誰も悪くないから
遊園地旅行の目的は家族の解体でした。アイスクリームを買ってくるという両親の常套手段に易しくだまされた僕と姉は、僕たちと同じようだった子供連れの家族が行き交う広場のベンチでただ二人、来るはずのない両親よりずっと価値のある、アイスクリームを待ち望んでいました。
「お金は命」これが両親の口癖でした。僕たちはそのように呼ばれたお金を、養育という調理法で食していき、すくすくと育っていきました。別れる必要を感じた両親は、そのお別れの儀式を行うために遊園地という遊園地を遊び歩きました。両親は一週間にもわたる遊園地旅行の末、というよりも、決心するのに一週間もかかって、僕たちを捨てたのです。と、当時の幼すぎて何も理解できなかった僕に、姉さんは「タンスの角に足をぶつけちゃった」というような軽い調子で、かげ翳りなく笑って話します。
その時、僕も姉さんも泣くことも叫ぶこともしなかったようなのです。別れを理解できなかった僕には仕方がありませんが、そのことをよく分かっていた姉さんは、その両親の別れを泣いてもよかったとは思います。けれど、一滴たりとも涙を落とさなかったと言い張る姉に、落とさずにこらえていただけじゃないの?と、僕は尋ねます。すると姉さんは、また笑いながら僕の口を横に引っ張ります。
アイスクリームを待ってどのくらい時間がたったのかは分かりませんが、ちゃんとアイスクリームは僕たちの手に届いたらしいのです。僕はバニラで姉さんはミント。僕たちの大好きな味です。そしてそのアイスを渡してくれたのが、今の僕たちの世話をしてくれている水瀬直人さんと菜貴さん。アイスを食べる僕たちを優しく見守る姿だけが、僕の記憶に留まっています。
直人さんは、音楽家でもありながら小さな孤児院を営んでいます。孤児院と言っても、両親に捨てられた本当の孤児は僕たちの他には誰一人いません。両親が一時的に面倒を見られなくなった子供たちを親戚代わりに預かったり、家出したけれど行く当てがなくて、外で野宿しようとしている子供を説得して連れてきたりします。また、学校に行きたくなくて、家にもいられなくなった登校拒否の子もいます。居場所を失った子供たちのいわば避難所のような所です。
直人さんの年齢は僕の父さんに比べたらものすごく若く、ちょっと年の離れたお兄さんと言った方が適切なような気がします。そして“お兄さん”よりも面倒見がよく、“お父さん”よりも親しい感じがする立派な人です。
菜貴さんは直人さんの奥さんのように見えますが、年齢は姉さんよりちょっと長く生きている位のものらしいです。けれども、どんな辛いことも素早く笑い飛ばす強引な姉とは違い、菜貴さんは物事を心の奥底まで持っていて、理解できるまで考えます。そして、自分にも他人にも優しく納得させてしまうような、静かな強さを内に秘めた人です。がさつ気味な姉にはとても見習ってほしいところです。そしてそんな菜貴さんは、直人さんの手の届かない部分や、力が足りない部分を後ろからしっかりと支えてあげています。直人さんにとっても、同じです。子供の僕にもそう感じることができるほど、二人はとても仲が良く、助け合い、一人では否が生まれようとも、二人では決してそんなことがないよう、お互いに寄り添うように生きているのです。
直人さんと菜貴さん――特に菜貴さんはあまり長い言葉を使わない人なので、二人の昔の事はよく分かりません。二人がこの孤児院を経営している理由も、はっきりとした答えを教えてもらったことはありませんし、二人が両親からどんな話を聞いて僕たちを引き取ったのかも、未だに話してくれません。もしかしたら、僕たちには話しにくい程の辛い過去があったのかもしれません。けれど、今まで僕たちを本当の息子や娘のように扱ってくれてきたことは、仕事に夢中で、僕たちのことを全然考えていなかった両親に比べたら、菜貴さんと直人さんに感謝し尽くしても足りないくらいです。だから二人の関係やその過去を詮索することは二人に対してとても失礼にあたると思いますし、僕たちにはその必要がないと思うのです。
幼い僕には両親の存在が必要だったはずなのですが、物心つかないうちに本当の両親がどこかに行ってしまったので、その代役を姉にあてていました。直人さんも菜貴さんも、生活の面倒を見てくれる面で、とても立派な両親には変わりないのですが、他の子供たちの面倒も見なければならなかったので、僕ばかりにかまってはいられなかったのです。僕は普段から傍にいてくれている姉を、とても慕っていました。姉もそれに柔軟に答えてくれました。消えた両親の存在を姉弟の間で打ち消すように、僕は息子のように夢中になって姉に甘え、姉は母のように全身で僕を受け入れてくれたのです。
しかし、残念ながらそんな甘い需要と供給の成り立つ関係は、そう長くは続きませんでした。僕が思春期を迎えたせいか、姉が母親役に飽きたせいか、どちらが先だったのかは分かりません。二人は自然と距離を置くようになりました。けれど、お互いの心が掴めなくなるほど、距離が離れることはなかったと思います。姉さんの好きな事や嫌いなことの大体を知っていたつもりですし、姉さんから僕に対してもそうでしょう。けれどもしかしたら、僕がそう思いたかっただけかも知れません。
ある蒸し暑い夏のことです。吸うところがないくらいに湿度が高い空気の中、干上がってしまいそうな川の土手を姉と二人で歩いていました。僕と姉の手に一袋ずつ、買い物袋が気だるそうにぶら下がっています。
「優、持ってあげるよ」
姉の前触れのない笑顔が、いたずらの前兆に見えましたし、この時既に僕は、姉には重い袋を持って欲しくないと思っていました。姉を前にしながらも、男として、です。
「いらないよ。そんなに重くないし」
姉の綺麗に咲いた花びらのような目が、意味を込めて少しだけ細くなります。
「重くないのなら、私が持っても同じでしょ?」
そう言うと、姉は素早く僕が持っていた袋を奪いました。少し勢いがあったせいか、袋からはみ出ていたネギがとても迷惑そうに揺れました。
「夏は海!ゆう優は川!」
