第九話:市場の熱狂と最初の介入
俺たちが「黄金の天秤」ギルドと歴史的な契約を結んでから、数日が経過した。約束通り、ギルドの護衛を伴った第一便の荷馬車が、コーザ村とランガの間を往復し始めた。そして、俺たちの村が生み出した未知の特産品が、ついにこの商業都市の市場へと解き放たれた。
その反響は、俺の予測すら遥かに超える、まさに熱狂と呼ぶにふさわしいものだった。
最初に火が付いたのは、貴族階級の女たちの間だった。
黄金の天秤ギルドが直営する最高級の服飾店。その一等地に、コーザ村の『翠風織』は飾られた。風にそよぐと玉虫色に輝き、深い森の緑と澄んだ川の青を同時に宿したかのような神秘的な布。その噂は、またたく間に貴婦人たちの耳に届いた。
「まあ、なんて美しい布なの!」
「シルクよりも滑らかで、それでいてこの輝き……見たこともないわ!」
「わたくしが買うわ! いくらでも払います!」
店には貴婦人たちの乗った豪華な馬車が長蛇の列を作り、店内では醜いまでの奪い合いが繰り広げられた。限定的に入荷された翠風織は、初日にして通常の絹織物の百倍以上の価格で競り落とされ、それでもなお求める声は鳴りやまなかった。
それはもはや、ただの布ではない。ランガの社交界における最新のステータスシンボルとなったのだ。翠風織を身にまとっていなければ、夜会に参加する資格なし。そんな風潮すら生まれ始めていた。
冒険者や職人たちの間では、別の熱狂が渦巻いていた。
ガンツが打った『コーザのナイフ』。黄金の天秤ギルドが提携する武具屋や道具屋に並べられたそのナイフは、最初はその素朴すぎる見た目から注目されていなかった。
だが、一人の腕利き冒険者が、そのナイフの異常な性能に気づいたのが始まりだった。
「おい、このナイフ、ミスリル製でもないのに、オークの皮をバターみてえに切り裂きやがるぞ!」
「馬鹿な。そんなはずが……本当だ! なんだこの切れ味は! しかも、岩にぶつけても刃こぼれ一つしねえ!」
噂は、風のようにギルドの酒場を駆け巡った。冒険者たちが、我先にと武具屋へ殺到する。料理人たちは、その驚異的な切れ味が食材の味を損なわないことに気づき、最高の調理道具として血眼で探し求めた。
コーザのナイフを持っているかどうかが、一流の冒険者や料理人の証。そんな新たな価値基準が生まれつつあった。
もちろん、ジャムや干し野菜といった加工食品も、その品質の高さから富裕層の間で静かなブームを巻き起こしていた。
「このジャム、果物の風味が全く死んでいない。まるで今しがた摘み取った果実を食べているようだ」
「この干し野菜で作ったスープは、今までのどんなものより深い味わいがする」
一度その味を知ってしまった者たちは、もう元の食生活には戻れなかった。彼らは喜んで高い金を払い、コーザ村の恵みを買い求めた。
この熱狂の渦の中心で、一人の男が笑みを浮かべていた。
黄金の天秤ギルドの執務室。ギルドマスターのバルドは、目の前に積まれた金貨の山を、まるで愛しい恋人でも見るかのような目で見つめていた。
「ククク……素晴らしい。実に素晴らしい!」
彼の隣で、鑑定責任者のクルトが興奮した様子で報告している。
「ギルドマスター。コーザ村の商品の売り上げは、我々の当初の予測の十倍を超えています。このままいけば、我がギルドの今期の利益は過去最高を記録するでしょう」
「それだけではないぞ、クルト」
バルドは立ち上がると、窓からランガの街を見下ろした。
「我がギルドがコーザ村の産物を独占したことで、競合の連中は完全に手も足も出せん。奴らが血眼になって模倣品を作ろうとしているが、あの品質は決して真似できん。翠風織の製法も、あのナイフの鍛造技術も、完全に謎だ。つまり、我々は誰にも真似できない『金のなる木』を手に入れたのだ」
彼の目は、商人としての飽くなき欲望と野心に燃えていた。
「この勢いがあれば、ランガの商業を完全に掌握するのも時間の問題。そして、その先も見えてくる……」
