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第四話:豊穣と新たな課題

奇跡の朝から五日が過ぎ去った。

コーザ村の日常はもはや日常と呼べるものではなくなっていた。それは一種の祭典であり終わりの見えない狂騒だった。

村の畑は生命力の奔流そのものだった。大地は黒々と艶めきそこから突き出す全ての作物が異常なまでの生気と大きさを誇っていた。俺が一度だけかけた広範囲支援魔法《生命の息吹》の効果は衰えるどころか日に日に勢いを増しているようにすら感じられた。

その効果はもはや魔法というより呪いかあるいは神の気まぐれに近い領域に達していた。


老農夫のオルジは夜明け前に目を覚ますのが習慣だった。鶏が鳴くよりも早く起き出し東の空が白むのを眺めながら一杯の水を飲む。何十年も続けてきた彼の儀式だ。以前はその時間に静かな諦めを感じていた。また痩せた土と向き合う一日が始まるのだと。

だが今は違う。彼は儀式を終えると小走りで自分の畑へ向かう。そこには信じがたい光景が広がっているからだ。

「おお……おお……」

オルジは毎日同じ感嘆の声を漏らす。

昨日子供の拳ほどだったカブが今朝には大人の頭ほどの大きさになっている。まだ青かったトマトは血のように赤く熟しその重みで枝がしなっている。地面の下ではジャガイモやサツマイモが育ちすぎてもはや土の表面を巨大な瘤のように盛り上がらせていた。

それは農夫としての彼の経験則や知識を根底から覆す冒涜的なまでの豊穣だった。

「ありがてえ……ありがてえこった……」

オルジは震える手で巨大なカブを一つ引き抜いた。ずしりと重い。生命の重みだ。彼は涙で滲む視界のまま天を仰いだ。追放されて帰ってきたというあの若者アッシュ。彼が聖者でなくてなんだというのか。オルジは本気でそう信じていた。


オルジだけではない。村人全員がこの異常事態に熱狂していた。

「うおおお! 鍬が! 鍬が勝手に土を耕すようだ!」

「体が軽い! いくら働いても疲れを知らねえ!」

俺が村人たちに個別でかけた《フィジカルアップ》と《リフレッシュ》は彼らの肉体を半ば超人の域にまで引き上げていた。老人すら若者のように働き女子供も屈強な男のように荷物を運ぶ。

収穫は夜明けから日没まで続いた。村の誰もが笑顔だった。何十年も村を覆っていた貧困という名の呪いが解けたのだ。誰もが豊かさを実感し腹一杯食べられる未来を信じて疑わなかった。

収穫された野菜は次々と村の中心にある広場へと運ばれた。最初は広場の片隅を埋めるだけだった野菜の山は二日目には広場の半分を覆い三日目には一つの巨大な丘となった。

赤や緑や黄色。色とりどりの野菜が丘を形成し陽の光を浴びて宝石のように輝いている。それは村の希望を象徴するモニュメントのようだった。

村人たちはその丘を「アッシュの恵み」と呼んだ。


しかし四日目の昼過ぎ異変は起きた。

野菜の丘の麓に近い部分からむわりと生温かい空気が漂い始めたのだ。それは物が腐り始める時の甘く不快な匂いだった。

「ん……? なんだこの匂いは」

最初に気づいたのは鼻の利く子供だった。

大人たちもすぐに気づく。野菜の丘は希望の象徴であると同時に巨大な生ゴミの山になる寸前だった。

そして五日目の朝。村人たちの顔から笑顔が消えていた。

喜びは困惑へ変わりそして今は焦りと絶望の色が浮かんでいる。

「だめだ……下のほうはもう腐り始めてるぞ」

「これ以上積んだら重みで全部潰れちまう」

「そもそももう置く場所がねえ!」

広場は完全に埋まった。村の主要な道も野菜で狭くなっている。

あれほど待ち望んだ豊作が今や村の機能を麻痺させようとしていた。豊作貧乏という言葉があるがこれはそれ以上に深刻だ。豊作地獄とでも言うべき状況だった。

その日の午後村長のダリオスは村の公民館に主だった者たちを集め緊急の寄り合いを開いた。


公民館の中は重い沈黙に包まれていた。テーブルの中央には少し傷み始めたトマトが一つ置かれている。それが今の村の状況を雄弁に物語っていた。

「……皆も知っての通りだ。アッシュのおかげで我々は未曾有の豊作に恵まれた。だがこのままではせっかくの恵みが全て無駄になる」

ダリオスが苦々しい表情で口火を切った。

「どうすりゃいいんだ……こんなこと今まで一度もなかったからよ……」

オルジが力なく呟く。彼の言葉は村人全員の気持ちを代弁していた。

「アッシュ様ならなんとかしてくださるんじゃねえか? あの御方なら……」

一人の男が縋るように言った。その言葉に何人かが頷く。

しかし別の男がそれを遮った。

「馬鹿野郎! いつまでアッシュ頼りなんだ! あの若者にこれ以上何を背負わせる気だ!」

「そうだ! 俺たちで考えなきゃならねえことだ!」

議論は紛糾した。だが誰一人として具体的な解決策を出すことはできない。彼らの知識と経験は痩せた土地でいかにして僅かな作物を育てるかという一点に特化していた。豊かさの扱い方など誰も知らなかったのだ。

