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四面素仮  作者: 白美希結
4/4

能面

唄えば守られるはずだった“おまじない”は、いつしか娘と自分を縛る呪いへと変わっていた。

笑えない娘、支配する夫、膨らむ腹。

出口のない暗闇の中、母は再び“笑顔”を継がせる決断をする──。


 四角い安全な場所に住人はいない。

 心美はカタカタと音を鳴らすものを必要としなくなったのだ。

 私の両手の中にはおさまらない。なぜなら触れようとすると、ヌルッとすり抜けていってしまうから。

 そして、唄おうとするとピキッという雑音が入り、おまじないが途切れる。

「ウー、ウー」

 足元で言葉にならぬ声を出す。

「お腹すいたの?」

 私の手からはすり抜けるのに、おねだりのときはピタリと体をくっつけてくる。

「待って。作るから」

 くっついた足と心美の体をサッと離し、キッチンで透明の瓶を手に取る。

「え、どこいったの……」

 カウンター越しにテーブルを見た瞬間、心がザワっとした。定位置にあるはずの布に包まれた四角い箱が無い。

 ザワザワが増え、一気に体温が下がる。

 存在は感じるが、言葉にならない声が聞こえない。心美はお腹が空くと欲求が満たされるまで『ウー、ウー』と発し続けるはずなのに。

「……もしかして」

 瓶を胸に抱え、テーブルの下に焦点を合わせた。


 ───チクリ。

 でも、唄えない。


 ギュウギュウに詰められていた物体たちは、解放されたことを喜ぶように散らばっていた。思わず嗚咽しそうになる。

「心美!触ったらダメでしょ!叱られるわよ」

 ……カチャ。

 ひんやりした空気が流れ込む。

 『来た』

 太一さんは黒目をギョロっと動かし、定位置で止めた。

「仕方ないな」

 微かに低い音が響き、声を整える仕草をする。

 

 ────やめて。……唄えないの。


「里美。笑顔が減ったね」

「ご、ごめんなさい」

「謝らなくていい。僕はその理由を知っているよ」

 体内でドクドクと音を立てているものが、口から吐き出されそうだ。そんなことは知らずに太一さんは続ける。

「最近、汚物入れのゴミがたまっていないね」

 黒革に挟まった赤い紐を引っ張り、私に見せる。

 そこには、順番に並んでいる数字に、一つだけ赤丸が付いていた。

「……」

 そういえば、食欲がない。

「完璧な妻だよ。僕のペースを守ってくれる。弁当が作れないのは、君のせいではないよ」

 喉元が熱をもち、酸が行き来する。ナメクジだった頃を思い出してしまう。


 ────唄いたい。

 整えた声に体が反応してしまう。

「きっと、形になっている頃だよ。病院に行っておいで。心美は僕に任せて」

「あ、ありがとうございます」

「大丈夫。安定すれば、また笑えるよ」

 ……そうよね。産み出せばいい。


 私の中に突然現れた居候は、次第にスペースを広げていく。でも唄える日の為なら仕方がない。

 ガタガタガタと崩れる音の後には『まー』と人間らしい言葉を発する心美の声が聞こえる。

「またなの?……自分で直してみなさい。ずっとママはあなたのそばに居られないのよ」

 積木くずしを繰り返しては、何度も私を呼ぶ。

「だから、自分でやりなさいよ!」

 棘がついた言葉を投げていた。これでは母と同じになってしまうではないか。

 今まで『おまじない』にどれだけ救われていたのかと痛感させられた。


 ──── ラン、ララ、ラララン


 私は唄っていない。

 ……心美の背中が葉のように揺れている。

 それと同時に居候がグニュンと動く。

「こ、心美?」


 ──── ラン、ララ、ラララン


 間違いなく、唄っている。

 グニュン。

 お腹の子も間違いなく動いている。

「違う。笑うのよ」

 思わず揺れている肩を掴み、更に揺らした。そこには無表情が鎮座していた。

 「どうして、笑わないのよ」

 やっぱり、心美は頭がおかしい。


 一体、いつまでスペースを広げるのだろう。

 一体、いつになったら酸が消えるのだろう。

 

 出口が見えない状況に限界を感じていた。

 先生は、白黒に映された三頭身を見ながら言った。

 『逆さまですね』

 声が、遠くから聞こえた気がした。

 会計を済ませ、病院に背を向けると聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

 「本庄さん、お久しぶりです」

 頭にハテナを浮かばせた看護師さんだった。

 「ご無沙汰しています」

 「足止めしてすみません。本庄さんの素敵な笑顔が見られなくて、つい声をかけてしまいました。……先生からお聞きしたのですがあまり考え込まないでくださいね。お母さんの不安が一番良くないですから」


