そらからの許嫁
今日は金曜日。今日の授業さえ乗り切れば、待望の休みがやってくる。
毎朝ベッドから這い出すのに苦労する俺でも、「金曜日」という響きだけで、わずかながらに活力が湧いてくる。
手早く洗面を済ませ、ネットでまとめ買いした安物のサンドイッチを一つ手に取る。朝食用に一つ、昼食用にもう一つ。それが俺のルーティンだ。
登校中、ふと前方に同じ部活の夜空さんの姿を見つけた。
一応、顔見知りだし、挨拶くらいはしておくべきだろう。
「おはよう、夜空さん」
彼女は心ここにあらずといった様子だったが、俺の声に驚いたのか、まるで怯えたハムスターのように一瞬硬直した。それからおずおずと、「お、おはよう……影山くん」と返してきた。
昨日一緒にゲームをした仲だし、少しは距離が縮まったはずだ。現充(リア充)なら、ここで横に並んで共通の話題で盛り上がるんだろうな。
「昨日の、あのさ……」
「ごめん影山くん、急用を思い出したから先に行くね!」
歩み寄ろうとした俺の言葉を遮るように、彼女は脱兎のごとく駆け去っていった。後に残されたのは、風に吹かれて呆然とする俺だけだ。
……やれやれ。可愛い女の子と仲良くなるなんて、結局は俺の独りよがりだったわけだ。
現実はライトノベルじゃない。二言三言喋ったくらいで、美少女と急接近なんて都合のいい展開があるはずもない。
俺はため息をつき、パサついたサンドイッチをかじった。前の店より具が少なくて、喉に詰まりそうだ。
教室に入り、始業までのわずかな時間を仮眠に充てることにした。
俺には気心の知れた幼馴染もいなければ、つるむ親友もいない。夜更かししてゲームに耽り、朝の教室で眠りにつく。そうしていれば、一人ぼっちの寂しさを紛らわすことができるから。
「影山くん、具合でも悪いの?」
不意に、予想外の人物に声をかけられた。学級委員長(クラス委員)の小林雫さんだ。顔の半分を覆うような丸眼鏡に、ノーメイクの素顔。髪は飾り気のないポニーテールにまとめられている。
「……別に」
余計なことを言ってボロが出ないよう、極力短く答える。俺のような陰キャには、ぶっきらぼうな態度で人を遠ざけるくらいが丁度いい。
「入ってきたとき、すごく元気なさそうに伏せていたから……少し心配になったの。何でもないならいいんだけど」
接点のなかった委員長が、なぜこんなに優しく気遣ってくるのか。不気味ですらある。
「昨夜、ゲームで夜更かししただけだよ。心配してくれてありがとう」
「夜はちゃんと寝ないとダメだよ。……それに、その、あのね……」
委員長は珍しく言葉を濁した。見れば、彼女の耳の端まで淡いピンク色に染まっている。
結局、彼女はそれ以上何も言わず、挨拶だけして自分の席に戻り、顔を隠すように本の中に埋もれてしまった。
午前の授業——数学や英語なんてものは、俺の脳内を通り過ぎていくだけだ。
退屈を紛らわすために、巡回する教務主任の目を盗んで、こっそり隠し持った雑誌や小説に没頭する。
ふと視線を上げると、いつも真面目に授業を受けている委員長が、今日はどこか心ここにあらずといった様子だった。俺が周囲を警戒する短い間だけでも、彼女は二回もこちらを盗み見ていた。
……まさか俺に気があるなんて自惚れはしない。きっと小説を隠し持っている俺を、委員として見張っているだけだろう。
放課後、白瀬さんに誘われて部活へ向かう。
「帰ってから中路のキャラを練習してみたんだけど、影山くんみたいに上手くいかなくて」
「難易度の高いキャラだからね。でも白瀬さんなら、練習すればすぐに使いこなせるようになるよ」
「来週は生徒会との試合だもんね。緊張するけど、影山くんがいてくれるなら安心かな」
隣を歩く美少女から漂う、ほのかな花の香り。これに抗える男子なんて、そうそういないだろう。
その時、スマホが震えた。画面には「父」の文字。
俺の親父は、絵に描いたような保守的な人間だ。「早く結婚して跡を継げ」だの「孝行しろ」だの、電話のたびに小言が飛んでくる。
隣にこんなに可愛い女の子がいる前で、親父に説教される情けない姿は見せたくない。俺は音量を最小にして電話に出た。
「親父……」
『安心しろ、今日は説教じゃない。もうお前を干渉するのはやめだ』
「は……?」
『お前を管理する奴を、別に用意した。もう放課後だろ? 早く帰れ。相手を待たせるな』
「何を言ってるんだよ、さっぱり分からない」
『縁談をまとめておいた。向こうの親御さんも承諾済みだ。今日からそいつは、お前の「許嫁」として同居することになったからな』
「……っ!? 同居!? 会ったこともない相手と、結婚とか同居とか……!」
一気に血の気が引いた。性格の合わない相手だったらどうするんだ。
家事や育児に追われ、趣味を否定され、会社では上司に頭を下げ続ける……そんな地獄のような将来が頭をよぎる。
声を抑えていたはずが、最後の一言は思わず叫んでしまっていた。少し離れて待っていた白瀬さんも、驚いた顔でこちらを見ている。
だが、親父の命令は絶対だ。俺の家は、そういう古いしきたりが残る家庭なのだ。
俺は今日の部活をキャンセルし、白瀬さんに頭を下げて早退することにした。
「本当にごめん。急な来客があって、どうしても戻らなきゃいけなくなったんだ。部活のみんなに伝えておいてくれるかな」
「大丈夫だよ。何かあったら私やみんなを頼ってね。気をつけて帰って。応援してるよ、影山くん」
白瀬さんの優しさに救われながら、俺は鞄を掴んで駆け出した。
その「許嫁」の素顔(正体)を確かめるため。そして、見知らぬ相手をあまり待たせたくないという、妙な義理立てのために。




