二、柄杓の水 附子の毒 ― 元亀四年(1573) 春 鄙館 ―
かんかん、かかかかか、かんかん。
響かせるは、木を叩く熊啄木鳥か。
どんより鈍色の空覗く木々の隙間を見上げた福士市左右衛門の顔つきと云えば、目に映るそれと似たようなものだった。
藍苗サンギ屋敷を離れること丸三日。大川沿いを艮(北西)に、撫牛子で平川を渡り、そこで立交じる汗石川の河道に沿ってほどなく森へと入った。
人目を避け忍び、白昼に身を潜め、五更は白月見下ろす草分け道をひた歩く。
疲れがないと己に嘘つき怖れがないと己を偽る。市左右衛門は鉛のような脚を一歩々々、ジャクジャク音立て休まず踏み出す。男からは急ぐ様子が窺えた。
背負う幼子を気遣い、顔を見遣る。先程、男の不用意で枝に擦れ付いた下顎の疵。それが生乾きとなっていた。痛々しい。が、幼子は意に介す様子なく背負子に凭れ、幸せそうに寝息を立てていた。
かれこれ二年になろうか。不憫な娘だ。と、市左右衛門は更に顔を曇らす。幼子はかの日以来、一切笑わず、一言も口を利かず。眠る折のみ幸訪れる。そう思えたからだった。
森を抜けた。見晴らしがよくなる。木々の香ばしき匂いが、土の重き匂いに変わる。
辿り着いたは諏訪堂口。もうここは千徳の治める地、大浦の手が届かぬ場所。旅塵に塗れ気怠い体が息を吹き返す。脚が軽い。市左右衛門は暫し、白昼堂々と歩く喜びを堪能した。
と、一面、碁盤のように括られた風景に出くわす。百姓が数人、ある者は鋤鍬を、ある者は畔鍬を手に、どっしり汗を垂らしていた。
種蒔き前であろう苗床。田圃見るに、土掘り隅々に至りきめ細かく、黒土色よく地味豊か。草低く刈られた畦固く、水路の配置申し分なく其土潤し。良き仕事振りが見て取れた。
豊かな国だ。古くは稲家と呼ばれし地。伊達ではない。と、安堵にも後押され、鬼ッ面が綻んだ。
遠く東、未だ残雪戴く八甲田。その雪景を背に城郭が眼に映る。田舎の平城にしては見事な構えに目を瞠った。
あれが、と逸る気持ちを堪え、あと一刻程、と小さく息を吐いた。そして先刻目を覚ました幼子に一声かける。
「姫様、歩けますか」
幼子は澄まし顔をそのままに、こくんと頷いた。膝を折り背から下ろす。そして顔を上げ見回す。と、百姓は皆、手拭片手に手を休め、二人を物珍しげに見ていたその目を、慌て逸らしにかかっていた。
一人、顔を逸らさぬ男が目に付いた。市左右衛門は徐ろに近づき声を張る。
「良き田だな」
野良着に刺し縫い、仕立ても良い。然てもナリ良き百姓だ。畦に腰を下ろし柄杓を傾ける男の、初っ端の印象はそれであった。まさか酒ではあるまいな、そう思わせるほど男は旨そうに喉仏を動かしていた。はて、何者であろうか。市左右衛門は興味を惹く。
「田が良いのではない。良いのは人だ。百姓だ」
「城へは、この道で良いか」
「はっはっは。一本道だ。他になかろう」
だが、野に降り落魄せりとて武士は武士。ふてぶてしく大口で笑い身を弁えぬ姿に、幼子の手を引く市左右衛門は目尻をくっと吊り上げた。然れどもその百姓風情の男は、まるで気に留める様子なし。おもむろに立ち上がると、泥付きの手で柄杓を取り桶の水を掬った。
「遠くから来たようだな。喉が渇いておろう。どうだ」
そして、にたりと柄杓を差し出す。
「何故分かる」
「足元を見れば分かろう」
そう云われ、己の足元を見下ろす。汚れ解れた厚手の草鞋を見てそう思うたか。と、少し感心した。
「忝ない」
然れど気には喰わない。市左右衛門は憮然としながらも、小さく礼をし柄杓を受け取った。先ずは幼子に水を給え、そして己も一つ口を付ける。思わずごくり、喉が鳴る。旨い水だった。疲れ、乾いた喉には馳走であった。
「野良犬、野伏に遭わぬとは、運が良い。こう云う時は濁酒でも呷りたくなろう。が、済まぬな。ただの水だ。だが米と混ざれば濁酒となる。そう思えば少しは旨かろう」
男は満足気に目尻を垂らしていた。
「娘にはこれが良かろう」
男は一声発し、ごそごそと懐を弄る。と、笹葉でくるんだ包を出し、にんまり笑った。
「附子の毒だ」
悪戯を企む童子のように、左手を口元に添え小声で囁く。市左右衛門は、はっと驚き男の手首を力任せに握った。男は頓着する様子を見せず、器用に口で紐を解き包を開ける。
