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約束

作者: 笠緒

 抑揚に合わせて形の良い唇から紡がれる今様と共に、シュルル、と涼やかな衣擦れの音がシン、と静まる堂内に響く。

 いつぞやのように不躾な視線や悪意に満ちたそれを感じることがない分マシとも思えたが、それでもやや腹の出が目立ち始めた頃合いに、白拍子の装束全てを身に纏い舞を収めることはこれほどまでに苦しいのかと、(しずか)は内心、苦笑する。

 幸いにも悪阻(つわり)の時期は既に終わっており、いまは食欲もあるからこそ、こうして無事踊り切ることが出来る体力が残されていたのだろう。

 唄が終わりを結ぶと同時に、トン、と足が板間を叩き、そうして彼女の舞は終わりを迎えた。


「……相変わらず、見事なものです」


 女にしてはやや低めの、けれどよく通る声が拍手と共にかけられ、静は緋色の長袴を蹴るように捌くと、扇をたたみ、その場へと腰を下ろした。視界の端で、母の磯禅師(いそのぜんじ)が頭を下げる姿が映り、彼女も白い(おもて)を僅かに下ろす。

 この鎌倉へ足を踏み入れた当初ならば、例え首を落とされようと屈したくない相手であったが、初夏の頃より目の前の女性――北条政子(ほうじょうまさこ)に対してのみ、その想いは少し軟化していた。


「姫。そなたからも、一言、なにかありますか?」

「…………きょうは、わたくしのために、まいをみせてくださり、ありがとうございました。とてもおうつくしい、まいでした」


 母親から訊ねられた小さな少女は、こくりと頷くと、ふわふわと夢の中にいるようなどこか現実味のない声で、それでも感謝の言の葉を口にする。聞けば、齢八つになるという源頼朝(みなもとのよりとも)と彼女の大君(おおいぎみ)だが、同じ年頃の子と比べて明らかにその印象は幼く、儚い。


(まぁ、父親の鎌倉殿(・・・)許嫁(いいなずけ)殺されたってんだから、そりゃこんな小さい子なら心が病むってものよね)


 静は、父親にも母親にもあまり似ていない幼い少女へと、頬を溶かしながら三日月を唇へと刷く。


大姫(おおひめ)さまのお気に召したのならば、幸いでございますわ」

「また、みせてくださいますか?」

「えぇ。お召しとあらば」

「では、あかさまが、おうまれになりましたら、あかさまとごいっしょに」

「……えぇ。そうですね」


 装束の上からはさほど腹の出はまだ目立ってないはずだが、恐らく母親からでも聞いたのだろう。思わず固まりそうになる頬に、それでも無理やり柔らかな笑みを貼り付けながら静は軽く顎を引いた。

 たわませるように背で結った黒髪が、さら、と一房、肩口から零れ落ちる。


「さぁ姫。そなたは乳母(めのと)と共に、先に帰っていなさい」

「はぁい。おかあさま」


 下座に控えていた彼女の乳母らしき女に連れられ、少女の気配が完全になくなったことを肩越しに確認した政子は、深い藍の(うちぎ)の裾を軽く整えながら真っすぐにその強い瞳を静へと向けてきた。美醜でいうのならば、美人とは言い難いが、それでも眼の奥にあるその強さに、女である自身さえも惹かれるものがある。


(東国の武家の女子(おなご)というものは皆こういうものなのかしらね……)


 静は自身の知っているもう一人の東国出身の武家の姫を思い出し、やはり少し似ているかもしれないと独りごちた。


「身重の身に、無理を言ってしまいましたね」

「前回、お召しになられた時は、まだ悪阻もありました。その頃に比べれば、全く苦とも思いませんわ」

「……相変わらず、口が達者な事。前回よりは気持ちの上では晴れていようが、その分身にかかる負担はかなり増しておろう」


 幼少の頃より身体ひとつで覚えてきた芸だ。疲れていようと、身体が重かろうと、それを気取られるような動きや表情はしていなかったはずだ。静が軽く驚きに睫毛を上下させると、呆れたように政子は軽くため息を吐く。


「なんです、その表情(かお)は。わたくしとて三度、子を宿しております。今年の初めにも、子を産んでおる故、そなたが今、どんな具合かくらい想像はつきます」

「…………」


 身重となれば、誰でも独り身の時ほど自由でないことはわかっていた。それでも、舞という自身を作り上げてきた全てといって差支えのないものさえも、思うようにならないものなのか。


(何より)


 それを、洗練された舞を見慣れた都人ならばともかくとして、こんな東国の女人に気づかれた。「日本一(ひのもといち)」と天下人に認められ、褒め称えられていた自尊心へと、じわりと悔しさが滲み出す。


「子を宿すというのは――、母になるとは、そういう事です」


 けれど、同じ白拍子という職業の実母ではない、経験豊富な年嵩の女性から「母親」の表情(かお)をしてそう言われれば、頷かざるを得ない。

 でも――。


「……私、また以前のように……舞えるのかしら……」


 ぽつり、呟きが絶世の美女と謳われた(おもて)から落ちる。

 腹の子が愛しくないわけではない。

 にょろにょろと小さな魚が泳ぐような胎動を感じれば、愛しさが胸の裡にじわりと広がる。人並みに、無事に、生まれてきてほしいと――子の性別が、女であればいいと願うほどには、愛しさを覚えてはいる。


(でも、以前のように舞えない事がこんなに悔しいだなんて)


 思っても、いなかった。

 静がふわりと浮き上がった不安を持て余すように、政子へと向けていた視線を外し、宙を彷徨うように流していくと、「何を言うのです」と今度こそはっきりと呆れの感情が孕んだため息が鎌倉で一番高貴な女性よりかけられた。


「そなた、先ほど何と言いましたか」

「……? さっき?」

「姫と……、我が娘と約束したではありませんか」


  ――また、みせてくださいますか?

  ――えぇ。お召しとあらば。


 それは、ふわふわと、夢の中で生きる少女との、(うつつ)の約束。


「そうでした……」


 静は、苦笑を頬に滲ませると、白い手をそっと腹の上へと置く。

 にょろにょろ、と――お腹の子が返事をした気が、した。





  ――では、あかさまが、おうまれになりましたら、あかさまとごいっしょに。

  ――……えぇ。そうですね。

 

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