Ψ1 処女神は高潔な存在です
夜の帳が下りる頃、星々の煌めきと神殿を背に語り合う2つの影があった。
その2つの影は、いかにも英雄然とした青年と、ゆったりとした白いワンピースと編み上げの革サンダルを履いた少女であった。
「だ……ダメですよ、求婚なんて!
あなたはイケメンで、英雄で…… ぶっちゃけタイプなんですが!」
英雄様が、私に花束を差し出した。
顔が真っ赤に紅潮しているのが自分でも分かる。
嬉しくて、恥ずかしくて、体中の血が沸騰しているようにくらくらする。
ああ、この場所が…… この場所が、この神殿の前でなかったら、私はきっと即答していたと思う。だけど――――
「神殿の前では自分を偽ることはできません!! わ……私、実は――」
バサッ
大きく肩をゆすると、肩甲骨の辺りから白い翼が顕在する。
「女神なんですよ~~~~!」
英雄様の反応が怖くて、ぎゅっと目をつぶりました。
そんな私の行き場を失った両手を、大きな温かい手が包み込みました。
「な なんだと!? それはむしろ……興奮する!」
怖々と目を開くと、英雄様は私よりも赤い顔でおっしゃいました。
だけどその目は少し血走っていて、鼻息も荒くて、少し怖かったのです。
「や、やめてください! ほら…… 蛇も見てますから」
「ふふ 蛇になど、見せつけてやればいいのさ」
英雄様は握っていた大きくて温かい手を、私の肩に回すと、一層顔を近づけてそうおっしゃいました。
……「蛇が見ている」というのは、決して比喩表現ではないのです。
……本当にやめたほうが良いのです。
……だって、この神殿が祭っているのは――――
「そこまでだ、不埒者め!」
「な……何だ!? 蛇!? 女!? おのれ、化け物め!」
英雄様は腰に携えていた剣を引き抜かれました。
左手には蛇がうごめくアイギスの盾、右手には槍を持つ女神様。
英雄様も、名前をお聞きになれば、ご存じでないはずがありません。
「私たち女神の最高位神……! パラス・アテナ様!!」
アテナ様は、落ち着いた口調で続けられました。
「人の子よ…… そなたの罪は2つある」
英雄様は引き抜いた剣を力なく落とし、私の方を振り返った顔は青ざめて口をパクパクされていました。
「1つは地上と天界を繋ぐ神殿…… 聖域を淫らな行為により穢そうとしたこと」
アテナ様は、英雄様に向かって一歩踏み出し、左手を前に出されました。
そして2つ目は! 私を蛇の化け物と呼んだこと!!」
アイギスの盾に蓄えられた蛇たちは、四方八方から英雄様の体を絡め取りました。
……アテナ様、2つ目の方が怒っていらっしゃる??
それはともかく、私たちに「淫らな行為」は実質まだ何も始まってはおりませんでした。
「蛇」という言葉も、英雄様は興奮からつい口走ってしまった言葉だと思います。
「お待ちください、アテナ様!」
アテナ様は知恵の女神でもあり、賢いお方です。しっかりと理由を説明し、私も罰を分担すれば、英雄様へのお怒りも軽減できるのではないでしょうか。
「そ……その人、英雄様が興奮したのは、私が女神と知ったから!