 ────やめて、唄えないの。


 「は、はい」

 目をキラキラさせ口を動かし続けている。

 「とても簡単でいい方法がありますよ。それは、お散歩です。リラックス効果もありますし、何人もの方が成功しているんです」

 「ご丁寧にありがとうございます」

 「とんでもないです。きっと大丈夫ですよ」

 制止するために腰を曲げ、その場を去る仕草をした。

 「心美ちゃんはお元気で……」

 看護師さんの声は、自動に閉まるガラスのおかげで私には届かなかった。

 好んで二本足で、帰路に着こうとしているわけではない。この方法以外ないのだ。

 しかし、そのおかげで出口を照らす微かな光に出会えた。

 それは、嗅いだことのある花の匂い。

「一緒に帰ろう」

 街を歩く人たちの氷のような視線が刺さる。お腹を膨らませた女が膝をつき、一心不乱に土を掻き分けているからだろう。

「フンッ」

 そんなことはどうでもいい。唄えない私には必須なものだからだ。

 両手で花をそっと包む。私は心が踊るような感覚をずっと忘れていた。

 玄関を通りすぎ、庭に向かう。手から鉢植えに移し茶色で包む。

「とってもいい香りね」

 花びらに鼻をくっつけた。


 小脇に挟みながら廊下を進み、音を立てずにリビングのドアを開ける。

「おかえり。『ぼく』の成長は順調だった?」

 太一さんは黒革の手帳を開き、ペンを握った指先は白く変色している。

「……はい」

 カウンターに鉢を置きながら、反射的に返事をしてしまった。

 

 ────もう戻ることはできない。


 しかし、居候は少しずつ確実に光の世界への準備を整えているのだ。このままでは、私自身が光を失ってしまう。

 『匂いを嗅がなくては』

 花に近づこうとしたそのとき、ユラユラと葉が動く。きっと栄養を取られているせいだと言い聞かせ、もう一度目を凝らす。

 無風の部屋に置かれた花は、やはり葉を揺らしていた。

 ……喉元の酸が、スーッと溜飲していく。まるで、おまじないを唄ったときのように。

 心美は広すぎるソファの上でスースーと一定の呼吸をしている。

「笑うことができないくせに」

 優雅な姿でいられるのは『今』外敵がいないからだ。きっと穏やかな時間が永遠に続くと思っているのだろう。


 ────ビチャ。


 居候は準備が整ったらしい。

 太ももの内側からツーっと生暖かいものがつたう。一度流れ出したものはもう止めることができない。


 このときも、葉は揺れていた。

 「これで、やっと笑える」

 しかし、一つだけザワザワが残っている。花びらに鼻をくっつけた。

 揺れが大きくなり、おまじないが全身を包む。

 「……大丈夫だよね。ありがとう」


 自分のスペースを取り戻すことは安易でなかった。経験済みのはずなのに、どうして体は痛みを消すことができるのだろう。

 チクリは積もっていくのに。

 「本庄さん。次の波が来たら力いっぱい頑張りましょう。もう頭は見えていますから」

 「ふーっ……んーーっ!」

 「おめでと……」

 薄れゆく声の中、スーッと暗い世界に堕ちていく。


 瞼に淡い光が差し込んでいる。その明かりをゆっくりと受け入れると、常夜灯の下でベッドに体を預けていた。


 ────どうして。


 窓際に置かれていた花は色を失っていた。

 「もしかして……」

 足音と共に、何かを押すガラガラという音が近づいてくる。

 コンコン。乾いたノックをされる。

 「……はい」

 「失礼します。目を覚まされたようで安心しました」

 新生児カートの中には『ぼく』であろう子が眠っている。

 「抱っこなされますか」

 「いえ。まだ、めまいがするので……」

 「わかりました。先ほどミルクを飲んだので、しばらく眠っていると思います」

 「ありがとうございます」

 「困ったことがあったらいつでも、呼んでください」

 静かに戸が閉まっていった。

 

 子を包んでいる白い布に触れることができない。

 でも、戻れない。この目で確かめるしかない。

 しわしわの足の裏を見つめる。

 塩をひとつまみするように布を捲る。

 

 そこには『水色』をしたバンドが巻かれていた。


 「ラン、ララ、ラララン

 さぁ笑って

 ラン、ララ、ラララン」


 ────唄えた。


 空になった植木鉢を最後にバッグへ入れ、口を閉める。

 「今回もお忙しい中、お迎えをありがとうございます」

 太一さんにバッグをお願いし、深々と頭を下げる。

 「やはり僕の目は、間違っていなかったよ」

 「感謝しています」

 そっと『ぼく』を抱き上げ、二人だけだった空間にさよならを告げた。

 左腕からチクタクと刻むものに、視線を落としながら歩く太一さんの背中を追いかける。

 すると、また聞き覚えの声が耳を刺す。

 「本庄さん!おめでとうございます」

 「ありがとうございます。無事に出産できることができました」

 「よかったです。何より素敵な笑顔が見られて安心しましたよ」

 少し先で、バッグを握る指が白くなっていくのが見える。

 「お世話になりました」

 「こちらこそありがとうございました。最後に、何か心配なことはありますか」

 「ありません」

 看護師さんはホッとした表情で胸を撫でおろした。

 

 「この子は、言うことを聞いてくれるんです」

 

 「……」

 瞳がガラス玉のように丸くなったのを見逃さなかった。


 「笑うんです」


 ────ラン、ララ、ラララン

 さぁ笑って

 ラン、ララ、ラララン 


 綺麗な歌声が響いた。


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