは……屈辱。


「大丈夫だ、明日の天気は晴れみたいだしな」


 葉山君はさっきご飯食べてるときも天気のことをしきりに気にしていたけれど、一体何が大丈夫なのだろう……。

 あー、きっと蘇我さんは、葉山君がこんなにやる気ないなんて思ってないんだろうなあ。今頃きっと、雑木林の中で怯えてぶるぶる震えてたりして。

 なーんて、そんなことないか。



・・・・・・・・・



 夜が明けて何時間が経っただろうか。

 まだおれはこの雑木林から動けないでいた。

 極限状態。

 限界を超えた緊張と恐怖。肉体的疲労がピークに達していて今までに感じたことのない疲労感に身体と精神が苛まれている。だが、全く眠くない。おれは神経を研ぎ澄ませて近くから聞こえてくる音……人の足跡を聞き分けている。「石」は誰にも渡さない。そのためなら、このくらいの苦労など苦労ではない。「石」を失ったときの喪失感をもう一度味わえというのか。そんなことはもう二度とごめんだ。

 もうかなり日が昇ってきた。あと、どのくらいの時間「石」を守り切ればいいのだろう?

 ……スマホの電源はもうしばらくの間ずっと切ったままだ。だが、もういいだろう。葉山はスマホのGPSなど関係なくおれの位置を知る術があるのはもう明らかだった。

 スマホの電源ボタンを長押しして、スマホに久方ぶりに光を灯す。ディスプレイが発光してしばらくすると、ホーム画面が表示されて、同時に時刻も映し出される。

 現在の時刻は午前十時五十六分。

 ……十時五十六分?

 つまり、残り時間はあとたったの四分。


「…………っ!」


 たった四分! おれは跳ね上がった心臓の鼓動を抑えながら、辺りを見渡す。……誰もいない! あと四分! おれが「石」を守ればそれでおれの勝ちだ!

 そう言っている間に残り時間はあと三分。

 これまで以上の緊張感……最後の力を振り絞って意識を周りに向ける。もちろん、寄りかかっている木の上にも気を配る。……よし、大丈夫だ。誰も居ない。

 残り二分。

 「石」が入っているバッグを前に抱える。今から葉山がこれを奪いに来ても、二分間だけ絶対に粘れるように。それと同時に、すぐ逃げ出せるように周囲への警戒ももちろん怠らない。

 残り一分。

 人生で一番長い時間だった。まるでマラソンをしているときのように時間が進まない。十秒が五分にも感じるほどの長く苦しい時間。

 残り三十秒。

 もう勝ったも同然だ。葉山が今から「石」を奪いにきても、たったの三十秒では物理的におれから「石」を奪うことはできまい。

 残り十秒。九、八、七、六、五、四、三、二、一……。

 零。


「勝った……」


 スマホの中の時計の時刻は、午前十一時を越えて時を刻み始める。

 おれは脱力してその場に座りこむ。もう葉山の陰に怯える必要はないんだ……おれは葉山に勝った。

 何故、葉山が雑木林に隠れたおれを追いきれなかったのかは分からない。本当に衛星を使っていたのだろうか?

 ……まぁ、今となってはどうでもいい。

「石」を守れたこと。葉山に勝ったこと。

おれの身体と精神は極限まで摩耗していたが、その二つの事実がそのすり減った心を癒していくかのような幸福感に包まれてもいた。

 ……と、おれが脱力して座り込んでいると、スマホが振動をし始める。誰かからの着信だ。親だろうか。そういえば全く連絡していなかった……いや、違う。この番号は。


『よう、元気か? ゲーム終了。お疲れさん』

「くく、くくくくく! ははは! あーっはっはっは! はははははははは!」


 葉山はいつものように偉そうにそんなことを言う。おれに負けた悔しさなどおくびにも出さずに言ってきたが……必死に虚勢を張っているのが見え見えだ。


「残念だったな! 勝負はおれの勝ちだ! 悔しいか? 本当は悔しいんだろう? ははははは! 「石」はおれのものだ! 「石」に選ばれたのはおれだ!」

『……ん?』


 そうだ。この結果は結局「石」を持つのに相応しいのはおれだということの証明だ。葉山はおれのことを追いきれなかった。捕まえきれなかった。


「お前には足りなかったんだよ! 「石」に対する情熱、愛情、執着、精通! 全ておれの方が上だった! そういうことだ!」

『あー……』

「お前よりおれの方が上だ! 結果が証明している! おれはお前に勝った! 所詮はお前もその程度ってことだ! 約束どおり「石」は諦めてもらうからな! お前は「石」を持つに値しない男だからなぁ!」