バルドは、コーザ村から来たアッシュという名の若者の顔を思い出していた。あの小僧、一体何者なのだ。単なる幸運でこれだけのものを生み出せるとは思えん。その底知れない才能と、不遜なまでの自信。
バルドは、アッシュという存在そのものに、商品以上の価値を感じ始めていた。
そのアッシュは、今やギルドの賓客として扱われていた。
俺は週に一度、バルドの執務室を訪れ、定期的な報告会を持つようになっていた。それは単なる取引状況の確認ではなかった。いつしか、バルドが俺に市場の動向について意見を求める場へと変わっていた。
「アッシュ殿。君の意見を聞きたい。最近、隣国からの羊毛の輸入価格が下落している。これを大量に買い付けるべきだと思うかね?」
バルドが、分厚い資料を俺の前に差し出しながら言った。
俺はその資料に一瞥もくれず、即座に答えた。
「やめた方がいいでしょう。その価格下落は一時的なものです。二週間後、隣国で大規模な家畜の疫病が発生するという情報があります。そうなれば、羊毛の価格は今の三倍以上に高騰する。今買い付ければ、高値掴みになるだけです」
「なっ……! 疫病だと? そんな情報はどこにも……」
バルドが驚きの声を上げる。
「俺の情報源です。信じるか信じないかは、あなた次第ですが」
俺は《マインドブースト》によって、様々な情報から未来の出来事を予測していた。それはもはや、予言に近い領域だった。
バルドは半信半疑だったが、俺のこれまでの予測が一度も外れていないことを知っていた。彼は俺の意見を容れ、羊毛の買い付けを見送った。
そして二週間後。俺の予言通り、隣国で大規模な疫病が発生し、羊毛の価格は市場最高値を記録した。黄金の天秤ギルドは、莫大な損失を回避したのだ。
こんなことが、何度も続いた。
俺が提供する情報の的確さに、バルドは次第に畏怖の念すら抱くようになっていた。彼はもう、俺を単なる取引相手の若者として見てはいなかった。得体の知れない知識と先見の明を持つ、恐るべきアドバイザーとして認識していた。
俺たちの間には、奇妙な信頼関係と緊張感が生まれ始めていた。
ある日の会合で、俺はついに、最初の大きな一手を打つことにした。
「バルドさん。今日は一つ、あなたに提案があります」
俺がそう切り出すと、バルドは興味深そうに身を乗り出した。
「ほう、君からの提案とは珍しい。聞かせてもらおうか」
「鉄鉱石の価格が、三ヶ月以内に高騰します」
俺は断言した。
「原因は、北方のドワーフ王国での大規模なストライキです。これにより、世界的な鉄の供給が滞る」
「また突拍子もないことを……。だが、君が言うと冗談に聞こえんな。それで、対策は?」
「攻めるべきです。この機に乗じて、鉄の市場で莫大な利益を上げる」
俺は地図を広げ、ランガから北西に位置する山脈の一点を指さした。
「ここにある『黒鉄鉱山』。かつては良質な鉄鉱石を産出していましたが、最近は産出量が落ち、閉山寸前だと聞いています。ギルドが所有権を持っているはずだ」
「その通りだ。もはや何の利益も生まん、厄介払いしたいだけの土地だ」
「その鉱山を、俺に任せていただけませんか。俺が再開発し、以前の三倍以上の産出量を実現してみせます」
俺の提案に、バルドはさすがに眉をひそめた。
「正気かね、アッシュ殿。あの鉱山には、これまで何人もの技師を送り込んだ。だが、誰もが匙を投げた。もはや鉱脈が枯渇しているというのが、専門家たちの結論だ。そこにこれ以上投資するのは、金をドブに捨てるようなものだぞ」
「専門家は、時として目の前の事実しか見ようとしません。俺には、彼らが見つけられなかった鉱脈が見えています」
もちろん嘘だ。鉱脈など見えていない。だが、俺には鉱脈を生み出す方法があった。
俺はバルドを説得するために、具体的な再開発プランと称した偽の計画書を提示した。新しい採掘技術の導入、労働環境の改善、効率的な輸送路の確保。それらはもっともらしく見えたが、全ては俺が遠隔で支援魔法をかけるためのカモフラージュに過ぎない。
