第1話 ママの歌声に恋をした
福岡県久留米市田主丸。
ぶどう畑が広がる道を、シンガーソングライターの**航太(こうた・25)**は、ギターケースを背負って歩いていた。
東京での音楽活動は鳴かず飛ばず。SNSもフォロワーは増えず、ライブも客が数人。
「やれることはやった」そう自分に言い訳して、彼は地元に帰ってきた。
夜の風が甘く湿っている。
コンビニの明かりも少ない通りに、ふと小さなネオンが見えた。
**「スナック月影」**──どこか懐かしい看板。
小さい頃友達の親がこの店で働いていてよく遊びに行った事を思いだす
「……一杯くらい、いいか」
扉を開けると、チリン、と鈴の音。
中は、昭和の香りがする。木のカウンター、花柄のソファ、壁に貼られた演歌ポスター。
そして何より、笑い声。
「いらっしゃ~い。あら、航太じゃない! 帰ってきとったとね」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、柔らかな笑顔の女性──この店のママ、友里恵(ゆりえ・48)。
昔から近所では評判の美人で、どこか包み込むような落ち着きがある。
「ママ……覚えてくれとったんですね」
「そりゃ覚えとるよ。あんた、昔“マイク離さない坊や”やったもんねぇ」
常連たちが笑い出す。
農家のオヤジ、酒屋のご夫婦、地元銀行員。見覚えのある顔ばかりだ。
「おう航太、東京で歌うたいになったっち聞いとるぞ!」
「どうや? ビッグになったか?」
「……いやぁ、まぁ、修行中です」
「修行中やて~!」
店にどっと笑いが起こる。
やがて農家のオヤジが「ママ~“天城越え”頼むばい!」と叫んだ。
友里恵が「もう、しょうがないねぇ」とマイクを取る。
イントロが流れ、彼女が歌い出した瞬間──
空気が一変した。
澄んだ高音。やわらかく、どこか切ない。
その声は、スナックのざわめきを一瞬で飲み込んだ。
航太は、息をするのも忘れて聴き入った。
(なんだ……この声……)
派手な技巧はない。けれど心の奥を掴まれる。
まるで、東京で失いかけた“本物の音楽”が、ここにあった。
曲が終わると、拍手と笑いが巻き起こる。
航太は立ち上がり、衝動のままに言った。
「ママ! その声で……僕に、曲を作らせてください!」
店内が静まり返る。
一瞬の沈黙のあと──
「おい航太、お前、東京で挫折して帰ってきたと思ったら、今度はママ口説くんか!?」
「おまえ昔、ここでジュース飲んでた坊主やろが!」
「田主丸に帰ってきて最初に口説いたのがママとか、早すぎるやろ!」
「ち、違いますって! 本気で音楽の話なんです! ママの声、すごくて……!」
「惚れた言うたぞ~!」
「よっ、ママキラー!」
「こりゃ“恋のカラオケ対決”やねぇ!」
なぜか盛り上がる常連たち。
農家のオヤジが「まずは俺がママに捧げるばい!」とマイクを握る。
流れる「北酒場」。
力強く、ズレ気味の音程。
ママが笑顔で手拍子を打ち、店中が手拍子と合いの手で沸く。
「はい次! 若いもんの番!」
逃げ場はない。
航太は観念してギターを取り出す。
「……じゃあ、一曲。東京で挫折した僕の、唯一のオリジナルです」
静かにコードを鳴らす。
軽やかで、どこか切ないメロディ。
スナックの客たちは、最初こそ冗談混じりだったが──次第に黙って聴き入っていた。
曲が終わると、拍手が起こる。
ママが微笑み、「いい歌やねぇ」と言った。
「よかったら、あたしもその曲、ちょっと歌ってみてもいい?」
航太が頷き、再びギターを弾く。
ママの声が、彼のメロディに重なった。
空気が、変わる。
演歌でもポップスでもない。けれど、確かに“この町の歌”だった。
最後のフレーズが終わり、静寂。
誰もが拍手を忘れて、ただ感動していた。
「……こんな歌い方、初めてやねぇ」
ママが照れ笑いする。
航太の胸に、熱いものがこみ上げた。
その夜、店を出て星空を見上げながら、彼は小さく呟く。
「この声を……もっと遠くに届けたい」
その様子を、常連の一人がスマホで撮影していた。
「良い歌やったぞ〜」と笑いながら、軽い気持ちでSNSにアップ。
──翌朝、「#月影のママの歌声」が田主丸でバズり始めることになるとは、
誰もまだ知らなかった。