『あー、すまん、お前、まだ気づいてないのか?』

「あ?」


 葉山は声色を変えず……というよりも、何か気まずそうにそんなことを言う。


『自分の荷物、まだ確認してないのか。「石」が本当にそこにあるのかどうかを』

「何……?」


 そういえば。

 勝負が終わってからおれはまだ「石」があるのかどうかを確認していなかった。

 いや、それこそがやつの作戦なのでは? 実はまだ時間は十一時になっておらず、ここでおれが自ら「石」を取り出したのを狙いに来るという……。

 おれは辺りを見回す……が、誰も居ないのは間違いなさそうだ。


『お前、ひょっとしてまだ俺がお前の持ってる「石」を狙ってるとでも思ってんのか? 安心しろ。もう十一時はとっくに過ぎてるし……それに、そんなことは必要ねえんだ』

「…………?」


 葉山が何を言っているのか分からなかった。勝負中、やつはおれに一度でも触れていない。「石」を奪えるチャンスがあったわけはないのだ。

 だが、なんだ。この一抹の不安は。

 おれは震える手で自分が抱えていたバッグのファスナーを開けて、バッグの奥に入れておいたはずの「石」を探す……あった。なんだ、やっぱり「石」はあるじゃないか……。

 愛しい愛しい、おれの「石」。指先で摘まんで至近距離で眺める。なんら変わらない神々しさがその「石」から……


「ん……?」


 何かがおかしい。この「石」からは……何も感じない。姿形は同じはずだ。もう何十時間も眺めているので間違いない。おれが家で最後に「石」を眺めていたときと全く変わらない形。美を具現化したような完璧な造形……のはずだったのに、この「石」からは何も感じない。どこが完璧な造形だ? これは、ただの、丸い、石コロのようだ。

 おれがいつもこの「石」から感じていたはずの美、愛、熱。そういったものが全く感じられない……まるで「石」から魂が抜けてしまったかのように。こんなものを愛することは出来ない。こんなもの、その辺りに投げ捨てることだって出来そうだ。

 そのときにおれは悟った。認めたくない事実を認めざるを得なかった。これは「石」じゃない……石だ。

 再び動悸が激しくなる。呼吸が苦しい。

何故だ。いつの間に。おれの知らない間に、葉山はおれから「石」を奪ってただの石とすり替えたとでもいうのか?

目を瞑り、意識を集中させて「石」の場所を探る……。「石」が、どこかとても遠くにあるということが分かる。

少なくとも、今、おれの手元には……「石」はない。それは紛れもない事実で、変えようのない現実だった。


『いやー、すまんな。こうなると、今お前が言ったこと、全部お前に跳ね返るよな。「石」に対する、なんだっけ? 愛情?情熱?が足りない? 結果が証明してる? 「石」に選ばれたのはおれだ、だっけ? なんか悪い……そういうつもりじゃなかったんだが』


 葉山はおれに対して哀れっぽい口調言う。その口調は済まなそうにも思えたが、どこか楽しそうにも聞こえる。まるでおれのことを苛めること自体を楽しむように。


「っ……! どうしてだ! いつの間に、いつの間にお前はおれの「石」をただの石とすり替えた⁉」

「さぁなー。いつだろうなぁ。まあ、ただ一つ言えることは……」


 葉山は楽しそうにそう言いながら溜めを作って真面目な声で呟いた。



『この勝負は、俺の勝ちだ』

次回投稿6/14 21:00

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