「附子の毒と云えば、あれだろうが」
鈍い、気付け。と云いたげに男は掴まれた手を払い、にやりと窘めた。
包の中には竹楊枝。その先に透き通った何かが覆っていた。顔を近づける。と、笹葉にの匂いに混じるほんのり甘い匂い。成る程、水飴か。鬼の面が幾ばくか緩む。男は粘りつくそれを、器用に剥ぎ取り幼子に差し出した。そして汚れた手そのままに、とんっと小さな頭に載せた。
「無礼が過ぎる。この御方をどなたと心得るかッ」
礼を失した男の態度に、さすがに声を荒らげ顔を顰める市左右衛門。すると男は膝を折り、幼子と同じ高さにふわり目線を置いた。
「お主、名は」
頭に手を乗せられたまま、幼子は俯き黙る。
「名ぐらいあろう」
男は優しく問いかけた。喋れぬ姫様に何を、と、男を窘めようと口を開きかけたその時、小さな口が僅かに開いた。
「い、ち、」
振るえる唇。
か細い声。
柔わり冷えた春の東風。
市左右衛門は開いた口をそのままに、寸刻、目前の光景を理解できず只々呆け、見ること敵わぬ風の行方を目で追った。
「はっはっは。市か。良い名だ。さあ遠慮はいらん。頬張れ」
男は今しがたの出来事をさも当たり前とばかりに、優しげな笑顔を於市に向けていた。当然であろう。当然であろうが、何も分かっていない。
姫様が口を開いた。しかも水飴を頬張るその口元は上がり眦は下がる。長らく声を失い笑顔を消した姫様が、である。
市左右衛門は、気つけ、男に問いかけた。
「お主、名は」
急に落ち着く声音に、男は意図を計りかね、ぎょろりとした大きな目を半ばまで開き、胡乱げに見上げ黙る。市左右衛門はその表情を察し慌てて首を横に振った。
「違う違う。褒美を取らせようと思うてな。今は何も持っておらぬが、城に着けば融通が利く。そう立派なものはやれぬがな」
「顰めっ面で褒美とな。ちぐはぐな侍だのう。それに水一杯で褒美か。えらく豪気に出たものよ」
男はまたも大口で豪快に笑った。
「水の褒美ではない。それに、褒美に顔は関係なかろう」
「いや、褒美はな、顔でするものだ。そう眉間に皺を寄せられては、魂胆ありきと疑うてしまう」
「百姓風情が偉そうに」
「それが如何」
「何が如何と云う」
男は我が意を得たり、とばかりに不敵な笑みを浮かべ、よく通る声を響かせた。
「いいか侍。下野の百姓はなあ、偉いのだよ」
「たわけッ。大人しく黙っておれば図に乗りおって」
終始、笑い嘯く男に、市左右衛門は声を張った。そして再び問い詰める。
「名だ。名を名告れ」
男はまたも、にんまり大きく口を開いた。息を吸い、見上げ、そして朗々と声を上げた。
「聞いて驚け。俺は千徳政武。あの城の主と云えば分かるであろう」
「謀りおって。一国の棟梁が何故にこんな所におると云うのだ。それにお主のような威厳なき主などおらぬわッ」
張声が割り込む。偉ぶる男の顔が鼻につく。振る舞い横柄に、言は右へ左へと落ち着かず、終いに自分は殿様と来たものだ。最早我慢の限り、とばかりに市左右衛門は鬼宜しく鬼ッ面を赤く染めた。
「此処におるッ。嘘ではないッ」
「なればその面、検めさせてもらうまで」
先刻の偉ぶる態度は鳴りを潜め、男は立ち上がり必死に訴える。それを大声で制し、市左右衛門は踏み固められた地面に杖を大きく突いた。かこんと響く音が男を黙らせる。
「姫様、先に進みましょうぞ」
市左右衛門は城へ向き、幼い於市に後手を伸ばす。だが、振り返り見るその小さな手は、肩を落としている男の着物の裾をしっかりと掴み、離そうとする様子はない。まるでこの男の行く末を案じ、護ろうとするかのようだ。
無理に笑い顔を作り込み、於市を見下ろす。そして、今度は優しくそっと手を伸差し出した。
「大丈夫です。何もしやしません」
於市は二人の男を交互に見上げ、幾分色が戻った澄まし顔でこくんと頷く。
この小さき胸は、何もかも理解しておられる。聡い娘だ。聡いが故に、真、不憫な娘だ。曇る心を於市に悟られることを嫌がり、市左右衛門は差し出した手を引き顔を背けた。
「従いて参れッ」
そのまま、項垂れる男にぶっきらぼうに云う。そして燻る不安を振り払うかのよう力を込め、また一歩踏み出した。
黄昏の章 ── 終 ──