笑顔と同様、姉さんは意味の通らないことを強引に意味付けるために、僕を土手から突き落としました。高さはまったくといっていいほど無いので、怪我をするほうが難しいのですが、突然だったので気が動転していました。川に入水した後もなかなか川底に足をつけることができず、とても混乱しました。息継ぎの合間に、土手から急いで駆け降りてくる姉さんの姿がかろうじて覗けました。
つい溺れかけてしまっていた僕の手を両手で掴んだ姉さんは、ぬかるんだ土の上で、夏を反射する綺麗な白サンダルの抵抗も虚しく終わり、川の中に引き摺りこまれるように落ちました。姉さんは短い悲鳴をあげましたが、川底は浅く、水面は姉さんの背丈より少しだけ低いものでした。ぼんやりと見える底に足をつけ、安心した姉さんは、底に足の届かない僕を背中に背負い、「よし」とかけ声を放つと、川の中を歩き始めました。僕の目にはお昼の空と川の水面で区切られた陸が忙しげに写り、それ以外の感覚は、恐怖のためにほとんど麻痺していました。姉さんにしっかりしがみつきます。
しばらく川の流れに合わせて歩いた後、姉さんはやっとで水中散歩に飽きてくれました。僕はやっとの思いで岸に揚がります。まだ体が強張っている僕を見て、姉さんは「優は怖がり屋さんだね」と笑いました。その時、草むらに倒れていた僕は、頭上で輝く姉さんの笑顔と太陽の眩しさを比べていました。姉さんのいつもの笑顔が、屈折し始めていた僕の心の膜を通過して、とても艶やかに見えたのです。姉さんとしてではなく、女として。僕の本当の心がそのように受け止めていたのでしょう。僕は姉さんとの絆が、より強く固く結ばれていくことを僕は欲していました。背徳という言葉も知らない僕は、姉弟という関係に縛られず、素直な気持ちで姉さんを見つめたいと思いました。
学校帰りの疲れ切った表情を見せる姉さん。目をこすりながら、僕の勉強に付き合ってくれる姉さん。電話口で心地良い声で笑っている姉さん。菜貴さんに悪戯をして、困った表情を見て楽しんでいる姉さん。ドキュメンタリー番組を真剣になって見つめ、容易に涙を流す姉さん。誰にも悟られないように僅かに距離を置いて、密かに直人さんに目線を運ぶ姉さん――。
時を重ねるにつれ、僕の素直さでは姉さんを直視できなくなってきました。姉さんから見れば、僕はただの弟に過ぎなかったのでしょう。僕はどんなに姉さんの事を気にしても、姉さんにとって僕は弟であるそれの以上でも以下にもならないのです。その時になって初めて弟という間柄が、姉さんを意識するにつれて、高い壁を作っている事に気が付きました。僕の心の丈では、とても乗り越えることができなかったのです。
姉さんの十五歳の誕生日パーティーを、孤児院のみんなで祝いました。姉さんは孤児院の子供たちの中では最年長でしたので、僕の他にも姉さんのことを“お姉さん”として見ていた子供もたくさんいました。みんなの世話をしてくれる菜貴さんは“お母さん”と呼ばれるべきなのですが、姉さんに年が近いせいか、子供たちにはむしろ姉さんの方が年上に見えるようです。なので、菜貴さんは“お姉ちゃん”と呼ばれています。菜貴さんと姉さんは二人で「姉妹だよー」と冗談半分で笑い合いますが、実際にも姉妹のように仲が良く、菜貴さんに姉さんをとられることもしばしばありました。
十五歳を迎えた姉さんは高校へ進学せず、直人さんの紹介で、市内にある保育施設のヘルパーとして特別に採用してもらうことになりました。将来的にはこの孤児院で直人さんや菜貴さんのお手伝いをしたいと言っていた姉さんの、武者修行のようです。本格的な保育を夢見ている姉さんにとっては、やはり僕たち自身の過去が大きな原動力となっていました。
数々の誕生日プレゼントが姉さんに渡された中、直人さんのプレゼントだけが未だに姉さんの手に渡されていませんでした。心がこもった多くのプレゼントを受け取りながら、手許に寂しさを残していた姉さんに、直人さんは咳払いを一つすると、こう言いました。「明日、友人から車を借りることになっています。保育所の下見も兼ねて、えのん、あなたの行きたいところに連れて行きましょう。これが僕からのプレゼントです」
えのんは姉さんの名前です。姉さんは驚きと嬉しさを顔に収めることができず、体全てを使って嬉しさを溢しました。その興奮を菜貴さんに伝えようとしましたが、興奮しすぎて舌がよく回っていません。菜貴さんはその喜びを必要な分だけ譲り受けたように静かに微笑み、「良かったね」と小さく、けれどはっきりした声で頷きました。菜貴さんはこの時には会話が出来るほど、言葉を発せられるようになっていました。直人さんの話では、昔の菜貴さんは原因不明の病気で声帯が麻痺していたらしいのですが、この孤児院を始めて子供たちと接するようになってから、自然と声が出てくるようになったと聞いています。子供達の持つ無垢で純粋な魂は、長い道のりを歩き、様々な汚れをまとった大人達にとって、その汚れを落とす綺麗な水のような存在であるらしいのです。「子供達は光だ」直人さんは飽きずに、その言葉を僕たちに何度も言い聞かせました。
そんな光のようなの子供に、僕はなっていたのでしょうか。直人さんを追いかける姉さんを追っていた僕は、汚れを落とす水のような存在だったのでしょうか?僕にはその自信が全くありませんでした。
姉さんと直人さんがドライブに出かける当日のことでした。姉さんは衣類棚の奥の方にしまっておいた、とっておきの黄色のワンピースがでてくるまでの一時間、着せ替え人形のように鏡の前で何度も服を取りかえ、表情まで作って自分のイメージとの競合戦を繰り広げていました。それを見ていた僕の表情が気にかかったのか、姉さんは僕にこう言いました。
「今日、直人さんに告白するの」
十歳の僕でも、気持ちを殺す事には慣れ始めていました。僕はつとめて冷静に言い返します。
「菜貴さんには……どうするの?もう言ってあるの?」
事前に告げたところで、相手を説得できなければ意味はありません。それは僕にも分かっていました。ただ姉さんを不利な状況に立たせたい一心で、思ったことを口に出しました。
「菜貴にはずっと前から言ってあるよー。お互いがんばろう、ってことになってるから、いわば公式試合?」
