真っ赤な車
未明、和哉はいつものようにモーニングコーヒーを飲んで、いなかった。
広間の床には痛飲した兵士たちに混ざってモリモットが寝転んでいる日常風景が広がっていたが、和哉の姿はない。
ジョアンヌ、武藤、尾藤らは砦の庭で早朝稽古に汗を流している。その彼らとは別に、外壁上で和哉は竹刀を振っていた。クリスはニコニコ微笑んで、和哉の稽古を眺めている。
「クリス、飽きないか?」
「全然。和哉を見詰めているだけでボクは幸せだよ」
完全な惚気である。和哉は面映ゆい心地だ。
「クリスを守るには、もっと強くならないとな」
稽古の手を止めて呟いた。尾藤との勝負は和哉の中では敗北と位置付けられている。弱点を突く為にジョアンヌに任せたのも、男としての矜恃が傷付いた。
「和哉は、よくやってくれているよ」
そっとクリスが和哉の手を握る。柔らかく温かい手の感触は、和哉の鼓動を高鳴らせた。
「そう言ってくれるのは有難いが、クリスを守れなかったら努力がムダになる」
「ボクは、それでも和哉を恨んだりしないよ」
微笑んだクリスの言葉に和哉は引っ掛かりを感じる。だがそれが何かは分からなかった。
「ねえ、プリンが食べたい」
「ああ、そうだな。広間に戻ろう」
二人が並んで戻ると、ジョアンヌ、モリモット、武藤、尾藤が自らの定位置に着席して待っていた。
「リア充でござるお」
「ユーたち、結婚してしまえ。現実世界では貫いた独身も、ここでは捨ててもいいだろう。それに子供はベリーキュートだ」
モリモットからは軽く揶揄われ、尾藤からは結婚を勧められる。和哉は女性陣とモリモットにはプリン、武藤と尾藤にはコーヒーを出した。
「尾藤の場合、溺愛を通り越して親バカだから、あまり参考にするな」
「武藤、ユーにだけは言われたくないな」
親バカ二人と独身オッサンが二人、クリスとジョアンヌは外見年齢から考えて未婚と和哉は推察する。
「親バカと言えば、佐藤も相当だぞ」
「奴は親バカではなく、単なるバカだ。子煩悩に見えるが子供向け番組を根っからエンジョイしているからな」
「拙者も根っから楽しんでいるでござるお」
尾藤の辛辣な言葉に、モリモットは細やかながら反論を試みた。
「森本の場合はいいんだよ。隠してないんだから」
オッサンたちの世間話を和哉が遮る。
「ところで、佐藤はどこまで修練してた?」
「ミーがレスリングを引退した頃は、剣術で免許(注1)、居合術で目録だったはずだ」
「その後、居合術でも免許、剣術は指南免許を得ていたぞ」
「あいつ、剣道一直線かよ」
「そういう和哉は、剣術は目録だっただろう?」
「お前ら、やっぱり知らないのか」
和哉の問い掛けに武藤と尾藤は怪訝な表情をした。
「俺は剣術と居合術は目録だが、柔術と棒術で免許だぞ」
「は?」
「いつの間に修得した?」
「柔術は尾藤が渡米している間に、棒術は五年ぐらい前だな。剣道場に顔を出しづらかったし、けど途中で辞めるのも嫌だったから別の道場に通っていた」
「あれから二十五年以上も経っているんだ、不思議ではないな」
「道理で体の動きがいいはずだ。肉体年齢二十歳で、技法は四十五歳とは反則だな」
「そういう恩寵だからな」
本来は違うが和哉は恩寵の能力を隠した。それが彼らの学んだ武術の教えでもある。和哉とシュガー四天王は同門の古武術道場に通っていた関係で顔見知りだった。武藤は柔術師範、尾藤は柔術免許でレスリングジム、佐藤は剣術で免許取得、和哉は柔術と棒術で免許取得と、かなりの手練れ揃いでもある。
「クリス様、何やら得体の知れないものが向かって来ています」
オッサンたちが話している間、女性陣とモリモットは放置されていた。そのクリスに兵士が伝達に来たのだが要領を得ない。
「和哉、何かが来ているみたい」
「右から左に受け流し(注2)たいでござるお」
懐かしいことを言ったモリモットの言葉を一同は右から左へ受け流した。
「百聞は一見にしかずだ」
和哉の提案に一同は外壁の上に出た。遠くから二輪車のエンジン音に似た響きが聞こえて来る。
「この世界で2スト(注3)のエンジン音を聞くとは思わなかったな」
「和哉、この唸り声は何?」
クリスは不安げな表情だ。
「俺たちの世界でバイクという乗り物があって、そのエンジン音だよ」
「乗り物?」
和哉の説明にクリスの緊張感はやや緩んだ。
「ちょっと待て。あれはどう見ても四輪車だぞ?」
武藤が指差した方角からはエンジン音も高らかに、真っ赤な車(注4)が向かって来る。その形はクロスカントリービーグルの小型だ。
「ああ、あれ宇宙刑事の……」
