同居生活の始まり
「やっと、まともに住めるレベルになったな……」
小林さんと俺の共同作業によって、あれほど散らかっていた部屋が見違えるほど綺麗になった。結局、一時間以上もかかってしまったが、達成感はある。
「お疲れ様。少し休んでいてください、私が夕飯を作りますから。冷蔵庫に食材はありますか?」
掃除を終えたばかりだというのに、小林さんは休む間もなくキッチンへと向かった。
「あるある、俺が持っていくよ」
料理はできないが、手伝いぐらいはしたい。彼女にこれ以上負担をかけるわけにはいかないからな。
手伝おうとする俺を見て、小林さんの口元が微かに綻んだ。
「でも影山くん、食材が少し足りないみたい。明日、一緒に買い物に付き合ってくれますか?」
「ああ、もちろんだよ」
「冷蔵庫にはジャガイモと豆腐……お肉はほんの少しですね。よし、それなら本格的な四川風の味付けにしましょうか」
「四川料理? 麻婆豆腐とか? それなら俺もよく食べるけど」
「ふふ、影山くんが食べているのは日本風にアレンジされたものでしょう? 私は本場の、痺れるような『麻』と『辣』を効かせたものを作るつもりです」
「そんなに違いがあるのか?」
ジャガイモを洗いながら、俺は隣の小林さんに視線を向けた。
ピンク色のエプロンを身に着け、美しい黒髪をポニーテールにまとめた彼女。眼鏡のない横顔は、見惚れるほどに整っている。彼女は慣れた手つきで、豆腐を丁寧な賽の目に切り分けていく。
「全然違いますよ。日本の麻婆豆腐は山椒を控えて甘みを強くしますが、本場は香りと刺激が命なんです」
料理の話になると、小林さんは驚くほど雄弁になった。
俺がジャガイモを洗い終える前に、彼女は豆腐、挽き肉、そして香味野菜の下準備をすべて済ませていた。
そこからの動きは、まさに流れるようだった。
熱した鍋にニンニクを投入すると、食欲をそそる香りが一気に広がる。続いて挽き肉を炒める彼女の動作は、まるでテレビの料理番組に出てくるシェフそのものだ。激しく鍋を振り、立ち上がる炎にも動じず、迷いのない手つきで調理を進めていく。
肉の色が変わると、豆板醤の代わりに合わせた辛味調味料と葱、生姜を加え、最後に豆腐を投入した。仕上げに花椒の粉をふりかける動作まで、一切の無駄がない。
「惜しいですね、四川特有の豆板醤があれば、もっと香りが引き立ったのですが」
「……小林さん、凄すぎる。もしかして、プロの料理人か何かなのか?」
「ぷっ……あはは! 影山くん、可愛いですね。ただ料理に少し興味があるだけですよ。両親も女の子なら料理くらいできないと、という考えだったので」
彼女は俺が皮を剥いたジャガイモを受け取ると、瞬きする間に綺麗な千切りにしてみせた。
手際よく作られた「酸辣土豆絲(ジャガイモの酸辣炒め)」と、シンプルなあさりの味噌汁。
「はい、今日の晩ご飯の完成です。なんだか、二人で料理を作るのって……新婚夫婦みたいで素敵ですね」
料理を終えた彼女は、どこか上機嫌に見えた。
新婚夫婦、なんて言葉に俺は返せる言葉を持たず、照れ隠しに話題を逸らした。
「……お、俺、ご飯盛ってくるよ。小林さん、作ってくれてありがとう」
「ありがとうございます、優しいんですね、影山くん」
向かい合って食卓を囲む。確かに香りが違う麻婆豆腐を口に運びながら、俺は考えていた。
なぜ彼女は、俺との同居をこれほどまでに受け入れているのだろう。それどころか、まるで結婚を望んでいるかのようにも見える。
俺は絶世の美形でもなければ、人気者でもない。親の命令があったとしても、ここまで尽くしてくれる理由が見当たらない。
陰キャには陰キャなりの自覚がある。自惚れれば、全校生徒の笑いものになるだけだ。
「影山くん、お味はどうですか? 辛すぎたり、口に合わなかったりしませんか?」
「……いや、驚くほど美味いよ。ご飯が進む。小林さん、本当に料理上手だな。……でも、その……どうして君は、俺みたいな陰気な奴との同居を嫌がらないんだ?」
不思議そうに小首をかしげる彼女に、俺は続けた。
「親に強制された結婚なんて反発したくなるだろうし、ここに来ていきなり家事までして……どうしてそんなに楽しそうなんだ?」
「どうして自分をそんな風に言うんですか?……実は、私自身のためでもあるんですよ」
「……どういう意味だ?」
「私の家は管理がとても厳しくて。娯楽も制限されていましたし、お菓子さえ自由には食べられなかったんです。影山くんと一緒に住むことで、私は束の間の『自由』を手に入れられる……そう思っているんです」
「……そっか、なるほどな」
その言葉を聞いて、俺の心に少しだけ落胆が混じった。自分から理由を聞いておいて、勝手に落ち込むなんて、本当に馬鹿げている。
可愛い女の子に優しくされただけで、すぐに浮足立ってしまう自分が情けない。
「それに、影山くんは……一緒にいて、とても安心できる人ですから」
「え……俺が?」
「ええ。影山くんは、自分が辛くても他人を笑顔にしようとする人。自分が弱くても、もっと弱い人が虐げられていたら身体を張って助ける人……そして、自分では気づいていないけれど、とても魅力的な人なんです」
「冗談だろ……そんなことあるわけない。それに、女の子が一人で男の家に住むなんて、ご両親は心配しないのか?」
「ですから……夜、私に『変なこと』はしないでくださいね?」
小林さんはいたずらっぽく微笑んだ。
(心配……? むしろ私の両親は、既成事実でも作ってほしいと思っているはずよ。相手は最大の取引先なんだから、繋がっておくに越したことはないもの)
彼女は心の中で自嘲気味にそう呟いた。
「ねぇ、影山くん。……私のこと、名前で呼んでくれませんか? いつまでも『小林さん』じゃ、変ですよ」
「えっ!?……し、雫……?」