「この計画が成功すれば、鉄の価格が高騰した市場で、我々は独占的な供給者となれる。得られる利益は、投資額の数百倍になるでしょう」
俺は、バルドの商人としての野心を、巧みに刺激した。
バルドは腕を組み、長い間考え込んでいた。彼の鋭い目が、俺の心の奥底まで見透かそうとしている。リスクとリターンを、彼の頭の中にある黄金の天秤が、激しく揺れ動いていた。
やがて、彼は決断した。
「……面白い。君の狂気に賭けてみよう」
彼は獰猛な笑みを浮かべた。
「黒鉄鉱山の再開発に関する一切の権限を、君に与える。必要な資金も人材も、ギルドが全面的にバックアップしよう。だが、もし失敗した時は……分かっているな?」
「ええ、もちろん」
俺は静かに頷いた。
こうして俺は、初めて自分の力を、村という小さな共同体から、世界の資源相場という巨大な盤面へと介入させる機会を手に入れた。
その夜、俺は宿屋の自室で一人、目を閉じた。意識を、遠く離れた黒鉄鉱山へと集中させる。
そこにいる名も知らぬ鉱夫たちへ、そして死んだも同然の鉱山そのものへ。
俺は、世界を動かすための最初の魔法を、静かに詠唱した。
*
世界の片隅で新たな神話が生まれようとしている頃、別の場所では、一つの伝説が惨めな終わりを迎えていた。
王都の裏路地。かつての勇者パーティー『竜の牙』は、人々の記憶からも忘れ去られ、ただ生きるためだけの毎日を送っていた。
C級に降格された彼らには、もはやまともな依頼は回ってこない。ギルドに行っても、掲示板に張り出されるのは、他の冒険者たちがやりたがらない雑用ばかり。そして、彼らはそれすらまともにこなすことができなかった。
「おいレオン! また依頼に失敗したのか!」
ギルドの受付嬢のヒステリックな声が響く。
「す、すまん……。森が思ったより深くて……」
「言い訳は聞き飽きました! あなたたちのせいで、依頼主からのギルドへの信頼がどれだけ損なわれていると思ってるんですか! もう、あなた方に任せられる仕事は何もありません!」
ついに彼らは、ギルドから完全に干された。日々の糧を得る手段を、完全に失ったのだ。
その日の夜。彼らは、王都のゴミ捨て場にいた。貴族街から出される残飯を漁るためだ。
かつて王侯貴族と食卓を囲んだ勇者が、今や彼らの食べ残しを求めてゴミを漁っている。これ以上の屈辱があるだろうか。
「これ、まだ食えるぞ!」
ガイが、少しだけ肉のついた骨を見つけて叫んだ。
その骨を、レオンがひったくる。
「よこせ! 俺がリーダーだ!」
「なんだとてめえ! 見つけたのは俺だぞ!」
二人が、一本の骨を巡って、犬のように取っ組み合いを始めた。
「やめて! みっともないわ!」
リリアが泣き叫ぶ。
その光景を、セラはただ虚ろな目で見つめていた。
もう何も感じなかった。悲しみも、怒りも、悔しさも。ただ、空っぽの心が、冷たい夜風に吹かれているだけだった。
なぜ、こうなったのだろう。
どこで、間違えてしまったのだろう。
その時、セラの脳裏に、ふと、あの支援術師の顔が浮かんだ。
そうだ。おかしくなったのは、あの日からだ。
アッシュを追い出した、あの日から。
まさか。そんなはずはない。あいつは、ただの役立たずだったはずだ。
だが、もし。
もし、自分たちの力が、全て、彼の支援によるものだったとしたら……。
セラは、その恐ろしい考えを振り払おうとして、頭を振った。認めたくなかった。認めてしまえば、自分たちのこれまでの人生が、全て偽りの栄光だったことになってしまう。
だが、その疑念の種は、一度芽生えてしまえば、もう消えることはなかった。
それは、絶望の底で生まれた、あまりにも遅すぎた真実への第一歩だった。
彼らが、自分たちが犯した罪の重さを本当の意味で理解し、後悔の涙を流す日は、刻一刻と近づいていた。