「菜貴さんは……その――直人さんの奥さんにあたるんじゃないの?」
「籍入れてないって。直人さんも菜貴もそんなのには全然こだわらない人達だからね」
姉さんの自信はどこから来ているかは分かりません。けれども、根拠の無い、無限に溢れる自信そのものが、姉さんの強さでもあるのです。
鏡の前で時々思いつめた顔をしているのは、その告白の瞬間をイメージしているのでしょうか。僕はこれ以上、僕以外に向けられている姉さんの顔を見ることができなかったので、姉さんの部屋を逃げるように出ました。
外は青ばかりの澄み切った空が広がり、子供達が円陣を組んで何かの遊びをしています。僕には向かうところがありませんでした。かといってどこかで立ち止まり、考え事を始めてしまうと、姉さんが想う直人さんの悪い所を無理やり見つけ、それをいじくり回すくらいの事しか僕の頭ではできそうもないのです。
とにかく孤児院の中を歩き回りました。足が自然と乱暴な歩き方をします。何度も柱やドアに体をぶつけましたが、心が体に入っていなのか、それほど痛みを感じませんでした。
心を消す運動の末に辿り着いたのは、朝の光のすべてを部屋いっぱいに注ぎ込んだ、小さいながらも立派な庭を覗きこめるリビングでした。そこでゆっくりと丁寧にアイロンがけをする菜貴さんの満ちたほほ笑みに目を奪われ、足を止めます。僕は菜貴さんの隣に座り、アイロンとシャツの間から昇りゆく蒸気を静かに見つめます。アイロンで蒸された直人さんのYシャツと共に、菜貴さんの日向にも似たやわらかい匂いが僕の鼻に遠慮がちに届きます。菜貴さんは言いました。
「えのんちゃんの……ことが……心配?」
好きと心配は起こりが同じなのだから、僕は否定できずに黙ったままでいました。菜貴さんを前にすると、どんな言葉も嘘っぽく感じてしまいます。菜貴さんの溢れる純粋さを前に、僕は心の底にかろうじて残されていたような僅かな素直さで、今の気持ちを応えるしかないのです。
「菜貴さんはいいのですか?姉さんにあんなことさせて」
菜貴さんの瞼がその縁の線を乱さぬよう、音を立てずに閉じられます。陽に向かって角度をつける菜貴さんの顔を日光が優しく包み込み、菜貴さんの口が言葉を途切れ途切れに表現します。まるで受けた光の温かさで言葉を紡ぎ出す様です。
「えのんちゃんは、直人を、必要としている……。だから、それだけで、いいの……。私が、直人を、一人占め、しなくちゃいけない……そんな、決まりごとは、ないでしょう?」
菜貴さんの考えは筋が通っているとは思いますが、僕にはとても納得できません。僕は、反論できる気がしました。一人の人間は一人の人間の分しか生かすも殺すもできない。直人さんは、半端な気持ちを姉さんや菜貴さんに与えたら、二人とも不幸になる。僕の両親は子供とお金を天秤に載せました。その重さの差は一週間の思考時間に値するものだったのでしょう。結果としてお金を選んだ両親の選択は、一つだけを確実に手に入れたでしょう。一つと向き合って生きていくという意味では、間違ってはいないと思いました。少なくとも、お金を選んだ両親自身は救われたはずです。僕たちのことは別として――。
「直人さんが二人を同時に選ぶような事は、間違いだと思います。……二人とも不幸になってしまうと思うんです。それでもいいんですか?」
尚も菜貴さんは穏やかに笑みを返します。直人さんも同じような柔らかい笑みで僕たちを諭すように言うときがあります。不思議と心が落ち着いて、言葉一つ一つが胸に浸透していくような感覚に囚われるのです。
「優君……とても……人の心を……勉強して……いるようですね……偉いです」
今は偉いとか賢いとか、そんな問題じゃないんです。菜貴さんの姉さんに対する本当の気持ちを知りたいんです。喉までせり上がったその言葉を、僕はむりやり飲み込みました。
「ご飯を……たくさん……食べないと……満足しない人と……そうじゃない人が……子供達の……中に……いるでしょう?……それと……同じような……ものなのです……」
僕が姉さんを求めるこの想いは、どのくらいで満たされるのでしょうか?。菜貴さんの言葉を僕なりに解釈するなら、直人さんのすべてが菜貴さんを満たしている、ということなのでしょうか?直人さんの想いが菜貴さんの方へ向いていなくても、直人さんさえが生きていれば菜貴さんは満足してしまう。僕にはとても考えることの出来ない気持ちです。心を満たしてくれる人の側にずっといて、自分だけを見ていてくれることが、人として当たり前の欲求だと僕は思っています。与えられた愛を受け止められず、その反対に与えられない愛を愛だと思いこむ。そんなおかしな話があってはいけません。しかし、その矛盾こそが愛の意味なのであれば、僕はまだ子供故に理解できないのでしょう。遠い先にあることを感じるだけ、幸せなのかも知れません。ただ自分は子供なのだと自覚しながら、何時かは手にするはずのその感情を、目を細めながら眩しそうに覗きこもうとします。それがこれから起こる筈の明るい未来の話だとすれば、菜貴さんの気持ちも、それから発せられた言葉も、いつかは納得できる気がしました。
ドライブから帰ってきたのは直人さんだけで、その直人さんは帰ってくるなり菜貴さんに小さな声で何かを告げ、直ぐに自分の部屋にこもり始めました。僕をはじめとする子供たちは姉さんが帰ってこない理由を、直人さんに取り残された菜貴さんに尋ねました。菜貴さんの声は瞬間的に、初めて会ったときよりも聞き取り難いほどに擦れ、そして、喉からは時々ひゅうひゅうと、空気が漏れる音が聞こえました。菜貴さんの白のカーディガンが、寒風に固く煽られるカーテンのように、不安で重たげに揺れ動きました。
「えのんちゃんは……今日から……お泊りで……あちらで……お手伝い……されるそうです……。みなさん……さびしいとは……思いますが……遠くにいる……えのんちゃんを……ここから……応援して……あげましょう」
