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第八話:ギルドマスターの天秤

ギルドマスター・バルドとの面会は三日後。その三日間は、俺たちにとって嵐の前の静けさであり、同時に決戦に向けた最後の準備期間でもあった。俺たちはただ宿屋で漫然と時を過ごすようなことはしなかった。この巨大な商業都市ランガそのものが、俺たちにとって情報の宝庫だったからだ。


俺は毎日、夜明けと共に街へ出た。目的は市場の徹底的な調査だ。大通りに面した中央市場から、裏路地にひっそりと存在する闇市まがいの場所まで、あらゆる市場に足を運んだ。

そこで俺は、様々な商品の価格がどのように決まるのかを観察した。食料品、武具、織物、香辛料。それぞれの価格は、季節、産地、品質、そして何よりも需要と供給のバランスによって常に変動している。

《マインドブースト》を発動させた俺の脳は、それら無数の情報を瞬時に整理し、分析していく。どの商会がどの商品を扱っているのか。どのルートで運ばれてくるのか。最近の価格の変動パターンは。俺はそれら全てを記憶し、ランガの経済構造を立体的に把握していった。

それは、来るべきバルドとの交渉で優位に立つための重要な布石だった。彼がどれほどの傑物であっても、この街の全てを完璧に把握しているわけではないはずだ。俺が持つ情報の精度と速度は、商人としての彼の経験則を上回る可能性がある。それが俺の武器だった。


仲間たちも、それぞれにこの三日間を有意義に過ごしていた。

ピートは、技術者地区の工房を食い入るように見て回っていた。コーザ村とは比較にならない高度な木工技術や金属加工技術。彼は目を輝かせながらそれらを吸収し、自分のノートに熱心にスケッチを繰り返していた。

「すげえよアッシュ。この街の技術は俺たちの村より五十年は進んでる。だが、俺たちの荷馬車やガンツ爺さんの作った道具は、ここのどんな製品にも負けてねえ。俺たちのやってることは間違ってなかったんだな」

彼は自分の仕事に改めて誇りを持ち、同時にさらなる高みを目指す意欲を燃やしていた。


リョウとケンは、冒険者ギルドや訓練場を訪れていた。そこで彼らは、都市の冒険者たちのレベルの高さに圧倒されていた。屈強な肉体、磨き抜かれた剣技、強力な魔法。コーザ村で一番の腕利きだった彼らも、ここではその他大勢の一人でしかなかった。

「俺たち、まだまだだな」

リョウが悔しそうに言った。

「ああ。だが、俺たちにはアッシュさんの魔法がある。鍛えれば、こいつらにも絶対に負けねえ」

ケンは闘志を燃やしていた。

彼らは自分たちの未熟さを痛感すると同時に、アッシュの支援魔法というアドバンテージがいかに絶大なものであるかを再認識していた。それは彼らの忠誠心を、より一層強固なものにした。


夜、宿屋に戻ると、俺たちは四人で小さなテーブルを囲んだ。昼間にそれぞれが得た情報を共有し、来るべき交渉に備える。それはまるで、ダンジョン攻略の作戦会議のようだった。

「バルドは、まず俺たちの供給能力を疑ってくるはずだ。辺境の小さな村が、これだけの品質の品を安定して供給できるとは信じないだろう」

俺が切り出す。

「だが、そこは俺がうまく説明する。ピート、お前は荷馬車の構造について、いつでも説明できるようにしておけ。俺たちの輸送能力が高いことを証明する材料になる」

「任せとけ!」

「リョウ、ケン。君たちは交渉の場では俺の後ろに控えていろ。だが、ただの護衛じゃない。君たちのその鍛えられた肉体と鋭い眼光が、俺たちの素性がただの農民ではないことを示す無言の圧力になる」

「「おう!」」

俺たちは、それぞれの役割を確認し合った。もう、彼らはただの村人ではない。俺と共に未来を切り拓く、信頼できる仲間だった。


そして、運命の三日目がやってきた。

俺たちは身なりを整え、再び「黄金の天秤」ギルド本部へと向かった。

前回とは違い、今回はギルドの入り口で丁重に迎えられた。鑑定責任者のクルトが自ら出迎えてくれたのだ。

「お待ちしておりました、アッシュ殿。ギルドマスターがお待ちです。こちらへ」

俺たちはクルトに導かれ、ギルドの奥深くへと進んでいく。磨き上げられた大理石の廊下を歩き、豪華な絨毯が敷かれた階段を上る。壁には歴代の有力商人たちの肖像画が飾られていた。

やがて俺たちは、最上階にあるひときわ重厚な扉の前で足を止めた。扉には、純金で作られた巨大な天秤の紋章が輝いている。

クルトが厳かに扉をノックする。中から、低く、しかしよく通る声で「入れ」と聞こえた。


ギルドマスターの執務室は、権力と富を体現したような空間だった。

部屋の広さは、コーザ村の公民館が丸ごと入ってしまうほどだ。床には見たこともない毛皮の絨毯が敷かれ、壁一面には天井まで届く本棚が備え付けられている。そこには古今東西の交易記録や法律書がぎっしりと詰まっていた。

