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9-1 兄の来訪予定

「ノワエちゃん、急ぎの連絡よ」

 

 ディースとルルカと外でランチを楽しんでいると、どこからともなく声が聞こえた。

 少し遅れて水晶の表面が淡く揺れ、イレアナ姉さんの麗しい顔がふわりと浮かび上がる。

 けれど今日は、いつもの妖艶な微笑みはない。表情は険しく、少し焦っているようにも見えた。

 

「アザゼル兄さんが急に来たの。これから話すんだけど、終わったらノワエちゃんの所にも行くかもしれないわ」

「本当に急ですね……」

「できるだけ引き延ばすけど、準備はしておいて」

「わかりました」

「じゃあ、私は準備があるから」

 

 そう言い残すと、姉さんの顔は波紋と共に消え、水晶は淡い水色に戻った。

 

「イレアナ様、大変そうですね」

「淫魔たちのことがあるからねぇ……」

 

 父さんと同じく“弱い魔族は生きる価値がない”という考え方の兄さんは、総じて戦闘能力の低い淫魔族をあまりよく思っていない。小さな粗相でもあれば容赦なく処刑しようとするだろう。

 そのため、姉さんは問題が起きないよう、事前の準備に追われているのだ。

 

「アザゼル様って、憤怒領の魔王、アザゼル様だよね?」

「そうよ。……そうか、ルルカは憤怒領の出身だから知ってるのか」

 

 この性格とこの戦闘力で、よく憤怒領を生き抜いたものだと、少し前に驚いたのを思い出す。

 

「えっと……ノワエ様って、大魔王様を倒せるってことは、アザゼル様も当然倒せるんだよね?」

「そりゃもちろん。絶対的な差があるわよ」

 

 アザゼル兄さんは、魔王族の兄姉の長男で、次の大魔王候補筆頭だ。

 私を除けば兄弟の中で最も強いのだが、その強さは絶対的ではない。兄姉の誰かがペアを組めば、容易に倒せてしまうだろう。

 ちなみに私なら、一分もかからずに仕留められる自信がある。

 

「じゃあ、ノワエ様の傍にいれば安心だね」

「そう言い切りたいけど、ルルカは兄さんに遭わないよう、裏方に徹してくれる? 兄さんが怒ると何をするかわからないし」

 

 大魔王候補なのに絶対的な力を持たない兄さんは、なけなしの威厳を保つために、理不尽な怒り方で周囲に当たり散らす。

 埃ひとつ残っていようものなら怒鳴り散らす兄さんが、敬語を使えないルルカにどんな態度をとるのか、正直想像もつかない。

 

「了解。じゃあルルカちゃんは目につかないように二階の掃除をやっておくよ」

 

「ありがとう。じゃあ食事が終わったら館に帰って、兄さんを迎え撃つ準備をしましょうか」

「ディース、何を準備したらいい? 準備くらいはルルカちゃんがやっちゃうけど」

「掃除は完璧ですし、お客様用の高級な紅茶もあります。これといって、とくにやることはありませんね」

 

 そう言って、ディースがサンドイッチに手を伸ばす。

 ディースの中で何かが変わったのか、最近は私と一緒に食事をすることが多くなった。

 

「兄さんって急に来るから困るのよね~」

「そうですね。昔は応接室まで手が回っていませんでしたから、来るとなると急いで掃除をしていましたね」

「そうそう。今はルルカがいるから、そんな必要もないけどね」

「ルルカちゃんが役に立っているようで何よりだよ」

 

 そう言って、ルルカは笑顔でサンドイッチを頬張る。

 

「それにしても、大した目的もないくせに、なんで定期的に会いに来るかなぁ……」

「次期大魔王として威厳を見せておきたいのかと」

「私にはそんなこと関係ないんだけどねぇ……。また小一時間、罵詈雑言に耐えなきゃいけないのかぁ」

 

 嫌なことは食べて忘れよう。私もサンドイッチを頬張る。

 

「ま、迎え撃つ準備はできているわけだし、今はお昼を楽しみましょう」

「そうですね。せっかく外で食べているのですから、この時間を堪能しましょう」

「あ、それならさ、この間ディースと買い物に行ったときにね……」

 

 ルルカの何気ない話を聞きながら、私はもう一つサンドイッチを手に取った。

 その明るく弾む声が、胸の奥に沈んでいた憂鬱をゆっくりと押し流していく。

 

 アザゼル兄さんのことを思えば気が重くなるのは確かだけれど、こうして三人で笑っていられる時間の方が、私にはずっと大事だ。

 森を渡る風と木漏れ日の温かさに身を預けながら、私はルルカの声に耳を傾け続けた。


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