子供たちの中で一番多くの本を読み、人の考えや意志を見抜くことに長けていた僕は、菜貴さんが子供たちを安心させるために嘘をついたことを、菜貴さんの緊張した声色を聞いてすぐに見抜きました。子供たちが思い思いに姉さんの働く姿を想像し、それに心の中でエールを送ると、それぞれが緩慢な動作でその場を去っていきました。残った僕は、菜貴さんのカーディガンの裾を掴み、瞳の奥を覗き込みました。少しずつその瞳を潤ませていった菜貴さんは、それまでに見たことがないような素早さで僕の頭を抱きました。
菜貴さんの無声の嗚咽が、夕日を迎えた広い部屋にひっそりと響きます。
「……ゆう……君……」
僕は息を飲み込みます。
「えのんが……えのんが……」
僕を抱く力が強くなり、食い込んだ菜貴さんの指が折れそうなほど細く、弱くなっているのを感じました。菜貴さんの次の言葉を、僕は空気を震わせない音の振動で、聞き取ることができました。こうすると、心も一緒に繋がったような感じがします。
僕の顔は菜貴さんの細いお腹に覆われ、目を閉じた暗闇の中には菜貴さんの温度が広がっています。しかし、僕は泣きませんでした。大切なものが壊されていく時、僕は僕なりの方法でそれに対抗していくためにも、ここで泣くことは許されていないような気がしたのです。少なくとも、安否の心配のあまりに自分の体調を崩すわけにはいきません。それによってまた直人さんや菜貴さんの不安の要素を増やしてはいけなかったのです。
強張った頬が、菜貴さんの肌越しに伝わる生命の脈を感じながら、僕は息を飲み込みました。
その日の夕食後の事でした。
僕は弟としてか、それともこの事件を冷静に受け入れることができると判断されたせいか、菜貴さんと一緒に直人さんの部屋に入ることになりました。菜貴さんの遠慮がちなノックに、直人さんは普段では絶対に使わない神経質な声で「入ってください」と返しました。
直人さんはこんな時であるにも関わらず木製の弦楽器を左手に持って、右手で何かを必死に書いています。弦で音を探し、その音を譜面に書き込んでいるのでしょうか。とても精神的な作業に見えます。
僕と菜貴さんは小さなソファーに腰を下ろし、直人さんの動きが止まるのを待ちました。直人さんの自分自身を相手にした闘いが目の前で続き、空気の流れが少しずつ遅くなっていくのを感じました。
時計の長い針が半周回るまで、僕たちは待っていました。
「……ごめん……」
直人さんは誰の目を見るわけでも、誰に届けるわけでもなく、その言葉を宙に放ちました。菜貴さんは、手元から大きなメモ帳を素早く取り出すと、何かの文字を目にも止まらない速さで書き込んでいきます。速記術なのでしょうか、どのように読めばいいか分かりません。菜貴さんのペンがとまり、メモ帳からそれを剥がして直人さんに差し出しました。直人さんのため息が漏れます。
「……確かにそうだね。……本当にごめん。自分の無力さを訴えても仕方がないものね……。ありがとう、菜貴」
直人さんは両手で菜貴さんの手の甲を力強く包み込みました。その瞬間に、言葉が発することが困難になってしまった菜貴さんの責任が自分にあり、それに対しての悔やみと、それを絶対に克服してみせるという強い自信が一緒に込められているようでした。「僕が謝らなければならないのは……優君、君になんだ。僕はほんの一瞬たりとも君のお姉さんから目を離してはいけない義務があった。えのんちゃんに何が起こるか分からないからね。だけど僕は用を足すために、えのんちゃんを車の中に残してしまった。せめて中から鍵を閉めるように言っておけば、こんなことにはならなかったのかも知れない……」
話を要約すると、保育施設の下見が終わった後、二人で食事を済ませ、姉さんの希望していたお店に向かう途中のことのようでした。姉さんのために何かを買おうとした直人さんは、手持ちのお金の少なさに気がついたので、市内の銀行で車を停めました。そして、直人さんが窓口でお金を受け取っている隙に、姉さんが何者かに誘拐されてしまったらしいのです。姉さんが座っていたシートの上には、直人さんが愛用している五線譜が置かれていて、それには犯人の要求が記されていました。
「一ヶ月以内でみなせ水瀬直人名義でCDをリリースすること。既存の曲の使用や再録は許されない。全て完璧なオリジナル曲として発表すること。私達がそれに満足しなかった場合は女の命は保証されない。また、警察の介入が認められた場合、貴方以外の家族(孤児院の子供含む)の命も保証されない」
僕が一番印象に残ったことは、犯人の残した記述の中に“私達”と犯人の主格が複数で扱われていることでした。自らがグループであることを示し、その気になれば家族全員を闇に葬る力を持っている事を知らせる為だと思いました。事実がどうであるかは僕たちには分かりません。これを直人さんの熱狂的なファン達による犯行だとして、その執着心で僕たちの行動を常に監視しているとしたら、警察に連絡することは非常に危ないことです。
警察を頼れないとなると、姉さんを助けるために一番安全な方法は直人さんが一ヶ月以内に新曲を発表するということになるでしょう。出来上がった作品をその“私達”がどのように判断するのかはまったく予想できません。評価するものが個人であれ団体であれ、このような犯行を犯す狂気の持ち主なら、正当に評価できないはずなのです。
「僕は犯人の要求どおり、新曲を発表します」
菜貴さんはペンを書き走らせました。それを読む直人さんは文章を素早く目で流します。
「確かにここ半年間、スランプ状態にあった僕は一曲も曲を書いていないし、事実、曲のストックも存在しない。だから、今から曲を書き上げて、それを発表するしかない。僕にとっても、この曲を受け取る一般の人にとっても、犯人達にとっても……どんな意味が込められた曲になるか……その形すらまとまってはいないのだけれどね」
曲がテーマを持たない限り、それは作品にはならない。まだ若いとは言っても、数々の作品をこの世の中に送り出してきた直人さんの作曲スタイルがそうである故に、考えなしに楽曲を作ることは容易ではないと直人さんは言いました。作曲は心の活動を音に変えるだけだと、常々僕たちに言い聞かせていた直人さんにとって、この脅迫はつらいものなのでしょう。
