第70話 ムーンレイカー
今日は元の世界ではクリスマス。
俺にとっては世間が浮かれている日でしかなかった。
クリスチャンではないし、彼女いないし、友達もいない。
家族といつもよりちょっとだけ豪華な夕食を食べる、それだけの日だった。
こちらの世界では、そもそもクリスマスが存在しない。
だから世間が浮かれることはないし、普通の日と変わらない。
しかもヴィルモンは南半球だから、冬ですらない。
今日はただ、雨が降りしきる日ってだけだ。
俺にとってこちらの世界での今日は、緊張の1日である。
ピサワンではダルヴァノの小型輸送機が、トメキアを迎えに行っている。
グロジェロフではモルヴァノの小型輸送機が、リナ殿下を確保しようとしている。
人間界惑星上空では、ガルーダが俺たちを確保するため待機している。
魔界惑星では久保田が、ガルーダの到着を待っている。
そして俺とロミリア、スチアは、ヴィルモン王都上空を飛ぶ、ガルーダの小型輸送機に乗っている。
重要人物の確保と魔界惑星への連行。
なんともエージェント感の強い任務だ。
どうせだから俺は、今日は1日中エージェントを演じることにした。
俺たちエージェントの最初の難関は、共和国の臨検だ。
ただ共和国艦隊の臨検は、魔族を探すのが目的。
だから俺の存在は問題なく、あっさりと抜けることができた。
ちょっと職務の怠慢じゃないかと思えたが、助かったので良しとしよう。
さて、ヴィルモン王都上空約3000メートルを飛ぶ小型輸送機。
外は雨雲に覆われ一面灰色、何も見えやしない。
天候が悪いせいで、小型輸送機は大きく揺れている。
だがこれからのことを考えると、こんな揺れなど怖くもない。
これから俺たちは、この小型輸送機から飛び降りる。
そして重力魔法を使って、地上に降り立つ。
まさかのスカイダイビングだ。
しかも雨の降りしきる中でのスカイダイビング。
さすがに怖い。
なんで俺たちがスカイダイビングをしないとならないのか。
これにはきちんした理由がある。
Mによると、陸路でヴィルモン王都に入るには、かなり厳重な監視をくぐり抜けなきゃダメらしい。
そのためMI6は、根回しでなんとかしようとしたそうだ。
しかし相手はスペクター。
根回しはうまくいかなかったらしい。
結局、唯一監視が緩い上空からの潜入になったという訳である。
「ミードン、絶対に手を離しちゃダメだからね」
「ニャーム……」
「うん、私も怖いよ……」
震えて小さくなるミードンと、そんなミードンを強く抱きしめるロミリア。
その姿は見ているだけで、どちらもこれからのことへの恐怖に怯えているのが分かる。
これはさすがに、安心させた方が良いかもしれない。
「なあロミリア、そんなに不安になる必要はない」
「で、でも……」
「実は俺の元いた世界では、空から飛び降りる人がいっぱいいたぞ」
「え? そ、そうなんですか? アイサカ様のいた世界って、不思議なんですね」
「趣味で飛ぶヤツ、興味本位で飛ぶヤツ、罰ゲームで飛ぶヤツ、いろんなヤツがいた」
「……罰ゲーム?」
「あ……」
「あの、罰ってことは怖いってことじゃ……」
「いやいやいや! あの、うん、えっと……その……」
「なんで口ごもるんですか!? 逆に不安になっちゃったじゃないですか!?」
「ニャー!」
ううむ、まさかの逆効果とは。
どうも俺ってば人を安心させるのが不得意らしい。
まったく、エージェントらしく格好よく決めようと思ったのに。
遺憾である。
「大丈夫だよ。あたしは全然怖くないから」
そう言ったのは、何食わぬ顔で剣をチェックするスチアだ。
まあ、彼女はスカイダイビングなんて怖くないだろうね。
でもそれはスチアだからであって、ロミリアはそうじゃないし。
「スチアさんは強い方ですから……」
ほら、ロミリアもそう言っている。
やっぱりスチアは特別な存在なんだよ。
なんて思っていると、珍しくスチアが優しい笑みを浮かべた。
彼女が優しい笑みを浮かべた!?
こりゃ雨でも降るんじゃないだろうか……。
もう降ってるけど。
「あたしは剣の腕は強いよ。誰にも負けないぐらいね。でも、魔力はほとんど使えない。だからこれから飛び降りても、ロミリアと司令の重力魔法がないと、確実に死んじゃうんだよ。だから本当は、ロミリアの方が怖くないはず」
ちょっと待って、この人は本当にスチアですか?
