万の誹謗を越え、荒波を征け
部室のドアが近づくにつれ、少女の足取りは緩やかになり、繋いでいた手は自然な流れで解けていった。
俺はただ、掌に残された熱の余韻を、消えないようにと何度も反芻していた。
「――何も知らない人を貶め続けるなんて、すごく嫌で、すごく最低なことだよ。だから影山くん、自分を信じて。……たとえ万の誹謗に囲まれようとも、君ならその荒波を越えていける。来週の eスポーツ大会も、その先の体育祭も、一緒に頑張ろう? 二人で、みんなを見返してやるんだから」
白瀬さんの瞳を見つめていると、言葉にできない感情が胸の奥からせり上がってきた。
クソッ、なんでだろう。……目頭が、熱い。
中学の時も、高校に入ってからも、どれだけ酷い言葉を投げつけられても平気だったはずなのに。
けれど、こんなにも温かな言葉を向けられると、奥歯を噛み締めなければ涙が溢れ出しそうになる。
俺はさっきまで引かれていた方の手をポケットから取り出し、誤魔化すように顔をこすった。そうでもしなければ、このやり場のない感情を押し殺すことができなかったんだ。
顔を覆った掌からは、微かにクチナシの香りがした。
ちょうどその時、千鶴先輩が部室へと姿を現した。先輩は入ってくるなり、白瀬さんへと優雅に声をかける。
「白瀬さん、ごきげんよう。少し手を貸していただいてもよろしくて? 先日の学内大会のデータがまだ雑然としていて……あなたの助けが必要なの」
「あ、千鶴先輩! お疲れ様です。はい、もちろんです! 私にできることなら、何でも言ってください」
隣にいる少女が、弾けるような明るい声で応じた。
ああ、そうだ。白瀬さんは、こういう女の子だった。
誰に対しても分け隔てなく接し、常に前向きで太陽のような輝きを放っている。おまけに、いつも細部まで気を配ったお洒落を楽しみ、その姿は非の打ち所がないほどに可愛らしい。クラスでも一際目を引く、華やかで、それでいて努力を惜しまない女の子だ。
きっと彼女は、俺以外の誰かが困っていても同じように助けたのだろう。けれど、今回彼女からもらった温かな力は、間違いなく本物だった。白瀬さんには感謝してもしきれない。……だからこそ、俺も本気を出さなきゃいけないんだ。
「よし……やるぞ! 気合入れて、ゲームの理解度ゼロな連中に『本物の高み』ってやつを叩き込んでやる」
気心の知れたメンバーしかいない部室という安心感からか、俺の口からは自然とそんな豪語が飛び出していた。
「あはは! 影山くん、すごく気合入ってるね。今の言葉、とっても格好いいよ」
……白瀬さんは、どこまでも優しい。
「あの……えっと、本当にありがとう、白瀬さん。その、なんて言えばいいか……俺、口下手だから上手く言えないんだけど。さっきの、その……手を貸してくれたこと、本当に温かくて。おかげで今は、闘志がみなぎってるんだ」
言えば言うほど、顔に熱が集まっていくのがわかる。
やっぱり俺は陰キャだ。白瀬さんのような、最高に可愛くてキラキラした女の子と接したところで、自分の喋り下手なんてそう簡単に治るもんじゃない。
こんなに可愛くて、お洒落で、その上優しい女の子を前にすると、途端に言葉が詰まってしまう。
クソ、俺は何を自惚れているんだ。彼女が俺を好きになるなんてあり得ないのに、勝手に照れて、勝手にドギマギして。……ああ、もう! 恥ずかしすぎて死にたい!
「ねえ祈ちゃん、見て見て! 影山くんのあの顔、すっごく間抜けで可愛いわ。これってもしかして、恋かしら?」
つい二分前まで外であれほど端麗だった千鶴先輩が、部室に入った途端、いつもの調子に切り替わった。
顔を真っ赤にして、隙を見ては白瀬さんを盗み見ていた俺の失態を、先輩はあろうことか、ずっと物静かだった夜空さんにまで共有し始めたのだ。
「えっ!? ……こ、恋?」
夜空さんは飛び上がるほど驚いた様子だったけれど、その後は、どこか落ち着かない様子で時折こちらをじっと見つめてくるようになった。
彼女たちの視線が気恥ずかしすぎて耐えられず、俺は逃げるように手元のデータ分析に没頭した。
時間の経過とともに、ようやく形になっていく。過去三年間、生徒会が大会に送り込んできたメンバー構成、頻出チャンピオン、そしてプレイスタイルに至るまでの完全な分析データだ。
「生徒会側は、ここ二年間連続で出場しているメンバーが二人いますね。今、三年生の大倉先輩と平野先輩です」
俺との照合作業を終え、白瀬さんが真っ先にその結果を皆に共有してくれた。
「このお二人はコンビで、ルシアンとナミの組み合わせを非常に得意としています。勝率もかなり高いですね」
「それだけじゃないよ。去年一度だけ出場した二年生の山崎先輩。この人のジャングルはかなり手強い。インベイドも積極的だし、去年チームが劣勢だった時も、ヴィエゴを使って十二キルも叩き出してる」
俺も自分の意見を付け加えることにした。
「彼らのスタイルは全体的にかなり攻撃的です。対して、俺たちはまだスクリム(練習試合)すら一度もやっていない。これだと、序盤のレーニングの段階で崩される可能性が高いです」
俺の懸念は決して空論ではない。LoLというゲームにおいて、初心者と熟練者のレーン戦能力の差は天と地ほどもある。特に対面の連携が取れているボットレーンなら、その圧力は絶望的なものになるはずだ。
「この状況を打破するには、最短期間で使い勝手のいいチャンピオンを二つはマスターして、少なくとも序盤で自壊しないようにする必要があります」
「それなら……後輩くんに、みんなの指導を任せちゃおうかしら~♪ 今週中に、みんなが一つか二つは得意キャラを持てるように叩き込んであげて」
先輩も俺の考えには同意してくれたようだが、まさか「指導役」を俺に振ってくるとは。……俺みたいな、まともに喋ることもできない陰キャに、そんな大役が務まるわけがない。
「えっ、俺? 俺がみんなを指導するんですか……?」
俺は自分を指差し、コメディ漫画のキャラクターが驚愕のあまり生気を失ったような、真っ白な顔を晒すことしかできなかった。
人にご教授垂れる自分の姿なんて、どう足掻いても「無様」な絵面しか想像できない。あまりのショックに、自分の顔の輪郭さえもが抽象的な白黒漫画のように、無機質で硬い線へと変貌していくような錯覚すら覚えていた。