直人さんの苦悩に歪まされた表情と、それでも丁寧に言葉を選び続ける会話の様子を、僕は覚えてはいるのですが、それに酷く同情した記憶は残っていません。どちらかと言えば、菜貴さんの、今にも泣き出してしまいそうな伏し目がちな瞳の方がとても鮮明に憶えています。定められた期間の中の作曲活動に苦心していた直人さんに対して、力添えしてあげることができない事が悔しかったのだと思います。菜貴さんは一人という頼りない抑止力で、今にも砕けてしまいそうな心を必死に抱え込んでいました。僕は片羽を失った小鳥を見るように、直人さんの元へと飛び立つことができない菜貴さんを哀れみました。姉さんが顔の知らない誰かに誘拐されたことも、一日中部屋にこもって音を探し続ける直人さんも、僕からぐんぐんと距離を離していき、現実に起きている事とは思えなくなってきました。姉さんと直人さんの声も想いも僕には届かず、僕はひたすら姉さんの無事を、そして菜貴さんには安心を与えてやりたかったのでした。
姉さんが誘拐されてから丁度一ヵ月後に、直人さんのCDは発売されました。曲の内容については、僕ははっきりとした感想を持てませんでした。それまでの直人さんの曲とは少しだけ違っていたとしか僕には言えません。
事件のことは世の中に知られていないことですから、このCDの発売のいきさつについても、直人さんは一言も発言しませんでした。直人さんの知名度の高さについてはよくは知りません。しかし、突然の発表にもかかわらず、テレビやラジオ、雑誌等がそれほど波風を立てなかったので、それほど有名ではないことを僕は知りました。シングルCDという形で新曲を2曲発表した直後の直人さんは、それまで以上に気を落としていたようにも思われました。不安と期待を混ぜても、不安の色のほうが圧倒的に濃かったのでしょう。それは菜貴さんにも同じことが窺えました。
CDが発売されて間もない頃の事でした。僕より年下で、小学校に入学したばかりの女の子が孤児院に泣きながら帰ってきました。僕はその女の子に対し、きっとどこかで転んで体を擦りむいてしまい、逃げ場のない痛みに助けを求めているのだろうと思いました。けれど、駆け寄った菜貴さんがその子を優しくなだめ、何があったのかをゆっくりと尋ねると、予想し得ない答えに僕は一瞬で体が緊張し、硬直したのを感じました。
その子は学校の帰り道の途中、家の方向が違う友達と別れ、人通りの少ない林の隙間道を歩いていました。その時、反対側から誰かを探している様子で、ゆっくりと歩いてきた運動着姿の男に対面したのです。男は頭と顔を帽子とサングラスで覆っていたそうです。彼は彼女に「こんにちは」と声をかけましたが、彼の格好は浮き立つ程不自然で、場所もそぐわなかったのでしょう。彼女は気味の悪さと膨れあがる恐怖心のため、来た道の反対方向へ逃げようとしました。そんな彼女の肩を男の手が掴んだので、彼女はそこで全身の力が抜け、その場に座り込みました。
そんな彼女に、男は「怖い思いをさせて済まないね」と言い、スカートで覆うことが出来なかった腰を上げるために、手を差し伸べました。彼女はそれでもなかなか動けず、怯えきった彼女に対し男は直人さんの話を切り出し、自分は彼のファンで、彼に会いに来たんだ、と言いました。
直人さんの名前を聞いて安心した彼女は、差し出された細い手に手を伸ばすと、その手を強く握りました。彼女はその手で体を起こしてもらうつもりでしたが、その手は彼の体から離れ、彼女は再び土の上に尻餅をつきました。彼女の掴む手が、あるじ主を失って冷え切った、青白い右手だったからなのです。
直人さんは、それが誰のものであるかを調べることもせず、土の中に埋めました。切られたのか、千切られたのか、すり潰されたのか、溶かされたのか――根元から大きく変色し形を留めるだけでも奇跡的なそれに、僕は興味を憶えないように努めました。少しでもそれに関心が生まれた時、姉さんの苦しむ姿が頭の中に浮かんで一瞬の内に僕の冷静な思考力を奪い、それ以上先の建設的な考えができなくなってしまうからでした。
だから僕は、それを興味に値しないものとして処理すると決めたことで、いつ爆発するか分からない憎しみを隠すことができました。その憎しみは、姉さんを誘拐した犯人にではなく、姉さんを取り戻すことができない直人さんに対してです。犯人の要求を満たす楽曲を作ることの出来ない直人さんに対してです。
その日以降、幼い僕にはほんの少しの理解もできなかった直人さんの新曲を、僕なりに理解し始めました。歌詞の無い直人さんの音の世界を、犯人も僕もどう受け止めるかを、直人さんはきっと分かっていません。人が音楽に同調を望む――誰がその決まりごとを定めたかは分かりませんが、そのような音の世界が全てではないと思いました。少なくとも僕には、直人さんの音楽が人に同調を望んでいるよう、聞き手の顔色を音楽が伺っているように、聞こえ始めたのです。
誰かの左手が、陽のよく当たる真昼の花壇で、かけっこ遊びをしていた子供たちに発見されました。その手は太陽を掴むよう、その手のひらを空に向けて開いていました。根元が土に埋まって固定されていたので、その手は太陽に届かず、直射する光をそのまま受けていました。
直人さんの二度目の新曲は、確実に誰かに媚びているように僕には感じました。
姉さんを誘拐した犯人からの声明は、最初の犯行以来、一度も出されていませんでした。
二度目の製作に取り掛かった直人さんの気持ちは知りませんが、犯人が一度目の新曲で満足しなかったと判断し、その再挑戦の為であることは間違いありませんでした。それに対し、直人さんの二度目の新曲に満足しなかった犯人は、また誰かの手を送ってきました。
既に直人さんは三度目の挑戦をする気力を失ってしまいました。三ヶ月目にしてほとんど食事を採らなくなっていた直人さんに、体力的な問題も併発し始めたころでした。菜貴さんは昔に煩っていた難聴を再発させ、かける言葉も受け取れる言葉も無い直人さんに対して、発することのできない言葉を虚空に投げ出し続けました。降りかかる災難を避け、そして自分たちの負担を減らすため、僕以外の子供たちは皆、他の施設や家族のもとへ帰されました。遠い昔に行くあてをなくし、もとより他へ行く気のない僕は、水の与えられない花壇の中で菜貴さんと直人さんと一緒に生活を営むことを選びました。ほんの一歩踏み間違えるだけで、全てが崩れ落ちる橋の上で、僕は何を見ながら生きていたのかさえ、記憶するにも辛く感じました。
