一、鬼の顔 澄まし顔 ― 元亀四年(1573) 春 藍苗 ―
ぽんぽんぽん。ぽんぽんぽん。ぽんぽんぽん。
拍子とれし音、鳴る。
一尺ほど低く掘られた土間の片隅にて、幼子が手毬をついて遊ぶそこは、山祗の神を祀る館、人に呼ばれしはサンギ屋敷。この山間の小さな村落藍苗にて、質素ながらも場違いとも云える大きな屋敷であった。全ての板戸は閉めきられ昼時と云うに薄暗い。
今しがた戸口を潜った落人の風体を醸す男は、奥の小ぢんまりとした板間にて、折り目正しく座する和徳小山内家遺臣、福士市左右衛門に耳打ちした。男の結われ損ね垂れた月代なき前髪が、瞼をさわさわと掠め、市左右衛門はその都度目を細めてしまう。
「市左さん、鄙館の千徳が姫様の身を引き受けてくださると」
その市左右衛門と云えば常に顰面。が、これは元来のもの。で、付いた呼名が鬼ッ面。証拠に男は、怒りとも取れそうなその顔に、頓着する風を見せてはいなかった。
「実の話か。で、日は何時か」
「何時でも、と云うておりました」
市左右衛門は眉間に皺を寄せる。途端、鬼ッ面が険しく変わる。
「何時でも、と云うことはなかろう。約定の日を検めよ」
「何度も云うたんですがね。笑ってですね、何時でもと」
が、男は何事もないように答えた。
千徳と和徳の小山内の両家には血の繋がりはあった。ゆえに筋は通っている。しかし筋が通っているとは云え、日を決めぬとは不用心が過ぎた。
市左右衛門は悩んだ。千徳とはただの躻であろうか。はたまた裏ありきの話か。それとも小山内を軽んじているのか、と。
確かに血は水より濃いと云われる。が、それだけで信に足ると到底思えぬ世であった。
「して、鄙館の様子はどうであった」
市左右衛門は無理矢理に気を取り直し、問を発した。今度は男が困り顔を浮かべる番だった。
「それがですね。よく分からんのですよ」
「分からぬ、とは」
曖昧な返事に、不快顕に間髪入れず詰め寄られ、男はたじろぎ声音上ずるも、見、感じた事をおずおず話し始めた。
「いえね、棟梁が棟梁らしくないって云うんですかね」
「ふむ」
「やれしゃきりとしろ、とか、やれ呑み過ぎだ、とかですね。まあ下の者に好き放題云われておるんです」
黙す鬼ッ面が怪訝に歪む。普段あまり目にかからぬ顔に晒されれば、然しもの男も「ひっ」と小さく頓狂な声を上げるしかなく、だがすぐに気を取り直し話を続けるは、ただの落人ではないことを如実に表していた。
「ですがね、規律が甘いって云えば、そうではなさそうなんですね、これが」
「どう云うことだ」
「城の中は掃除が行き届いてましてね、 芥一つ見当たらず。まあ小奇麗しているんです。そして見るに兵は少ないながら、よく鍛錬されていましてね」
「良いではないか」
「云えね、なのに老いも若きも男も女も、なぜかへらへら笑って弛んでいるように見えまして。皆してオカメの面でも被っているような、けったいな所でございました。あんな城、見たことございません」
「成る程な」
洒掃薪水に気を配ること。これは市左右衛門が男に命じた事柄の一つだった。実り知りたくば土見る。人知りたくば足見る。市左右衛門は鳥の目で一望せず。獣の耳で一聴せず。ただ瑣末な事を撚り集め物事を大観する癖がついていた。
主威厳無きも、兵精強。秩序保てど、気抜けている。なんとも狐に摘まれたような掴み所のない話に、心の整理をつきかねる。はて此度の話、虚か実か。乗って良いものか否か。
大浦の手は、山中深いここ藍苗にも及ぼうとしていた。その藍苗も今や、大浦に滅ぼされた和徳の遺臣達が犇めき物騒極まりない。野盗紛いの者も、ちらほら紛れていると聞く。あわや一波乱、そんな気配を察し、何処にどう転ぶにせよ急ぎここは出ねばなるまい。市左右衛門はそう考えていた。
なれば、南の大光寺、北の波丘。だが、どちらも何やらきな臭い。果たして吉は何処に転んでいることやら。
そろそろと襖が開けられる。と、奥から嗄れた声がした。
「市左さん、千徳掃部様ならああ見えて信用のおけるお方でございますよ」
いつしか襖越しにも声音が届くほどとなっていたのであろう。市左右衛門は僅か強張る。
声の主は白髪が混じり、やや腰の曲がった初老の男、屋敷の主、三上民部であった。藍苗の長であり、和徳小山内家とは縁のある人物でもある。市左右衛門自身もこの男を依り、ここへと赴いた。
「すいません。聞き耳をたてていたのではないのですが、どうにも聞こえてしまいましてな」
民部は人好きのする柔和な笑顔で、頭を下げる。
「知っておるのですか」
市左右衛門は恐る恐る訊く。すると、その問いにゆるりとした言葉が返った。
「はい。気持ち良きお方でございます」
続きを待つ市左右衛門。だが民部はおっとり笑い口を閉じた。話はそれで終いだった。
息をふうっと吐き固まった身を解く。暫し口元に手を当て黙考すると、幼子に目を向け、そして意を固めた。民部が云うのだ。間違いなかろう、と。
「姫様、明日、出かけましょう」
幼子は、ぎこちなく笑う鬼ッ面を見上げ、心を何処かに置き去りにしたような澄まし顔で、こくんと頷いた。そしてまた手毬をつく。
ぽんぽんぽん。ぽんぽんぽん。ぽんぽんぽん。
拍子のとれし音、屋敷に響いた。