絶望的な空気が再び村を支配しようとしていた。



その頃王都の安宿の一室では別の形の絶望が渦巻いていた。

『竜の牙』のメンバーは埃っぽい部屋の床に座り込みただ虚空を見つめていた。数々のダンジョンを攻略し名を馳せた勇者パーティーの見る影もない。彼らはまるで難破船の生存者のようだった。


「……金が尽きた」

レオンが絞り出すように言った。その声には何の力もなかった。

「薬代も宿代ももう払えない。明日にはここを追い出されるわ」

リリアが乾いた唇を舐めながら言った。彼女の美しい髪は手入れを怠ったせいで艶を失っている。

「どうすんだよレオンさん……。俺の盾もう限界なんだぜ。次の戦闘で確実に砕ける。そうなったらあんたを守れねえ」

ガイは壁に立てかけた凹みだらけの盾を見つめながら言った。それはもはや盾というよりただの鉄屑だった。

彼らはこの数日間日雇いの荷物運びやゴロツキの用心棒などプライドを捨てて日銭を稼ごうとした。しかしことごとく失敗した。

彼らの体は原因不明の不調に蝕まれていた。力が入らない。集中できない。すぐに疲れる。冒険者として致命的なその症状は日に日に悪化していた。もはやスランプという言葉で片付けられる段階はとうに過ぎていた。


「もう……パーティーを解散するしかないんじゃないか」

ガイが諦めきった声で言った。

「馬鹿言わないで! 私が勇者パーティーの元メンバーですって笑われるなんて冗談じゃない!」

リリアが金切り声を上げた。

「じゃあどうしろって言うんだよ!」

「それは私が聞きたいわよ!」

醜い口論が始まる。それはもう何度繰り返されたか分からない不毛なやり取りだった。

この部屋には一人だけ口論に参加しない者がいた。神官のセラだ。

彼女は部屋の隅で膝を抱え顔を伏せていた。彼女の肩が小さく震えている。

(アッシュさん……)

彼女の脳裏には追放した支援術師の穏やかな顔が何度も浮かんで消えていた。

アッシュがいた頃はこんなことにはならなかった。彼がいるだけで皆の力が底上げされていた。レオンさんの剣はどんな敵も切り裂いたしリリアさんの魔法は常に最大級の威力を誇った。ガイさんの盾は鉄壁だった。そして自分も回復魔法を使うだけでよかった。

今なら分かる。あれは自分たちの力ではなかった。全てアッシュさんの支援魔法バフのおかげだったのだ。

なぜ気づかなかったのだろう。なぜあんな酷い仕打ちをしてしまったのだろう。

(私があの時ちゃんと止めていれば……)

