バレンタインデーに何を贈りますか?
朝から木枯らしが特攻しているかのような天気だった。
ボクは登校中の悪天候に嫌気が差して、学校をサボってユキの家にいた。
普段真面目な分、時折仮病を使っても何も言われることはない。
優等生の特権だ。ましてや今日はとても寒い。誰だって風邪ぐらい引いてもおかしくは無さそうだ。
ユキはいつものようにボクを迎え入れて、セブンアップを投げてよこした後は、一言も発することなく、背を向けて黙々とパソコンに向かっている。
いつもの人生相談か、それとも他人から預かった株式の運用なのか、最近趣味で始めた作曲なのか。
やたら大きなヘッドフォンをしている姿からは全く予測が付かない。
室内はユキが叩くキーボードの音と規則正しく動く二人の呼吸だけで満たされていた。
ボクはその音に耳を傾けながら、ヘッドフォンに隠されたユキの耳を想像し、ふと、その耳を刃物で力任せにねじ切ってみたい衝動に駆られた。
どんな悲鳴を上げるだろうか、それともいつものような冷淡な態度で淡々と痛がるだけなのだろうか。
そうしたユキの苦痛にこそ、ボクは途方も無い愛を感じる。
次々に部位を欠損させていき、最後に息絶えるまで彼女を見守りたい。
最後には切り取ったありとあらゆる部位を、この部屋と共に無限に保存しておきたい。
心の底から狂おしいほど、そう願う。ボクはユキに恋焦がれている。
もちろん、こんな感情は『普通』ではない。好きな相手を徹底して傷つけたい、というのは異常であると。
そうして『常識』や『良識』として心の中で分別し、現実には実行しない程度の理性はある。だからこそ、心の中だけで飽きるほど夢想し、苦しく、切なく、ボクの想いは泥のように募っていく。
「カズキ、君、チョコは好きかね」
男にしては高く、女にしては低いユキの声。
キーボードの音の雨はいつのまにか止んでいた。
ユキはヘッドフォンを外すと、回転椅子ごとくるりとボクのほうに向き直した。髪が揺れて、形の良いふっくらとした耳が一瞬だけ、その全体像を覗かせる。
「きらいじゃないけど、なんで?」
「なんでって……君は不思議な男だな。まさかゲイか?」
ユキは顎に手を当てて訝しむような視線でボクを見ていた。
作り物めいた、どこか人工的な顔立ちは人形を思わせる。
どきり、と。心の奥が動く感触があった。
「何でだよ! どの文脈でそうなるんだよ!」
気恥ずかしさを悟られまいと、つい、大きな声を上げてしまう。
「バレンタインデーを忘れる男など、ゲイかインポテンツに決まってる。私の米軍の友達がそう言ってた」
「決め付けるなよ! 大体なんだよ、米軍の友達って!」
「ホセ=アルカディオという南米出身の男でね。代々、家訓で先祖と同じ名前を名乗っている。以前、家系図を見せてもらったが、ほとんどの所にホセ=アルカディオって書いてあって、わけが分からなかった。何考えてるんだろうな、あの一族」
頭が痛くなってきた。ユキの話に脈絡がないのはいつものことだが、今日はいつにも増して何が言いたいのかわからない。
すぐ話が脇道にそれるのは、ユキの悪癖の中でも十指に入る面倒臭さだ。
「で、その一族というのが面白くてね。伝承によると……」
ボクは手でユキの話を制した。
「本題に戻してくれよ、頼むから」
ユキは可愛らしく小首をかしげる。男にしては長く、女にしては短い髪がさらりと揺れる。
「……何の話だったかね?」
「バレンタインデーだろ」
「おぉ、そうだった。カズキ、そこの冷蔵庫にチョコがある。あげるよ」
「ユキが? ボクに?」
「いらないか?」
要る、要らないで言えば欲しい。
義理なのはわかりきっているが、ユキは不登校のくせにやたらアクティブで、暇を見つけてはあちこちで甘いモノを食べ歩いている。
そんなユキが選んだチョコレートならまず、間違いなく美味しい。
ただ、同時に『ユキから』というのが引っかかる。
ユキは快楽主義者ではあるが、同時に功利主義者だ。
自分が気持ちよければ何でもするが、同時に他者に対しては利益無しには絶対に行動しない。
ましてや一般的な少女のように何の目的もなく、人に施しをすることは考えられない。
裏があるはず。ボクはユキの意図に頭を巡らせる。
ボクの顔を見て、ユキは唇をニヤリとシニカルに釣り上げる。
その悪人ヅラが妙に様になっているのは彼女の顔立ちというより、性格の問題なのだろう。
「安心したまえ。私が君に期待している利益は、君にとって大した労力ではない。それこそ呼吸をしているだけのようなものさ。ありきたりな契約のように君に何かをしてもらうなんて言わないよ」
ボクはユキを信頼して、部屋の隅にぽつりと置かれている冷蔵庫を開いた。
大量のセブンアップの缶の上に、綺麗なラッピングが施された箱が置かれていた。雰囲気から高級さを感じ取ることが出来るほどだった。
「ちなみにそれ、六粒入で五千円くらいする」
