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【グリーフケア宗教×科学エッセイ】悲しみは愛の最後の形 ~私はずっとあなたを呼び続ける~  作者: 藍埜佑


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第四章 愛という情報は失われない

 物理学の話をしよう。ただし、冷たい数式の話ではなく、それがあなたの悲しみにとって何を意味するかという話をしたい。


●ユニタリ性という「宇宙の約束」


 量子力学には「ユニタリ性」という根本原理がある。端的に言えば、宇宙において、情報の総量は変化しない、というものだ。


 何かが起きると、その「痕跡」は必ず宇宙のどこかに残る。完全に消滅することはない。ブラックホールに飲み込まれた物質でさえ、その情報は失われないと、現代物理学は考えている。


 あなたが失った愛する人がこの世で生きた事実。

 あなたを見つめた目。

 あなたに触れた手。

 あなたのために心配した夜。


 それらが生み出した物理的な影響は――空気の振動、温度の変化、あなたの神経回路に刻まれたパターン――宇宙の因果の連鎖の中に、永久に組み込まれている。


「読み取ることができない」という現実的な壁は、確かにある。しかしそれは「消えた」こととは違う。それは確かに「在る」のだ。


●科学者が書いた、届かない手紙


 物理学者リチャード・ファインマンは、量子電磁力学の理論でノーベル賞を受賞した、二十世紀を代表する科学者の一人だ。


 ファインマンの最初の妻アーリーンは結核だった。二人は彼女の闘病中に結婚し、一九四五年、アーリーンは亡くなった。その直後、ファインマンはロスアラモスで原子爆弾の開発に携わっていた。人類が手にした最も強力な物理学の結晶のただ中にいた。


 アーリーンが亡くなってから一年以上が経ったある日、ファインマンは妻に手紙を書いた。もう届かないと知りながら。


「君がいなくてとても寂しい。僕はまだ君を愛している」


 そして手紙の最後にこう書き加えた。


「追伸――この手紙を出す方法がないことは知っているけれど」


 この手紙は封をされたまま保管され、ファインマンの死後に発見された。


 量子力学の最先端にいた人間が、死者に手紙を書くという非合理な行為に救いを求めた。それは科学の敗北ではない。科学が人間の愛の前で、静かに膝を折った瞬間だ。


 ファインマンは、情報は失われないという物理学の原理を、誰よりも深く理解していた人間だ。しかし理解することと、それで心が満たされることは違う。鈴木大拙の例と同じだ。彼は手紙を書いた。届かないと知りながら。その行為自体が、祈りだったのだ。


 科学と祈りが出会う場所。それは、教科書の中ではなく、一人の物理学者の書斎の中にあった。


●あなたという「最も濃密な器」


 あなたが失った人の愛が最も濃密に「刻まれている」のは、()()()()()()()()()()


 あなたの判断の癖、他者への接し方、何かを好きだと感じる感覚、困難なときの踏ん張り方――その一つひとつに、あの人からの影響が織り込まれている。あなたの神経回路は、文字通りあの人との関係によって形作られてきた。


 これは比喩ではない。神経科学的な事実だ。人間の愛着関係は、脳の物理的な構造に影響を与えることが知られている。特に幼少期からの関係は、神経回路の基本設計そのものに関わっている。しかし大人になってからの深い関係もまた、脳の構造を変化させる。


 あなたがこれからも考え、感じ、誰かを愛するとき、そこにはあの人が「初期条件」として存在し続けている。


 あなたが誰かに優しくするとき、その優しさの中にあの人がいる。

 あなたが何かを美しいと感じるとき、その感性の中にあの人がいる。


●「関係性」の中に宿る愛


 哲学者のマルティン・ブーバーは、存在することは関係することだ、と言った。人間は関係の中にこそ存在する、と。


 あの人の愛は、あの人の脳の中だけにあったのではない。あなたとあの人の「間」にあった。その「間」――関係性そのもの――は、あの人の肉体の消滅によって完全には消えない。


 なぜなら、()()()()()()()()()()()()()()


 関係性の片方が生きている限り、その関係性は現在進行形で存在し続ける。


 あなたがあの人を思うとき、それは過去の()()()()()ではなく、今この瞬間の()()()()()だ。


●死者の言葉を運ぶ者


 アンネ・フランクの日記が世界的に知られているのは、それが第二次世界大戦下のユダヤ人少女の記録として比類のないものだからだ。しかしその日記が世界に届いたのは、一人の父親の行為による。


 アウシュヴィッツから生還した父オットー・フランクは、妻も二人の娘も収容所で失っていた。戦後、アンネの日記を手にしたオットーは衝撃を受けた。


「この子のことを何も知らなかった」


 十代の娘の内面の深さ、観察の鋭さ、世界への希望。父親として日々接していながら、その内面をまるで知らなかった。オットーはその後の人生を、娘の言葉を世界に届けることに捧げた。


 死者の言葉を運ぶ者。オットーの生涯は、「情報の保存と伝達」という物理学的な原理の、最も切実な人間的形態だった。アンネの言葉は、父を通じて、世界中の何百万もの人々に届いた。アンネの肉体は失われた。しかしアンネの情報――彼女の思考、感情、希望――は、今この瞬間も世界中で読まれ、引用され、人々の行動に影響を与え続けている。


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