モリモットが呆れている。2ストエンジン独特の騒音を響かせながらデコボコの野原を疾駆する姿に、オッサン連中は子供時代に夢中で視聴した宇宙刑事を幻視していた。
「取り敢えず、出迎えてやろうぜ」
和哉の号令に従って、一同は門の外で待ち構える。真っ赤な車はエンジン音を唸らせて坂道を登って来た。
「到着!」
目の前に横付けされた真っ赤な車から男性が降りて来る。
「お前、仮にも警官ならもう少し自重しろ」
「うるさい、もう死んだら全部チャラだ。やりたいようにやらせて貰う」
「しかし、よくここまで忠実に再現できたな」
和哉はしげしげと車を見詰めた。子供時代に見たままの車は、好奇心を刺激する。
「この車に、乗りたいかー?」
「ニューヨークに行く感じ(注5)でござるお」
「だったら、この私を倒してみせろ」
「そう来るか」
佐藤こそ、和哉が途中棄権した県大会で優勝し、全国ベスト4に勝ち進んだ最大の好敵手である。
「和哉、お前との決着をつけていないのが私の心残りだったんだ」
「いいだろう、県予選の準決勝の再試合だな」
佐藤と和哉の視線が交錯する。一同はそこに火花が散ったような錯覚を覚えていた。
声の想定
・桐下 和哉 鈴木達央さん
・聖女クリス 小林ゆうさん
・ジョアンヌ 河瀬茉希さん
・モリモット 関智一さん
・武藤 龍 玄田哲章さん
・尾藤 大輔 稲田徹さん
・佐藤 竜也 櫻井孝宏さん
注1 剣術で免許
時代劇でよくある免許皆伝の免許である。
実際には流派によって異なるが、和哉の習っていた流派では、目録、免許、師範目録、師範免許、印可の順で熟練度を階層分けしている。
注2 右から左へ受け流し
ムード歌謡と呼ばれて、一時期流行した。
まさに右から左へ受け流された。
注3 2スト
2ストロークの略語。
現在主流の4ストロークエンジンと絶滅危惧種の2ストロークエンジンの違いは行程にある。
4ストロークエンジンでは
・吸入行程:ピストンが下がり混合気(燃料を含んだ空気)をシリンダ内に吸い込む行程。
・圧縮行程:ピストンが上死点まで上がり混合気を圧縮する行程。
・燃焼行程:点火プラグにより点火された混合気が燃焼し、燃焼ガスが膨張してピストンが下死点まで押し下げられる行程。
・排気行程:慣性によりピストンが上がり燃焼ガスをシリンダ外に押し出す行程
の4行程で出力を得る。
2ストロークエンジンでは
・上昇行程:ピストンが上昇する間に排気と吸気の圧縮を行う。(吸入・圧縮)
・下降行程:燃料の燃焼(爆発)によりピストンが下降し、その後半で排気を行う。(燃焼・排気)
となり、4ストロークエンジンの半分の行程で出力を得るので、排気量が同じであれば2ストロークエンジンの出力が高くなる。
反面、2ストロークエンジンでは排気ガスの削減や有害物質の除去に手間がかかる為、現在の排ガス規制に適合させようとすると、2ストロークエンジンの優位性が失われてしまう。
また2ストロークエンジンは部品点数も少なく安価なエンジンという長所も、排ガス規制に適合させると失われてしまうので開発は放棄された。
注4 真っ赤な車
山口百恵が『プレイバックPart2』を紅白歌合戦で歌った時は「真っ赤なポルシェ」ではなく「真っ赤な車」と歌詞を変えたことがある。
ここではSJ30FK3型である。北米市場ではサムライと呼ばれている。
水冷550cc2ストロークエンジンを搭載したこの型は、国産最後の2ストロークエンジン四輪車として人気を集めた。
軽自動車でありながら、パジェロやランドクルーザーに匹敵或いは凌駕するほどの悪路走破性が評価され、今でも愛用者が存在する。
幌車になっており、ドアの下半分は鉄製だが、上半分は幌を被せる仕様になっている。車体中央を横切るBピラーはロールバー兼用でボディ剛性を担保しつつ、軽量ボディを実現していた。
現在、東南アジアに中古車が輸出され、国内台数が減少しているので注意したい。
なお、『プレイバックPart2』の「ポルシェ」の部分を「トルシエ」に替え歌してはならない。
注5 ニューヨークに行く感じ
「ニューヨークに行きたいかー?」で始まる『アメリカ横断ウルトラクイズ』は、昭和52年から平成4年まで毎年放送された。
知力、体力、時の運を発揮して難関や難問を突破し、無事にニューヨークに到着できるのは、たった二名という苛酷な番組だった。
制作当時の日本は未だに海外旅行は高嶺の花で、あわよくばアメリカ合衆国中央部まででも、せめてハワイぐらいまではとの思いで挑戦する人々も多かった。
なお、出場条件は十八歳以上なので和哉たちは出場できないままに番組は終わった。