ユキがボクの背中に言葉で追い打ちをかけた。
「……ほんとに裏は無いんだろうな」
「表も裏もあるものかよ。私はメフィストフェレスじゃない。時は止まらないし、誰も彼も美しくはない。ましてや永遠なんて願う価値もない」
ボクは虎の尾を踏むような気分で、チョコの箱を取る。
想像していたより、少し重い。これが高級品の重みなのかと感心する。
「お返しはルールに則れば三倍らしいが……君、三月までに用意出来るか?」
「返す」
ボクは自分でも驚くほどの勢いでユキに箱を突き返した。
そんな借金取りみたいなセリフを言われてまで欲しくない。
そしてユキは取るとなったら絶対に取るまで追い詰める。そういう性格だ。
「冗談、冗談、ジョーダン・ルーデスだ」
ユキはよくわからないネタで笑いながら箱を受け取ると、包装を丁寧に破り、箱を開いた。
可愛らしく彩られた装飾に包まれた粒が六つ、宝石のように鎮座していた。
ユキはすらりとした指で一つつまむと、さくらんぼ色の唇に運んだ。
舐めるように咀嚼し、満足気な表情を浮かべ、一つ空席の出来た箱をボクに差し出す。
「まぁ、君も食べろよ。相変わらずいい仕事をしている」
ボクは勧められるがまま、チョコを一つ、口に運ぶ。
甘くて、重い。口の中で濃密に愛が溶けるような、そんな味。
「……美味しい」
ボクは口にチョコを含んだまま、つぶやいた。
ユキは軽く肩をすくめた。
「それは良かった。しかし、バレンタインデーと言うのは割の良い投資だと思わないか? 元手があまりかからず、リターンがほぼ確定している投機対象なんて世の中に全くないぞ。しかも、世間とやらの影響で三倍は確定だ。そりゃ、世の中の人間が夢中になるわけだ」
ボクはユキの意見に眉を潜めた。ユキは愛すらも金に置き換えることが可能だと信じている。
しかし、仮にここで愛について反論しても、ユキはおそらく一ダース以上は反論を用意しているだろう。なにしろ以前、男の価値は金で、女の価値は若さだと言うことをあらゆる角度から様々なデータを持ちだし、都合一時間もかけてボクに説明したほどだ。
だから、ボクはユキに『常識』を用いない。
もちろん、ボクは『同意』もしない。
「ユキ、バレンタインデーという投資はリスクも多いんだよ」
「ほう? 君にしては珍しい意見だ。続けてくれ」
「まず、相手が一人に限定されてしまうということ。原則として三倍返しを期待できるのは本命だけだ。いくつもばらまいていたら、自分の商品価値を下げてしまう。第二に、相手の経済状況を加味しても、相手が自分をそれだけの価値として認識してくれるかわからないというところだ。三倍を送る価値がないと判断されて大損したからといって、持ちかけた方からはすぐにその対象を破棄することは出来ない。そして三つ目、相手が当たり前に金銭で測れるものに価値を感じているとは限らない点だ。お金に換算出来ないような、いわゆる『気持ちのこもった』と称される金銭的に価値の無いモノを掴まされるリスクも有る。そうだろう? 実際に今回の君がボクに求めたのはその三つ目のケースだから、違うとは言わせない」
ユキはしばらくきょとんとして、口元を抑えると、信じられないほどの大声で笑い出した。
「ははっ、なるほどな。確かに私が矛盾していた。ある人物にとっては宝石にも匹敵する価値は誰かにとってのゴミクズということか。普遍の共通価値など、金以外にない。しかし、金を送るという行為は『世間』とやらが許さない。なぜなら愛は金で換算してはいけないものだと信じられているからか。ははっ、いいな、滑稽だ、愉快すぎる。なかなかどうして……カズキ、ホントに君は面白いな」
ユキは目尻に涙を浮かべながら、身体をくの字に曲げて笑い続ける。
しばらくその姿勢で笑い続けて、身体を起こすとパソコンデスクの上にある飲みかけの缶を手にとって一口含んで飲み込む。頸動脈の浮かんだ絞めれば簡単に息絶えそうなか細い首。不意に切り落としたらどんな表情を見せるのだろうかと考えてしまった。
「ありがとう、カズキ。恋愛至上主義者の君がこんな屁理屈を考えるのはさぞかし大変だっただろう」
ユキはそう言って、缶をジャージの袖で包みこむようにして持った。
ユキのような人間を『寂しい』といってしまうのは簡単だ。けれども、そうして『寂しい』と遠ざけられれれば遠ざけられるほど、ユキのようなか弱い存在はお金しか守り手がいなくなる。なぜならそれが世界で認められている共通で唯一にして絶対の価値なのだから。
もしかすると、ユキがお金以上の価値を手にする日は生涯来ないかもしれない。
しかし、だからこそ、ボクだけはその日が来ると信じて、この存在を決して見捨てずにいたい。
功利主義者で、快楽主義者で、拝金主義者のこのちっぽけな不登校児が。
いつか、愛の意味に気づいてくれると信じて。
ボクはただ、ユキが死ぬまで側に居続ける。
たとえ、その死因がボクの手によるものになるかも知れないとしても。