姉さんが誘拐されて四ヶ月、影ばかりに息を潜め続け、呼吸難でも活動を続けていた直人さんに、光が照らされ始めたようでした。菜貴さんのお腹が少し膨らんできたことにその原因があるようです。
学校の授業を終え、雨音で囲まれた昇降口で、普段と変わらない動作で下駄箱を開けたとき、僕の外履きに誰かの切断された足が入っていました。それを誰の目にも入れないように、足ごと靴をランドセルの中に入れ、その暗闇の中で、足を靴から抜こうとしました。ランドセルの蓋をしたままだったので、掴むところが分からず、足の付け根の部分に手で触れてしまいました。ついさっきまで冷凍されていたのか、とても冷たく、硬く、まるで石のようです。それでもわずかに溶け出し始めていた血液が、僕の手と、その人の足と、僕の靴を濡らしていました。僕は何食わぬ顔でそれを履き、水紋を絶えず広げる水たまりを踏みます。
血と雨が波紋の中で混じり、ゆっくりと不気味に底の土に消えていきました。
帰宅した僕を待っていたのは、事件以来始めて見せた直人さんと菜貴さんの、ぎこちない笑顔でした。本来の穏やかさを少しだけ取り戻した、静かだけれども温かい笑みを、二人は浮かべています。菜貴さんのお腹に、直人さんが耳を当てていました。
僕は直人さんの書斎に誰かの足を置こうと思い、直人さんが新曲の打ち合わせの為に出掛けた隙に、こっそり忍び入りました。直人さんの書斎は多数の書籍と楽器で埋め尽くされていました。それら全てが僕の方をじっと見ているようで不気味です。僕の動作一つ一つが彼らの目を刺激し、僕の肌が泡立ちます。僕は直人さんの机の引き出しを開けましたが、中には大量の楽譜が入っていました。日付は半年前のものから始まり、最近のものもありました。
僕は机の上に腐り始めた足を置いて立ち去ろうとしましたが、その時ふと、菜貴さんの悲しむ顔が思い浮かびました。直人さんの書斎にそれを置くことが、結果として菜貴さんの笑顔に影を落とすことに、僕は気が付きます。
足を再び持ち、僕は書斎を出ました。キッチンでビニール袋に氷をたくさん入れ、その中に足を入れます。氷の中に埋もれるその足は、周辺にある氷から深紅に着色を始めているようです。その様子をしばらく眺めてから、僕はそれを自分のベッドの下に隠します。
翌日、前の日の雨にも関わらず、全ての水分が奪われるほどの熱さが肌の上で群がっていました。太陽に頭を押さえつけられたような雑草は所々が枯れていて、土は乾いてひび割れていました。そんな誰からも見放された花壇の中に、僕はその誰かの足を埋めました。昨日の雨を保った生暖かい湿気は、深みと共に増していき、分断された肉体を快く受け入れているようでした。
僕は学校で渡された国語の宿題のプリントに取り組みます。少しだけ赤黒い血液がついていたので、濡らしたティッシュでそれを拭ってから、風を仰いで乾かしました。完全に水分を飛ばすと、プリントの濡れていた部分だけが、少し歪んでいました。
最初の数問に用意された漢字の読み書きの問題を、流すように解きました。次に待っているのは記述の問題です。全ての問題を出題者の意図に合わせて解いていきます。
答えがあらかじめ用意されている問題を、問題とは言えないと僕は思っています。解決方法がいくつか用意されている現実の問題もまた同じです。本当の問題は、幾度の方法を覆した後にはっきりとした、困難という形で現れ、僕たちの前に立ちはだかる壁のことです。
複数の答えを抱えながらも、解決にたどり着くことができない難題に、僕は僕なりの形で立ち向かい、その答えを探しているだけなのです。
姉さんを誘拐した犯人を徹底的に恨むことが正解でしょうか?犯人を精神異常者と決めつけたところで、その異常者の発狂の結果が僕から姉さんを奪うことなら、精神異常者が刑事責任を負えないように、それは一つの事故として片づけられるべきでしょう。犯人が相手の気持ちを察する事ができる正常な人間なら、僕は単純にその人を恨むことで、容易に解をはじき出します。僕の大切な姉さんが、僕の側にいないからといって、僕は直人さんや菜貴さんに責任を負わせるようなことも、解として間違いでしょう。この時僕は、誰一人報われないという意味で、やり場のない憤りを自分の中で奔らせるだけなのです。
誰もが傷つくことではなく、既に深く追った傷口を広げないようにするために僕は、この問題を冷静に受け止め、じっくりと時間をかけて最適な答えを求め続ける必要がありました。
菜貴さんのお腹が大きく膨らみ、今にも破裂しそうな時、直人さんは一曲の歌詞が入った楽曲を書き上げました。その曲の題名は「光」。歌詞は英語でほとんど分かりませんでしたが、曲調はほのかに希望を抱かせるような、薄暗い闇の底から光に向かって静かに這い上がっていくイメージを感じました。何の遮蔽物もない所の直射日光は、眩しすぎるおろか高い熱を持たせます。ですが、薄い日陰から薄い日向への緩慢な光量変化と熱変化は、温厚的で、それに伴った一歩一歩を受け流すような軽い歩行感をリズムで表し、そして抑えられた光を厚みのある優しい音で全てを包んでいるようです。
それらの音を背景にして、そこで生きゆく人の姿を映し出すために、菜貴さんの歌が入ることを、僕は歌の収録前日の夕食中に知りました。一日三回の食事も、菜貴さんの体調管理と、知らぬ間に歩き回り始めた安心感のために、少しずつその量を増やしていました。姉さんのいた時の食事量と比較すると、とても悲しい気分になりました。そして、菜貴さんの声と耳の様子も同様に、ゆっくりではありますが回復しているようでした。直人さんの子供を体内に宿し、それを外へと排出することが、どのくらい幸福であるかなんて、僕には殆ど理解できませんし、理解したくありません。その幸福の裏側に姉さんが確実に存在することを、二人は忘れているのでしょうか?それとも全てを受け入れたのでしょうか?
