第一章 あなたの悲しみは正しい
まず、はっきり言わせてほしい。
あなたの悲しみは間違っていない。
大切な人を失って悲しまない人間は、その人を愛していなかった人間だ。悲しみの深さは、愛の深さの証明だ。だからあなたが今感じているその痛みは、あなたが失った人があなたにとってどれほど大きな存在だったかを、身体で刻んでいる証拠に他ならない。
現代社会は、悲しむことに対してどこか居心地が悪そうにする。
「前を向こう」
「時間が解決する」
「あの人ならそれを望まないはず」
そういった一見前向きな言葉がやってくる。どれも悪意からではない。しかしそれらの言葉は、往々にして悲しみそのものを小さな箱に押し込めようとする。
心理学者のエリザベス・キューブラー=ロスは、一九六九年の著作『死ぬ瞬間』の中で、悲嘆のプロセスを記述した。否認、怒り、取引、抑うつ、受容という五つの段階だ。しかし彼女自身が後年語ったのは、これは段階ではなく、感情の海の中で人が経験することの地図に過ぎない、ということだった。順番通りに進む必要はない。何度も同じ場所に戻ってくることがある。受容に達したと思った翌朝、怒りの中で目覚めることがある。それが人間の悲嘆の姿だ。
だから、あなたが「まだ悲しんでいる」ことを責める必要はない。あなたが「いつまでも忘れられない」ことも、あなたの弱さではない。
C.S.ルイスは、妻を癌で失った後、その悲嘆を日記に書き続けた。神学者であり、キリスト教を擁護する著作を多く書いてきた彼が、妻の死後、神の存在そのものを疑い、怒り、問い続けた。その記録は後に『悲しみをみつめて』として出版された。
その中で彼は、悲しみは恐れに似ている、と書いた。胸の奥が空洞になるような感覚。世界の輪郭が変わってしまったような感覚。それは喪失した者だけが知る、固有の感触だ。
彼はこうも言っている。
悲しみは愛の最後の形である、と。
もし悲しみが愛の最後の形であるなら、あなたが今この瞬間に感じているその痛みは、あなたとあの人との間にあった愛が、今もなお生きている証拠だ。
フランスの思想家ロラン・バルトは、一九七七年に母アンリエットを亡くした。記号論の大家として知られ、あらゆる文化現象を構造的に分析してきた知性の人だった。しかし母の死の前で、彼はそのすべての理論的枠組みを手放した。
バルトは母の死後、三百三十枚のカードに悲嘆の断片を書き続けた。日付と、その日の感情の欠片だけを。それらは死後に『喪の日記』として出版された。
そこに書かれていたのは、分析でも、解釈でもなかった。
「母は私のすべてだった。それ以外のことを言っても嘘になる」
記号論の大家が、あらゆる記号を捨てて、ただそう書いた。
知性は悲嘆の前で無力になる。しかしバルトはそれでも書くことをやめなかった。書くことが祈りだったからだ。理論では捉えられないものがある。しかし言葉を置き続けることはできる。そのことを、彼の三百三十枚のカードは静かに証明している。
バルトはやがて、母の一枚の写真をめぐる思索を『明るい部屋』という著作に結実させた。幼い頃の母が写った「冬の庭の写真」を中心に、写真とは何か、死者の痕跡とは何かを論じたこの本は、写真論であると同時に、母への長大な手紙だった。
彼は書いた。この写真の中の母は、もう存在しない。
しかしこの写真の中の母は、確かに存在した。
この二つの事実の間で、自分は引き裂かれている、と。
その引き裂かれた場所に、あなたも今いるのではないだろうか。
あなたが失った人の声を、まだ聴こえるように感じること。ふと振り向いたときに、そこにいるような気がすること。あの人が好きだったものをスーパーで見かけて、思わず手に取ってしまうこと。
それはおかしいことではない。
アメリカの作家ジョーン・ディディオンは、二〇〇三年、夫のジョン・グレゴリー・ダンが夕食の席で心臓発作により急死するのを目撃した。その体験を『悲しみにある者』に書いた彼女が記録したのは、夫の靴を捨てられない自分の姿だった。
「彼が戻ってきたときに必要だから」
本気でそう考えている自分がいる。夫が死んだことは知っている。しかし靴を捨てたら、本当にもう戻ってこないような気がする。ディディオンはその心理を「マジカル・シンキング(魔術的思考)」と名づけた。一流のジャーナリストの眼で、自分の中の非合理を冷徹に、しかし深い愛情をもって観察し続けた。
あなたの中にも、同じようなものがあるかもしれない。あの人の部屋をそのままにしている。あの人の携帯電話の契約を解除できない。あの人のメールを消せない。
それは弱さではない。それは愛だ。
人間の悲嘆は、合理的にはできていない。合理的にできていないからこそ、それは愛の証拠なのだ。
あなたの悲しみは、正しい。
まずそれを最初に言いたかった。