罰ならば、このニケが受けます!」
私は即座にその場に土下座し、アテナ様に許しを乞いました。
「……なぜ、そこまでこの人の子に尽くす?」
アテナ様はため息と一緒に、おっしゃいました。
「女神と人の子は相容れぬ。よもや本気で愛した、というわけでもあるまい」
――噂に聞いたことがある。
アテナ様は処女の女神様で、「愛」や「恋」を経験されていないから、理解されていなから、それに到る行為は何でも「不潔」と見なし、処分なさると。
けれど、私が英雄様に抱いた気持ちは、そんな不潔なもおのではない。共に闘い、共に手にした勝利。……そりゃあ、ちょっとは勝利の女神の力も使いましたけど。いままでにも一緒に戦った英雄様はおられましたけれど、今回の英雄様は、私の頭を優しく撫でてくださり、時には優しく抱きしめてくださることもありました。そして、もっともっと、これからも、この英雄様のお力になりたいと思ったのです。ええ、それは、触られて気持ちよかったとか、決してそんな肉欲的な劣情ではなく、心の触れ合いがあったからこそ、生まれた気持ちだと思うのです。
「ほ、本気になるかはまだわかりません……だけど!」
私は勇気を振り絞って、顔を上げ、アテナ様の目をじっと見つめて応えました。
「それだけ命がけな! 真剣な恋をしてみたいと思っています!」
私とアテナ様は見つめ合いました。相手は最高位の女神様、恐れ多く怖い気持ちもありましたが、目を逸らしては負けるような気がして、じっとアテナ様の目を見続けました。
数秒の後、アテナ様は視線を逸らし、兜をお掻きになりました。
「……わからん、私には理解できぬ感情だ」
既にアイギスの蛇たちも、盾に納まっています。私はアテナ様の許しを得られたのでしょうか。アテナ様の視線が更に遠くの方に動きます。
「そもそも……、その相手はとっくに逃げてしまっているというのに」
「そんな……!?」
アテナ様の視線の先に目をやると、かの英雄様の姿は既に彼方でした。
「うう……」
力が抜けた私はその場に座り込んでしまいました。英雄様と私の間に生まれたと感じた新しい感情は勘違いだったのでしょうか……
「…………心中察し、痛み入る」
そんな私の肩を、アテナ様は優しくさすって下さいました。
温かい、御手でした。
どっしりと落ち着いた声で、お声をかけて下さいました。
涙に濡れた顔を上げるのをためらっていると、何か荷台のようなものがガラガラと引かれる音が聞こえてきました。
「だが、それはそれ」
俯いた私の眼前にアテナ様の御足があります。
今の荷台を引いてきたのも、アテナ様だったのでしょうか。
「代わりにそなたに罰を与えないとな」
――鬼だ!
驚きで咄嗟に声が出ませんでした。
その荷台にはアイアンメイデンや三角木馬といった、拷問器具が詰まれていました。
「まずは公正なる裁きを行う。どうせ穢れた身であろうが、敢えて問おう」
私が聖域で淫らな行為に至ろうと試みたことは、たとえ英雄様に逃げられようとも、情状酌量の余地はないようです。
「そなたは処女神か?」
「え!?」
最高位神の裁き……
たとえどんな内容であっても、受け入れないことは許されない……
そう考えておりましたが、問われた内容は思いもよらぬものでした。
ですは、聞き間違いや言い間違いの類ではなさそうです。
アテナ様は裁きの天秤を持ち、こちらを厳しい眼差しでおられます。
「は…はい、一応…… お恥ずかしながら……」
裁きの天秤の前では嘘や偽りを申し上げても、その分も分銅の重みが増すだけです。
「そなた…… 処女神なのか! だが……「一応」? 「お恥ずかしながら」だと……ッ!?」
アテナ様は目を見開くと、大きな声でおっしゃいました。
「出でよ! ペガサス!」
稲妻の光とともに、翼の生えた白馬が駆けてきました。
「裁きはもういい! 来い!」
驚いて逃げ出そうとする私の翼を天馬は咥えて静止しました。
アテナ様は暴れる私をものともせず、ひょいとペガサスの背の後ろに乗せるとおっしゃいました。
「処女神とはあ、正しき道にその身を全て捧げた高潔な存在だ」
大きな声で、けれども言い聞かせるようにアテナ様はおっしゃいました。
「断じて恥ずべきものではないと教えてやろう」
更に一段と空高く駆け上がるペガサスの背で、アテナ様は力強くおっしゃいました。
「なぜなら私が…… 処女神だからだ!」