ジョアンヌ
翌朝、夜明け前にジョアンヌは食堂を訪れる。
そこには枕を並べて討ち死にした兵士たちが横たわっていた。
そんな中、一人の男性だけが座席に腰掛けて、黒い何か(注1)を飲んでいる。
「救世主様、起きていたのですか」
「だから、救世主様はやめてくれ。和哉でいい」
「それではわたくしのことも、ジョアンヌとお呼び下さい」
「分かった。ところでジョアンヌは甘い物は好きか?」
「嫌いではありませんが?」
和哉は手にしていたコーヒーカップを卓上に戻すと何事か呟いた。
「これを食べな」
その手の皿の上には、黄色いやんごとない代物が載っていた。
「これは?」
「プリン(注2)だ。美味いぞ」
ジョアンヌに渡した以外に、もう一皿を和哉は卓上に用意する。プルンプルンの黄色いやんごとない代物に、ジョアンヌは匙を入れた。
「美味しい」
和哉は初めてジョアンヌの微笑みを見た。そして何故か胸がキュンとする。
「初めて笑ったな」
「あ……」
しまったという表情のジョアンヌも可愛い。
「和哉が優しいからです。わたくしは男の服装をしていますから、優しくされなくて……」
「ジョアンヌって、女なのか?」
随分と間抜けで、失礼な質問をしたと和哉は心の中で舌打ちする。
「地上で生きていた頃、女だと知られると不都合が多くて。こちらではそういうのは少ないですが、習慣は変えられないままに」
「そうか、ジョアンヌがそれで良いなら、そのままで良いんじゃないか」
元四十五歳の大人の余裕である。
「不思議な方ですね。農夫の娘のわたくしには到底及ばない領域です」
「それで、今日はどうすればいい?」
話題を変えようと、和哉は質問を振った。
「和哉はこちらに来たばかりで、要領が分からないのですね」
ジョアンヌは少し考えてから、昨夜と同じように和哉の横へ腰掛けた。
「この世界は東西南北の陣営に分かれて争い合っていますが、我らの本拠地は東の果てにあります」
「図があると分かり易いな。ちょっと待てよ、こんなこともあろうかと、地図を用意していた」
和哉は言いつつ襟口から巻物を取り出す。それはこの世界の地図だった。
「これは、分かり易い地図ですね。わたくしたちの本拠地はここです。南にはヘファイストス(注3)を中心にギリシアの英雄たち、北にはブリュンヒルデ(注4)を中心に北欧の英雄たちが集まっています」
ジョアンヌの説明を聞きながら、和哉は状況を把握しようと努める。
「西は現在、誰がまとめているのか不明です。先日の狼(注5)が暴れた一件で多くの英雄やそのまとめ役が消えてしまいましたので」
「消えた?」
「狼に飲まれてしまいました」
和哉はこちらに来る前の話を思い出していた。
「地図を見る限り、すぐ隣に出る以外は道がないようだな」
「はい、現在はヘファイストスの陣営が占領していますが、守備隊は残っていないはずです」
「じゃあ、今日はそこに攻め込むか」
「そうですね。兵士たちの指揮はお任せ下さい」
ジョアンヌの申し出に、和哉は虚を衝かれた。
「わたくしが主より受けた恩寵は、類い稀な戦術眼です。このお蔭でわたくしは幾度もの戦闘に勝利し、王を即位させることができました」
ジョアンヌの生前の功績のようだ。
「ところが、王の元での勝利は叶わず、わたくしは捕らえられて一方的に断罪され、火焙りとなりましたが、主はこの世界に連れて来る以外はお助け下さいませんでした」
「ジョアンヌは、どういった契約を結んだんだ?」
「契約?」
「その才能を使って、何を達成するって決めたのかだよ」
「わたくしは大天使ミシェル様(注6)から『敵軍を駆逐して王太子を大聖堂(注7)へと連れていき王位に即かしめよ』と言われて……」
「それだな。つまりジョアンヌの契約は王太子を即位させた時点で終わっていたんだ」
「……わたくしもそう思い、故郷へ帰りたいと願いましたが、王様はわたくしに残る土地の解放をお命じになったので、仕方なく」
「その結果が捕虜となり、今に至るって訳か」
和哉は少し間を置いて言葉を続けた。
「確かに酷い扱いだとは思うが、連戦連敗でそれまでの名声を失うよりは、悲劇の主人公にすることで名声を高めるというのが神様の計らいじゃないか?」