後悔が彼女の心を締め付ける。だが今さらどうしようもない。アッシュがどこにいるのかも分からない。もし会えたとしてもどんな顔をすればいいのか。

彼女はただ無力感と罪悪感に苛まれるだけだった。


「……静かにしろ」

レオンの低い声が二人の口論を止めた。

彼はゆっくりと立ち上がると壁にかけてあった一本の剣を手に取った。鞘に収められた豪華な装飾の剣。国王から賜った名誉の聖剣だ。

「レオンさん……まさか」

ガイが息を呑む。

「これを売る」

レオンは短く言った。

「だめよ! それはあなたの魂でしょう! 勇者の証でしょう!」

リリアが叫んだ。

「魂で腹は膨れない。証で宿代は払えん」

レオンの瞳は死んだ魚のように光を失っていた。

「プライドも栄光ももう俺たちには残ってない。ならせめて金に換えるさ。……生き延びるためにだ」

彼は鞘から剣を抜きはしなかった。そこに映る自分の顔を見るのが怖かったからかもしれない。

勇者レオンがそのプライドを売り払うと決めた瞬間だった。それは『竜の牙』というパーティーの事実上の死亡宣告に他ならなかった。



コーザ村の公民館に俺は姿を現した。

重苦しい雰囲気の中俺の登場に皆の視線が集まる。そこには期待とそして申し訳なさそうな色が混じっていた。

「アッシュ……すまない。結局またお前さんに頼ることになってしまった」

ダリオスが悔しそうに言った。

俺は静かに首を振った。

「いいえ村長。これは皆で乗り越えるべき課題です。俺はその手助けをするだけですよ」

俺はテーブルの中央に置かれた傷みかけのトマトを手に取った。

「問題は豊かさの扱い方を知らないこと。ただそれだけです」

俺は村人たちを見渡しはっきりとした口調で言った。

「答えは二つあります。一つは保存。もう一つは経済です」

俺は《マインドブースト》によって得た膨大な知識の中から今の村に必要な情報を引き出し分かりやすく説明し始めた。

「まず保存について。皆さんが知っているのは塩漬けくらいでしょう。ですがやり方次第で食料はもっと長く多様に保存できます」

俺は具体的な方法を次々と挙げていった。

「ジャガイモやサツマイモ。これらは蒸して潰して天日で乾燥させれば粉になる。この粉は水で練れば団子に小麦粉と混ぜれば栄養価の高いパンになります。それに何年も持ちます」

「カブや大根の葉。今まで捨てていた部分ですね。これも細かく刻んで干せば立派な保存食です。スープに入れれば良い出汁が出る」

「トマトや酸味の強いベリー。これらは砂糖と一緒に煮詰めればジャムというものになります。パンに塗って食べれば美味しいし子供たちも喜ぶでしょう」

「それから燻製。塩漬けにした肉や魚を煙で燻す方法です。これも長期保存が可能です。この村の周りには燻製に向いた木がたくさん生えています」

俺が語る知識は村人たちにとって魔法そのものだった。捨てていたものが食料に変わる。ひと手間加えるだけで価値が生まれる。彼らの目は驚きと興奮で輝き始めた。


「次に経済です」

俺は続けた。

「これらの保存食を俺たちが食べるだけではいずれ限界が来ます。だから売るんです。商業都市ランガへ持っていき金に換える」

その言葉に村人たちがざわめいた。

「ランガまで!? 途中の山道には山賊が出ると聞くぞ!」

「街の商人は狡猾だ。俺たち田舎者が相手にされるもんか!」

不安の声が上がる。それも当然の反応だった。

俺は彼らの不安を一つ一つ打ち消していった。

「山賊については心配いりません。俺がいますから。俺の魔法があれば彼らは俺たちに気づくことすらできません」

俺の言葉には絶対の自信が込められていた。事実マインドブーストは周辺の山賊のアジトの位置まで正確に把握している。

「商人との交渉も俺がやります。俺には知識があります。彼らに買い叩かれることはありません。むしろこちらが主導権を握れます」

俺は商業都市ランガの市場価格や有力な商会の情報までスラスラと語ってみせた。その圧倒的な情報量に村人たちは完全に気圧されていた。

「皆さんの仕事は最高の保存食を作ることです。俺はそのための知識と安全を提供します。そして得た金でこの村をさらに豊かにする。種や家畜を買い新しい家を建て子供たちのための学校を作ることもできるでしょう」

俺が語る未来は具体的で希望に満ちていた。

村人たちの顔から不安の色が消え代わりに強い決意の光が灯っていく。


ダリオスが立ち上がり俺の前に進み出ると深く深く頭を下げた。

「アッシュ……。お前さんはこの村の光だ。我々は全員でお前さんについていく。どうか我々を導いてくれ」

「村長……」

「皆! 返事は!」

ダリオスが振り返ると村人たちが一斉に立ち上がり力強く叫んだ。

「「おおー!」」

公民館は地鳴りのような歓声に包まれた。絶望は完全に消え去りそこには未来へ向かう強い意志だけがあった。


その日からコーザ村は巨大な加工工場へと姿を変えた。

男たちは収穫を分担し女たちは俺の指導の下で保存食作りに励んだ。

村の広場には巨大な燻製小屋が建てられ家々の軒先には干し野菜がカーテンのように吊るされた。台所からはジャガイモを蒸す湯気と果物を煮詰める甘い香りが絶え間なく立ち上っている。

村はかつてない活気に満ち溢れていた。子供たちの笑い声が響き渡り老人たちも自分の仕事を見つけて生き生きと働いている。

俺はその光景を丘の上から眺めていた。

追放され絶望の淵にいた俺が今一つの村を再生させている。

だがこれは始まりに過ぎない。


俺の視線は遠くランガの街がある方角へと向けられていた。

生産の次は流通。流通の次は経済の支配だ。

この小さな村から興した波がやがて世界という大海を揺るがすことになる。

そのために俺はどんな手でも使うだろう。

俺の静かなる復讐と世界の再編はまだ始まったばかりだ。

俺は自分の力がもたらした豊穣の村を見下ろし静かにそして獰猛に笑った。

ここからが本当の戦いだ。

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