こんなに説得力のある言葉を、この野獣みたいなヤツが言い放つなんて、意外だ。
不覚にも、これから飛び降りる不安が少し晴れた気がする。
どうやらロミリアも、俺と同じ状態みたいだ。
「スチアさん……。分かりました、私頑張ります!」
「頑張ってねコラァ」
なんだよコイツ!
超カッケーじゃん!
なんかこれ、完全にスチアの方がエージェントっぽいぞ。
《飛び降り地点までもう少しですよぉ。準備は大丈夫ですか?》
ガルーダからMによる魔力通信。
彼はフォーベックと共に、今回の任務の指揮を執っている。
本来は艦隊司令の俺が指揮を執るべきだが、今日だけはアイツの指揮下だ。
「こっちの準備は万全だ」
《分かりました。じゃぁ、小型輸送機のパイロットさん、後部ハッチを開けてください》
「了解しました」
パイロットの返答から数秒後、後部ハッチがゆっくりと開かれていった。
少しずつ、灰色の雲が一面に広がる風景が、俺たちの目に入ってくる。
外の天気は荒れ模様のため、あんまりハッチの近くに寄るのは危険だろう。
飛び降りるまでは、なるべく安全なところにいた方が良いな。
後部ハッチが完全に開かれた。
小型輸送機は時速約600キロ程度を維持している。
そのため機内は凄まじい風の音に支配され、それ以外にはエンジン音ぐらいしか聞こえない。
わりと究極の体験じゃないか、これ。
《飛び降りまで15秒だ》
今度はフォーベックによる魔力通信。
彼のカウントがゼロになったら、小型輸送機を飛び降りる。
一種の悪魔のカウントだな。
緊張する。
《10秒》
俺はスチアの右手を、ロミリアは左手を握った。
魔力の使えないスチアは、俺たちの重力魔法で浮かせてやらないとならない。
さすがの最強最凶少女スチアでも、高さ3000メートルから地上に叩き付けられれば死ぬからな。
……死ぬよな?
ところで、一応はクリスマスの日に女の子の手を握る。
できればこんな状況じゃない方が良かった。
《9、8、7、6、5——》
ロミリアの左手は、ミードンの小さな前足を強く握っている。
当然だがミードンだって魔力は使えない。
アイツも俺たちの重力魔法が必須だ。
にしても、前足を高く上げて、ロミリアに宙ぶらりんになるミードン。
あらやだ、めちゃくちゃ可愛い。
《4、3、2——》
こういうのは勢いが大事だ。
少しでも躊躇すれば、いつまで経っても飛び降りられない。
そんなのは数多の芸人たちが教えてくれている。
だが俺は芸人じゃない。
鼻ザリガニなんてしないんだ。
今の俺はエージェントだ。
そんな俺が、こんなところで足踏みしていてはダメなんだ。
《1! 今だ! 行け行け!》
フォーベックの合図と同時に、俺は後部ハッチから見える大空に向けて走り出した。
走り出したのだが、体は正直である。
どんなに心は騙せても、体は恐怖に打ち勝てない。
力が一気に抜け、足はほつれ、その場に倒れそうになる。
よく見ると、スチアを挟んだ向こう側で、ロミリアが俺と同じ状態になっていた。
なんとも虚しい感じだ。
「ヘタレんなコラァァア!」
「うお!」
「うわ!」
「ニャ!」
力の抜けた俺とロミリアを、スチアは腕の力だけで引っ張り上げた。
そしてそのまま、俺たちを引きずるようにして走り、小型輸送機の後部ハッチから勢いよく飛び降りる。
やっぱりこういうのは勢いが大事ね。
ついに大空へと体を投げ出した俺たち。
重力による自由落下に身を預け、なるべく抵抗を作ろうと、伏せたような体勢で腹を地上に向けようとする。
しかし、スカイダイビングなんてはじめてだから、それがなかなかうまくいかない。
結構なスピードで地上に落ちていくので、かなり怖いぞ。
さっきまで乗っていた小型輸送機はすでに見えない。
というかそれ以前に、雨雲のせいで何も見えない。
何も見えないせいで、何が何だか分からない。
たぶんプチパニックを起こしている可能性もある。
落ち着こう。
叩き付けてくるような風で、顔が痛い。
しかもゴーグルすらしていないので、眼球までもが痛くてしょうがない。
目を開けているのが辛いぞ。
雨で顔はびしょびしょ、まつげもくすぐったいし、なんかいろいろと最悪だ!