部屋の奥には、黒檀で作られた巨大な執務机が鎮座している。そして、その向こう側に一人の男が座っていた。

彼が、この商業都市を支配する男、ギルドマスター・バルド。

年は五十代半ばだろうか。筋骨隆々というわけではないが、その体には一切の無駄がなく、まるで鋼を鍛えて作り上げたかのような印象を受ける。銀色の混じり始めた髪は綺麗に整えられ、高価そうな生地で作られた衣服を隙なく着こなしている。

だが何よりも印象的なのは、その瞳だった。

鷹のように鋭く、全てを見透かすような眼光。その瞳で見つめられると、自分の心の奥底まで裸にされるような錯覚に陥る。彼は、その目で幾多の修羅場を潜り抜け、数え切れないほどの人間を値踏みしてきたのだろう。

「……君が、アッシュか」

バルドが静かに口を開いた。その声は、執務室の空気を震わせるほどの威圧感を秘めていた。

「クルトから話は聞いている。面白い品を持ってきたそうだな」

俺は動じず、彼の目を真っ直ぐに見返した。

「お初にお目にかかります、ギルドマスター・バルド殿。私がアッシュです。本日はお時間をいただき、感謝いたします」

俺は深々と頭を下げた。だが、その態度に卑屈さはない。あくまで対等な交渉相手としての礼儀だ。

バルドは俺の態度を面白そうに観察していた。彼の傍らには、クルトが緊張した面持ちで控えている。

「まあ、座りたまえ。長話になるかもしれん」

俺たちがソファに腰を下ろすと、バルドは単刀直入に切り込んできた。


「さて、アッシュ殿。君たちの村、コーザ村と言ったか。辺境の地図で見たことすらないような小さな村が、なぜこれほどの品々を生み出せる? 単刀直入に聞こう。君の背後には誰がいる?」

最初の質問は、やはり俺の背後関係についてだった。彼にしてみれば、俺のような若者がこれだけの事業を動かしているとは信じがたく、どこかの貴族か大商人が裏で糸を引いていると考えるのが自然だろう。

「私の背後にいるのは、コーザ村の村人たちだけです。彼らの努力と、幸運にもたらされた技術革新が、これらの商品を生み出しました」

「技術革新、か。具体的に何があった?」

バルドは探るような目で俺を見る。

俺は用意していた答えを、淀みなく語り始めた。新たな農法の発見、ガンツの鍛冶技術の飛躍的な向上、ヨハン親子の木工技術。俺は自分の魔法の存在を巧みに隠しながら、あたかも村人たち自身の力で成し遂げたかのように説明した。

俺の話を聞き終えたバルドは、指を組んでしばらく沈黙した。

「……にわかには信じがたい話だ。まるで、神の奇跡でも起きたかのようだな」

彼は皮肉っぽく笑った。

「だが、クルトの鑑定によれば、商品の品質は本物だ。問題は、その供給能力だ。君の言うことが真実だとして、その奇跡は永続的なのか? これだけの品質の品を、我々が満足する量、安定して供給し続けることができるのかね?」

鋭い指摘だった。これこそが、この交渉の核心だった。

俺は少しも臆することなく答えた。

「できます。コーザ村の大地は、今や王国で最も肥沃な土地となりました。ガンツの技術も、一度目覚めたものが失われることはありません。供給能力については、ご心配には及びません。むしろ、現在の我々の悩みは、生産力に対して販路が全く追いついていないことです」

俺はそこで一度言葉を切り、バルドを挑発するように続けた。

「我々が今日ここへ来たのは、黄金の天秤ギルドが、我々の有り余る生産力に見合うだけの『器』であるかどうかを、見極めるためでもあります」

その言葉に、傍らで聞いていたクルトが息を呑んだ。商業都市の王であるバルドに対し、あまりに不遜な物言いだったからだ。

しかし、バルドは怒るどころか、面白そうに口の端を吊り上げた。

「ほう。面白いことを言う。君のような若者に、これだけの事業が本当に回せると?」

「年齢は関係ありますか?」

俺は即座に切り返した。

「事業を動かすのに必要なのは、年齢や経験だけではない。知識、情報、そして決断力です。それらにおいて、私は誰にも劣るつもりはありません」

「……私を誰かの子飼いだとお考えですか? 残念ながら、コーザ村の指導者は、この私です」

俺がそう言い切ると、バルドの瞳の奥で、何かがカチリと音を立てて切り替わったのが分かった。値踏みするような目から、対等な交渉相手を見る目へ。

彼は、俺という人間をようやく認めたのだ。


バルドは大きく息を吐くと、ソファに深く体を沈めた。

「……よかろう。君の胆力は認める。では、こちらからも一つ質問させてもらおう。なぜ、数ある商会の中から、我々『黄金の天秤』を選んだ? 君たちの持つ商品ならば、もっと御しやすい中小の商会と組むこともできたはずだ」