ジョアンヌは驚いたように目を丸くしている。
「そう考えると、主の深謀遠慮に感謝しかありません」
長年のわだかまりが消えたのか、ジョアンヌの表情は柔らかく、農夫の少女に戻ったかのようだった。
「和哉はやはり救世主様ですね」
声の想定
・桐下 和哉 鈴木達央さん
・ジョアンヌ 河瀬茉希さん
注1 黒い何か
和哉はモーニングコーヒーを飲んでいた。
コーヒーはアフリカから広まる。当初はイスラム教徒が飲んでいたのでキリスト教会側では忌避する動きもあったが、結局はコーヒーの魅惑に負けて解禁された。
コーヒールンバで歌われる「アラブの偉いお坊さん」とはイスラム教の律法学者のこと。
オスマン帝国から始まるコーヒーハウスは爆発的な流行を伴ってヨーロッパを席巻し、多くの知識層の社交場として発展、フランス革命にも寄与したとされる。
なお、「一緒に夜明けのコーヒーを飲む」という表現は、男女が深い仲になった暗喩になるので注意したい。
注2 プリン
カスタードプリンのこと。
原語のプディングは蒸し料理全般を指し、国際的にはフラン(平べったいケーキ)、クレーム・カラメルなどが通用する。
昨今はプリン好きのアニメキャラなども増えているようだが、おじゃる丸が嚆矢ではなかろうか。
現代日本が舞台の物語では冷蔵庫のプリンを巡って、骨肉の争いや仁義なき戦いなど大惨事が起こるほどの危険な食べ物でもある。
福井県小浜市ではプリンの料理コンテスト「P1グランプリ」が開催されているが、ネット上で「P1グランプリ」を検索すると「プラモデルのP1グランプリ」しか出ないから気をつけろ。
いづれにしても、プリンが美味いのは間違いない。
注3 ヘファイストス
ギリシアのオリンポス十二神の一柱で、鍛冶の神。
ヘパイストスとも呼ばれ、ローマではウルカヌス、ヴァルカンと同一視される。
主神ゼウスと正妻ヘラの子であり、兄弟には軍神アレスと出産の女神エイレイテュイア、青春の女神へーべがいる。
足が悪く、醜い風貌であった為に母のヘラから疎まれていた。
ある日、黄金の椅子を作ってヘラに献上するが、それで母のヘラを拘束。
解放する代償に、自らを我が子と認めることと、美の女神であるアフロディーテとの結婚を要求する。
こうしてアフロディーテと結婚したが、夫婦仲は冷え込み、アフロディーテは軍神アレスと浮気する。
その浮気現場を押さえる為に仕掛けを作り、二人が臥所で抱き合っているところを網で確保。全ての神々に公開した。
アフロディーテと離婚した後、アテナを追い掛け回してもいるが、この話は変態不審者さんなので割愛する。
注4 ブリュンヒルデ
北欧の女神でオーディンの娘。ワルキューレの長女。
神々の契約を破って巨人を殺した為、オーディンによって罰を与えられる。
それは永遠の眠りであって、彼女を守る炎の壁を越える勇者にしか醒まされることはなく、また目覚めさせた勇者に恋するようにされた。
伝承ではジークフリートによって目覚めさせられるが、彼がグンナルと偽っていた為にグンナルと婚姻する。
後にジークフリートの計略を知り彼を殺害して、自らも命を絶つ。
こうした伝承を元に制作されたのがリヒャルト・ワグナーの歌劇「ニーベルンゲンの指環」である。
注5 先日の狼
物語の都合上、多くの神々と英雄たちには消えて頂いた(黒微笑)
注6 大天使ミシェル様
炎の天使ミカエル。ミシェルはフランス語読みで、英語読みはマイケルになる。
堕天使ルシファーを打ち破る天使の長とされることが多い。
9月29日が祝日で、イギリスの大学はこの日を始業日とした。
後ろ姿が美しいので「ミカエル美人」という言葉があるとかないとか。
注7 大聖堂
ランスのノートルダム大聖堂は、フランス国王が即位式を行う大聖堂である。
イングランドとの百年戦争の折はイングランド側に占領されていた。
パリより130kmも離れたランスを、反転攻勢に出たばかりのフランス軍が取り返したのは奇跡と言って過言ではない。
なお大火災を起こしたパリのノートルダム大聖堂は別の建物。こちらはナポレオン一世の皇帝戴冠式が挙行されている。