姉さんを忘れようとしている自分と、直人さんに心が向かっていた姉さんを受け入れようとしている自分が、毎日同じ道ですれ違い、その間二人はにらみ合います。受け入れることを望む自分はナイフを持ち、忘れようとしている自分は絆創膏を持っています。二人ともそれを胸ポケットに大事そうにしまい込んでいる様子を見ると、僕自身、まだまだ臆病なのでしょう。できるだけ冷静に――直人さんと菜貴さんが導き出そうとしているその答えを、静かに眺め、待ち続けなければなりません。
収録当日の朝、菜貴さんと直人さんが収録の為に、録音施設に出かける準備をしている時でした。「宅配便でーす」と若い男性の声が小さな孤児院の中に響きました。手が空いていた僕はそれに応対するためにロビーへ向かうと、作業着姿の男の人が、菜貴さんのお腹の中と同じくらいの大きさの箱を抱えて待っていました。宛先は直人さんでしたが、僕は直人さんの名前で署名を済ませ、宅配物を受け取りました。両手で持つには、大きさのわりに軽い物でした。それを持って自分の部屋に向かうところを、準備中の直人さんに声をかけられました。
「優君、それはどうしたんだい?」
僕は荷物に貼られた送品表を腕で隠れるよう持ち直し、笑顔を作りました。
「懸賞で当たったみたいなんです。かなり前のものでしたので、中身は分かりませんが……」
嘘をつくときは、嘘を本当の事の中にひっそり忍ばせることが一番だと知っていました。懸賞はやっていましたし、中身が分からないことも本当の事です。
「そうか……それは良かったね」
それ以上直人さんは、この箱の中身を気にかけることなく、再び出発の準備に取りかかりました。僕は少しだけ安堵の溜息を吐くと、今度は菜貴さんに見つからないようにひっそり自分の部屋に入りました。
シールになっている送品表にドライヤーの熱を加え、綺麗にはがしました。送品表を細かく千切って、中身を見ずに貯めてあった通信教育の勧誘の封筒に、複数に分けて入れます。いつか自然にゴミ箱の中にいざな誘われることでしょう。
カッターを使って、宅配物を頑丈に張り巡るテープを切って、封を解きます。何重もの箱に入れられたそれは、そのたびに小さくなっていき、次第に何かがす饐えた臭いが強まっていきました。それを包むものが段ボールから発砲スチロールに変わり、そして透明度を落としたビニール袋に変わったとき、その大きさはもとの箱より一回り小さい、中ぐらいの花瓶ほどになっていました。重さも、それ一杯に水を入れた程です。最後の袋を開け、そこに予想されたものがあることを確認すると、僕はすぐに立ち上がって、直人さんを探しました。その前に手を石けんで丁寧に洗います。臭いが残っていては怪しがられる恐れがあるからです。
「直人さん、僕も菜貴さんの収録に立ち会いたいのですけど……どうでしょうか?できるだけ迷惑はかけないようにしますから」
もちろん、最初からそのような予定はありませんでした。希望の光を避けて歩こうとしていたからです。ただ、今はその道を選んで良いのは僕ひとりだけの話で、姉さんは別です。
「……嬉しいな。僕はできるだけ優君に聴いて欲しいと思っているからね。最近塞ぎこんでいるようだから、これを機に少しでも君を元気づけることができたらと思うよ」
直人さんの口元は本当に嬉しそうです。僕は直人さんの目を見ることが出来ず、そのまま視線を下に落としながら礼をすると、僕も出掛ける準備を始めました。
外出用の鞄にビニール袋になった宅配物を入れます。既に底の部分に冷たい液体が溜まり始めてはいますが、頑丈そうなビニール袋なので、簡単に穴が空き、漏れることはないでしょう。
服装も整え、鏡の前に立つ自分を確かめます。そこに貼り付けられた表情を僕はぼんやりと眺め、それとは対象的な姉さんの色とりどりの表情の変化を思い浮かべます。
「姉さんの代わりに僕が――」
何度も反芻された言葉がまた意識の水面に顔を出し始めます。きっと僕が生きる間ずっと、背負い続ける言葉になるのでしょう。
菜貴さんの歌が収録されるとき、僕は菜貴さんとお互いが見える位置に座り、膝の上にビニール袋の入った鞄を乗せました。直人さんは二人から離れた部屋で指示を出しています。
菜貴さんと同じ部屋で聴いていられるよう、関係者の人達を説得するのが大変でした。今、マイクが用意された小さな部屋にいるのは、目を閉じて、歌へ向かう姿勢を作っている菜貴さんと、鞄を抱えて音を立てないように座り込む僕だけです。
菜貴さんからは、指示を出す直人さん達の姿が見え、直人さん達からは、座っている僕の姿は死角に入っています。僕はあえてその場所を選び、誰にも介入されない一対一のこの場所で、菜貴さんの歌声に触れてみたかったのです。
菜貴さんの耳にヘッドフォンが装着され、その分だけ減らされた二人の接点を補うように、僕の手は自然と鞄に入っている袋を取り出していました。
菜貴さんはお腹の中の子供を外から優しく撫でました。
僕は冷たく凍ったそれを跡が残らないように丁寧に触れます。
尚も保ち続ける白く綺麗な肌が、僕の指を硬くはじき返しました。
直人さんの準備が整い、窓越しの菜貴さんにサインを送ると、菜貴さんはゆっくりと大きく頷きました。緊張の色が窺えます。
菜貴さんは、脇で姉さんの頭を抱く僕に目線で合図を送りました。僕は姉さんの色を失った瞳をまぶたで閉じさせようとしましたが、固まっていてそれは叶わなかったので、右手で姉さんの両目を隠して菜貴さんに応じました。
どうぞ、始めてください。