今度は、俺の真意を探る質問だ。

俺は、この時のために用意していた切り札を切った。

「それは、ギルドマスターであるあなたの野心に、我々の力が最も貢献できると考えたからです」

「私の、野心だと?」

「ええ。あなたは、このランガの商業を完全に支配するだけでは満足していない。近隣の都市、ひいては王国全体の商業覇権を狙っている。そのために、他のどのギルドも持っていない、圧倒的な価値を持つ独占商品を求めている。違いますか?」

俺の言葉は、もはや推測ではなかった。《マインドブースト》で集めた情報と、目の前の男が放つ覇気から導き出した、確信に満ちた分析だった。

図星を突かれたバルドは、初めて獰猛な獣のような笑みを見せた。それは、彼の商人としての素顔だった。

「は……ははは! ククク……面白い! 実に面白い小僧だ! そこまで見抜いて、私の前に座ったのか!」

彼は腹を抱えて笑った。威圧感は消え、そこには純粋な好奇心と欲望に満ちた一人の男がいるだけだった。

「気に入ったぞ、アッシュ! 君の言う通りだ! 俺は、この国の商業の王になる! そのためには、強力な武器が必要だ! 君たちの商品は、その武器になりうる!」

バルドは立ち上がると、執務室の窓からランガの街並みを見下ろした。

「君の胆力と頭脳、そして君がもたらした商品の価値を認めよう。交渉相手として、君を対等に扱う。その上で、俺から最高の提案をさせてもらう」

彼は振り返り、俺に言った。

「コーザ村で生産される全ての特産品を、我が『黄金の天秤』ギルドが、市場価格の二割増しで独占的に買い取る。輸送の際の護衛も、ギルドの精鋭をつけよう。その代わり、君たちは、我がギルド以外の一切の商会と取引することを禁ずる。どうだ?」

それは、破格の提案だった。コーザ村は、何の苦労もなく、安定した莫大な利益と安全を手に入れることができる。だがそれは同時に、黄金の天秤ギルドという巨大な組織の経済圏に、完全に組み込まれることを意味していた。

俺は即座に決断した。

「その条件、お受けします」

今の俺たちに必要なのは、自由な商売よりも、強力な後ろ盾と安定した基盤だ。この契約は、コーザ村の未来を百年単位で保証するものになるだろう。

「話が早いな。それでこそだ」

バルドは満足げに頷くと、クルトに契約書の準備を命じた。

分厚い羊皮紙の契約書に、俺は震えることなく「コーザ村代表 アッシュ」と署名した。バルドもまた、力強い筆跡でサインを入れる。

その瞬間、辺境の小さな村と商業都市の王との間に、歴史的な契約が結ばれたのだ。

コーザ村の未来は、約束された。そして俺は、世界の経済を裏から操るための、最も強力な足掛かりを手に入れた。



その日、王都からほど近い森の中で、かつての勇者パーティー『竜の牙』は、泥にまみれていた。

彼らが受けていたのは、C級冒険者向けの薬草採取の依頼だった。危険も少なく、日当も安い、駆け出しの冒険者がやるような仕事だ。

だが、彼らはそれすらまともにこなすことができなかった。

「くそっ! この薬草で合ってるのか!? 全部同じに見えるぞ!」

レオンがイライラした様子で地面の草をむしる。

かつて、薬草の知識や素材の見分けは、全てアッシュの役目だった。彼らはただアッシュが指示したものを集めるだけでよかった。そのアッシュがいなくなった今、彼らは薬草とただの雑草の区別すらつかなかった。

「お腹が……痛い……」

リリアが青い顔でうずくまっている。空腹に耐えかねて、そこらに生えていたキノコを食べたのが原因だった。幸い毒性は弱かったが、戦力としては完全に無力化していた。

「しっかりしろリリア! ガイ、水だ!」

「もう水筒は空っぽだよ、レオン……」

ガイが力なく答えた。

彼らは一日中森をさまよったが、依頼された薬草を規定量の半分も集めることができなかった。

夕方、疲れ果てて森を出た彼らが受け取った日当は、銅貨数枚。四人で分けても、黒パンを一つずつ買うのがやっとだった。

そのなけなしの黒パンを巡って、彼らは醜い争いを始めた。

「俺はリーダーだ! 俺が一番多くもらう権利がある!」

レオンが、子供のような理屈をこねる。

「ふざけないで! 私だって一日中腹痛に耐えてたのよ!」

リリアがキーキーと叫んだ。

「うるせえ! 腹壊したのはてめえの自業自得だろうが!」

ガイが怒鳴り返す。

三人が一つの黒パンを奪い合う。その光景は、あまりに惨めで、滑稽だった。

セラは、その輪から少し離れた場所で、ただ涙を流していた。

(どうして、こんなことに……)

かつての栄光。仲間との絆。全てが遠い昔の夢のようだ。彼女は、飢えと疲労と絶望の中で、かつて自分たちが切り捨てた支援術師の幻影を、ただ追い求めることしかできなかった。

彼らが本当の意味で地獄の底にいることを自覚するのは、もう少し先のことになる。だが、その日は、もうすぐそこまで迫っていた。

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