花香(かこう)に誘われ、陽だまりへ。
「はぁ……! 疲れたぁ……」
敵の分析やデータ整理なんて簡単だと思っていたけれど、三年間分もの膨大な記録ともなると話は別だ。放課後を丸ごと費やして整理し終える頃には、意識が遠のくほど目が回りそうになっていた。
「お疲れ様、影山くん」
ちょうどそこへ、白瀬さんが歩み寄ってきた。
「これ、彼らの対戦記録とよく使うチャンピオンのリストだよ。私なりにまとめてみたんだけど、役に立つといいな」
「ありがとう、白瀬さん」
礼を言いながら、ふと思う。……気のせいか、彼女から漂う花香がさっきより濃くなった気がする。シャンプーの香りだろうか。
隣で真剣に作業を手伝ってくれる彼女の横顔を見つめていると、不意に、今日の午後の出来事が脳裏を鮮明によぎった。
◆ ◆ ◆
「影山くん、何か一つ選んで記入してくれる? 三週間後は体育祭だから」
大きな丸眼鏡をかけ、ポニーテールを揺らす学級委員の小林雫が、おずおずと尋ねてきた。
手渡された申込書は、すでに八割方が埋まっていた。主にクラスの「陽」側に属する連中が中心だ。短距離走やリレー、騎馬戦といった、仲の良いグループで盛り上がれる種目はすべて彼らに占領されている。
俺には到底、不向きな場所だ。チーム競技は、失敗すれば最後。たとえ俺に非がなくても、「部外者」である俺は格好の戦犯扱いを受けることになる。
あんなものは、最初から強固な絆で結ばれた奴らだからこそ、勝てば喜び合い、負けても「ドンマイ」と笑い合える特権階級の遊びだ。
俺の心が歪んでいて卑屈なだけかもしれない。けれど、中学時代に似たような経験をした俺は、他人の善意という不確かなものに賭ける勇気なんて持てなかった。もともと「空気が読めない」自覚はある。せめて、これ以上場の空気を汚す存在になることだけは、避けなければならない。
さもないと、またあの呪いのような言葉を浴びせられることになるから。
『ロバみたいに鈍い奴が、なんで団体戦なんて出てんだよ。足引っ張んなよ』
『みんな頑張ったのに、あいつ一人のせいで全部台無しじゃん』
『デカいのは図体だけで、マジで役立たずだな』
脳裏にこびりついた、陰口を叩く醜い笑顔の数々。きっと一生、忘れることはできないだろう。
……残っている種目は、走り高跳びと三人四脚だけ。
高跳びなんて、一番苦手な種目だ。三人四脚はといえば、まだ委員長の小林さん一人の名前しかなく、あと二人足りない。目立ちたい連中が好むはずもない、地味な種目だ。
俺が延々と迷っているのを見て、委員長が申し訳なさそうに提案してきた。
「影山くん、走り高跳びはどうかな? 背が高いし、きっといい記録が出ると思うよ」
「ハハハハ! そんなウスノロ、高跳びにでも出しときゃいいんだよ。他人の邪魔にならねーしな」
体育委員の猛虎豪が容赦ない嘲笑を投げかけてきた。背後にいるはずのそいつの、反吐が出るほど傲慢な顔が瞬時に浮かぶ。
どこまでも独りよがりで、小心者な男だ。たかがゲームの理解度の間違いを指摘されただけで、こうも執念深く粘着してくるなんて、他に誇れるものがないのか。
「図体ばっかりで脳みそ空っぽのあいつ、前もゲームの理解度絶望的だったよな。高跳びなんて出たら、バーに頭ぶつけて終わりだろ」
取り巻きの連中も一斉に冷やかし始める。
……バカバカしい。群れて誰かの悪口を言うこと以外、何もできない烏合の衆。カラスの鳴き声の方がまだ風情がある。
ゲームの理解度が低い? 片手で相手をしてやっても、PCゲームで俺に勝てる奴なんてこの教室には一人もいないというのに。
だが、カーストの端にいる俺が、そんな連中と言い返す必要もない。犬に吠えられただけだと言い聞かせ、俺は高跳びの欄に名前を書こうとペンを握り直した。
その時。
白く、細やかな手が、俺の手元をそっと抑えた。
それは温かな輝きを宿した玉のように美しく、施された鮮やかなネイルが、持ち主の溢れんばかりの活力を象徴しているようだった。
同時に、あの懐かしいクチナシの香りが、淀んだ空気を切り裂いて届く。
「影山くんって、実は色んな面ですごくハイスペックなんだよ。……ねえ、私、三人四脚に出ようと思ってるんだけど。仲良い子はもうみんな別の種目に出ちゃうんだ。影山くん、私と一緒にペアを組んでくれないかな?」
白瀬さんだった。
彼女の言葉に、鼻の奥がツンと熱くなる。……だが、同時に黒い疑念が鎌首をもたげた。
俺みたいな奴を誘って、後で嘲笑うつもりじゃないのか?
中学の時、いたんだ。わざと男子を誘惑して、最後には取り巻きと一緒に「キモーい」と吐き捨てる、悪趣味な女の集団が。
賭けるのか? いや、無理だ。他人なんて信じられない。どうせ手を伸ばしたところで、俺のような人間が彼女たちの青愛を得られるはずがない。むしろ、さらに惨めな場所へ叩き落されるだけだ。
「白瀬さん、俺は……」
拒絶の言葉を吐こうと顔を上げ、俺は言葉を失った。そこには、湖のように澄み渡った、純粋な瞳があった。
言い淀む俺の返事を待たず、白瀬さんは俺の手を引いて立ち上がらせる。
「雫ちゃん、お願い! 私たちの名前、三人四脚に入れといて。ちょっと用事があるから、影山くん、借りていくね!」
思考が真っ白なまま、俺は教室の外へと連れ出された。
……午後三時の太陽は、こんなにも熱烈だっただろうか。
教室の外、斜めに差し込む陽光が顔を焼く。前を行く少女の背中を見つめながら、俺の視界は、どうしようもなく潤んでいった。
教室のあちこちから、驚きと困惑が入り混じった騒がしい声が噴き上がる。猛虎たちの下卑た野次も、誰かの嘲笑混じりの囁きも、今の俺にはもう、遠い世界の出来事のようにしか感じられなかった。
意識のすべては、ただ一点。
俺の無骨な手をしっかりと包み込む、彼女の温かな掌にだけ注がれていた。
今はただ、この温もりを離したくない。
縋り付くような思いで、俺はその手を強く握り返した。
眩しさに目を細めながら、俺たちは走り出す。
灰色の悪意に満ちた教室を脱け出し、この広い学園の中で、たった一箇所だけ。
俺が俺でいられる、唯一の場所を目指して。