一瞬で全てが凝固します。
菜貴さんの目が大きく見開きました。その瞳には、姉さんの切り離された頭をはっきりと映し出されています。僕は姉さんと菜貴さんの間にある空気を吸い込むように、深呼吸をしました。音の媒体である空気が僕の口の中に入り、それを吐き出しても、その空気が震えることはありませんでした。
収録は終わりました。菜貴さんは声も言葉もでない口を無理に開き、その代わりに溢れ出す涙を音と頬に乗せて、演奏の終わりを聞きました。突然声が出なくなった理由を直人さんは知らないまま、もとから菜貴さんの声を必要としていなかったのか、録り直すことなくそのまま一回で終わりました。
マイクスタンドにすがりつき、今にも倒れそうな状態にもかかわらず、最後まで無声を発し続けた菜貴さんを、僕たちはどんな気持ちで見ていれば良かったのでしょうか?その姿を最後まで見守った直人さんは一体何を考えていたのでしょうか?ぎりぎりの一線を踏み外した僕がとった行動は、後になって間違っていたと思うようになるかもしれません。けれど、僕は強い気持ちでこう思います。
ただこの場を姉さんに見て欲しかったのです。
姉さんを失ったことで生まれた影も、いつかは光に照らされ輝き出すということ。姉さんがどのような形を望んでいたかは分からないけど、直人さんが姉さんの為だけに苦しみ、曲を吐きだしていた状態から抜け出せたこと。そして直人さんと菜貴さんに笑顔が戻ったこと。僕の心の表面を磨き続ける天使が、そう囁きました。けれど、そんなのは建前に過ぎません。
本当は、この姿で返ってきた姉さんを二人に見て欲しかったのです。姉さんを忘れることで差し込んできた光も、いつかは何かに遮られるということ。姉さんが殺されていないという希望的な観測で、背負うべき責任をどこかに投げ出していたこと。今ここに、二人が見て見ぬふりをした現実が、ここに存在すること。心の内側で暴れ続ける悪魔がそう叫びました。
そしてこれが、僕が最も正しいと思った解です。
姉さんは書類上、行方不明のまま姿を消しています。最後の最後まで警察の協力を得ることを拒んだ結果でした。
収録の数日後、僕は藤河家という、過去も現在も、そして未来も安定し続けると思われるしっかりとした家庭を与えられ、その家族の一員になりました。父の収入は安定し、母は家を守り続け、父母二人が必死に守り続ける生活基盤の上、僕にはひたすら考える時間が与えられました。それは過去を振り返ることよりも、未来を見つめることがどれだけ有益であるかを知るための時間であったのかのように思えます。新しい父と母は、僕には計り知れない愛情を絶え間なく注いでくれています。外見上、二人の要求には全て的確に応えているつもりです。ですが、その度に自分が孤独であることを強く感じます。両親はそんな僕に気付いて、僕の孤独を守ろうとする立場を崩そうとしていますが、その報われない努力の姿が、僕自身のせいであり、とても痛ましく思います。それは、無条件で与えられる光を眩しすぎるからといって、また自ら闇に出向く姿そのものでしょう。
直人さんや菜貴さんから送られてくる手紙は、中身を見ずに捨てています。最初は一ヶ月の間隔であったそれも、一年おきになり、今となってはしばらく届いていません。どんな弁解の言葉も、過去の出来事を前にしてはとても意味の無いものだと僕は思います。また、二人の歩み出す未来を僕に提示していたのだとしても、僕は悲しむだけで、姉さんにとってはもっと辛いことでしょう。心の狭い僕は、あの事件をやはり憎しみという簡単な答えでしか解答できなかったのです。姉さんなら、それに赤ペンで×をつけ、どんな模範解答を見せてくれることでしょうか?
消化しきれない感情、または解決しきれていない問題を取り残しながら生きていくことはとても大変です。しかし、それを一時の感情や答えでしのぎ、自分にとって都合の悪いことを忘れて生きようとすることは、とても卑怯だと僕は思います。しかし、それ無しにはこの汚れきった世の中を生きていくことはできないと、直人さんは「光」というカタチで示しました。もしかしたら、菜貴さんや直人さんは、僕には見えないカタチで、過去を忘れようとしたのではなく、受け入れようとしていたのかも知れません。もし、そうだとしたら、僕の取ったあの行動は、そのもっとも醜い残酷な部分の記憶の想起を促しただけということになるでしょう。墓を掘り返すという行為と同じです。僕は、その「もしも」の場合の後悔だけに捕らわれ続けました。未来にもしもの先があっても、過去にもしもの先は存在しないことを知らずにです。
「全てを自分のせいにし過ぎている」人にこの悩みを打ち明けたとき、誰もが返す言葉です。しかし、僕には自分や人の悲しみを背負い込み、誰もが望まないタイミングで吐き出すことしかできません。
姉さんが川辺で笑っています。泥で汚れた足をみて、「足がないみたい」と言う声が果てしなく愉快そうです。その足でアスファルトを歩けば、茶色の泥の足跡が僕の過去になるでしょう。汚いですが、それは僕です。
四肢と頭を残してどこかへいった姉さんの足跡は、どこにあるのでしょう。それが未来に続く道を示していても、僕にはその道を歩いていくことができるでしょうか?
綺麗な道は歩むべく未来のごとく。誰も選んだことのない道は道にならず。側に誰もいない道は夜道のように、姉さんのいない世界はただの闇であるように。
しかし、それ以外の道を選ぶことができるほど、僕は柔軟ではありませんでした。