おぼろ月夜
いつも優しく笑う私のだんな様は、丁寧に接してくれるけれど何か上の空で。晴れた晩には縁側に座って晩酌を。私を隣に座らせてくれるけれど、月の方が気になるようだ。まるで、昔離れ離れになったかぐや姫の帰りを待ちわびているかのように。
「もう一本、おつけしましょうか?」
「いや、今日はこれでおしまいだ。」
「はい。」
祝言で初めて顔を合わせるなどということは、この近辺でももう珍しいことになった。でも、私はまだまだ18で、いいの悪いのと聞かれても、何もわからない子供だったから、周りがすべて決めてくれることが、むしろありがたいと思っていたくらいだ。けれど嫁いでみてから、もう少し考えてみたらよかったのじゃないかと思う。自分に荷が重くはないのかくらい、判断できたのではないかと。
明さんは、8年前に鎌倉から越してきた、中西本家のご長男だ。先代は跡継ぎがいないまま亡くなり、妹さん一家が本家に入って、そこに明さんがいたというわけだ。3つも4つも山を持つこの家は、不動産の管理だけで一仕事らしく、今は御義父様がやっていらっしゃるそれらのことも、会社勤めをしながら少しずつ手伝っている。私はというと、今は何もわからなくて、毎日掃除や洗濯や、そういった家事をやっているだけだ。
「皐月、お前の夢はなに?」
「え?」
唐突だった。あまりにも唐突に聞かれて声が裏返った。結婚して1ヶ月、会話らしい会話もまだできぬ、ぎこちないにわか夫婦とでも言ったらいい私たちには、もしかするととても相応しい話題だったかもしれない。お互い知っていることといえば、名前と歳、それくらいのものなのだから。
「夢といいますと・・・」
「将来何になりたいか、とかかな。こどもが卒業文集に書くような。」
そういえば、書いた記憶がある。早くに父を亡くし、母が一人で私と弟を育ててくれた。そんな家では、とにもかくにもひとり立ちしたいという思いしかなかった。『大金持ちになって、大きな家を建てる』といったことを書いていたような気がする。それは今も変わりない。ただその方向が、早く結婚して母を安心させたい、そうなっただけで。だから正直なところ、その夢は叶っている。
「夢は、お嫁さんです。」
嘘ではない、素直な気持ちだし、夢を叶えてくれた明さんにも感謝している。でも、明さんの顔は喜んでいる様子は微塵もなく、むしろ悩みが更に増したかのようだ。
「んー、じゃあ、どんなお嫁さんになりたかったの?っていうか、どんな生活がしたかったのかなって。」
そんな、そんなこと、考えたこともなかった。正直に言えば、結婚が誰かと一緒に暮らすこと、以外のことを知らなかった。嫁の立場の仕事とか、ご両親にどう接していけばいいのか、それより何より、人間関係としての夫婦、それがどういうものなのか、まったくわからなかった。無理もないと思って欲しい。なにせ、物心就いたときには母一人の後姿しか、見ていないのだから。父と母がどんな会話をするか、それを目の当たりにしたのはお嫁に来てから。御義父様とお義母様が夕飯時におしゃべりしているのを見たのが初めてだったのだから。
「・・・そんな、難しいこと。」
今の生活、これが永遠に続けばいい。そう思っていることは、意外に伝わっていないのだ。けれど、それをどういえばうまく伝わるのかも私にはわからない。遠慮と取られても嫌だし、あきらめているのでもない。本当に、このままでいいのだ。なのに・・・
「どうしてそんなことを聞くんですか?私のどこが悪いんでしょうか。言っていただければ直します。それとも・・・」
私のことは、もう郷へ返したくなったというのだろうか。一回りも違う子供では、やはり相手にならないのだろうか。そう言われてしまえばおしまいだ。
ついでに言ってしまえば、本当はいつもびくびくしていた。いつ言われるのだろうか、「こんな子供では嫌だ」と。
けれど、明さんが言った言葉はまったく予想できないことだった。
「皐月、お前、月に帰ったりしないよな。ずっとここにいるよな。」
急に真顔になってこちらに向き直るから、少し怖くなった。気がついたら私の右手の上に、明さんの左手が重ねられている。
「いつも何も言わない。聞いても本心かどうかわからない。それはいつか出て行こうと思ってるからか?」
「・・・どうして、そんな風に?」
とても驚いた。いつも月ばかり見て私のほうを見ないのは、明さんのほうではなかったか。かぐや姫のことだけを思っていれば幸せな、そういう人ではなかったのですか。
「いや、いいんだ。なんでもない。」
ここまでいつもと違う様子を見せておいて、なんでもないと言ってしまうとはある意味すごい人だと思う。でも、そう思っていることもきっと伝わらない。私はどれだけ下手なのだろうか。せめて安心して欲しいのに、何に不安なのかもはっきりわからない。明さんだって、決して口数の多い人ではないのだ。
「やっぱり、もう一本つけてもらおうかな。いや、冷のままでいい。」
「はい。」
なんだか、今日は珍しい。違う人と一緒にいるような気さえしてくる。
新しい徳利から手酌でお酒を注ぐ。くいっと呷ると不意に引き寄せられた。熱い。喉が焼け付くようだ。そして頭がカッとなる。
「おまえは、隙がなさすぎて困る。酔っ払ってるくらいでちょうどいい。」
どうやら、口移しで流し込まれたらしいお酒に、何も考えられなくなってしまった。二の句が告げずに、とにかく倒れないよう必死で体を支える。何を考えているのか益々わからなくなりながら、なんとかだんな様を見返した。
「皐月、そうやってフラフラしてろ。月になんか帰るな。」
酔っ払ってしまったせいだろうか、また明さんが不思議なことを言っている。私がどうやって月に帰るというのだ。そもそも月から来たわけじゃない。名前に月があるだけで。
「明さんも、月ですよ?」
そう、名前が悪いというのなら、明さんの名前にも月がある。でも明さんはまた変な顔をして黙ってしまった。
夕べのことは、そこまでしか覚えていない。つまりそのまま寝てしまったのだろうと思う。恥ずかしくて、今日は明さんと顔を合わせたくない。そんな日に限って、いつもはのんびり寝ているだんな様が、すでに隣で目を覚ましていた。
「おはよう。」
「・・・おはよう、ございます。」
なぜか、朝からにこにこしている。それは、悪いことではない、私にとっても。
考えると、頭が痛くなった。ズキン、ズキンという初めての経験だ。ただ、心の痛みは遠のいていた。私はここにいてもいい、そのことだけは、はっきりしたような気がするからだ。