第二十七話:神々の奇跡と世界を救う者
終焉の巨兵。
その、歩く厄災は、ガルニア帝国という自らの生みの親を喰らい尽くした後も、その歩みを、止めることはなかった。
ただ、南へ。
生命の息吹が、より濃密に感じられる、南へ。
その進路上にある、全ての文明を、まるで、道端の小石でも蹴飛ばすかのように、無慈悲に、そして、無差別に、消滅させながら。
その報は、絶望という名の、黒い翼となって、大陸中を駆け巡った。
各国の連合軍は、何度も、その進撃を食い止めようと試みた。
だが、その試みは、全て、無に帰した。
騎士たちの、誇り高き突撃は、巨兵の、黒い光線の一閃の前に、馬ごと、蒸発した。
賢者たちが、叡智の限りを尽くして放った、最大級の攻撃魔法も、その、流動的な、黒い巨体には、傷一つ、つけることができない。
人類は、自分たちの無力さを、骨の髄まで、思い知らされていた。
そして、ついに、その厄災は、エリアン王国の、国境にまで、迫っていた。
エリアン王国と、その周辺諸国から、かき集められた、大陸連合軍、その数、二十万。
彼らが、人類に残された、最後の防衛線だった。
だが、その防衛線に立つ、兵士たちの顔に、勇ましい色はない。
誰もが、死を覚悟していた。誰もが、自分たちの故郷が、家族が、この、理解不能な、絶対的な理不尽の前に、蹂躙される未来を、予感していた。
「……来たか」
連合軍の、最高司令官に任ぜられた、老将軍ダリウスは、丘の上から、地平線の彼方に現れた、黒い染みを見据え、静かに、呟いた。
その染みは、みるみるうちに、大きくなっていく。
山が、動いている。
いや、山よりも、遥かに巨大な「何か」が、こちらへ、向かってくる。
ゴゴゴゴゴゴ……という、地響きが、大地を揺らし、兵士たちの、足元を、震わせた。
エリアン王国の首都では、王女フィオナが、民衆の避難を、気丈に、指揮していた。
彼女は、王として、民の命を守る責務を、最後まで、果たそうとしていた。
だが、彼女の心の中は、一つの、祈りにも似た、思いで、満たされていた。
(アッシュ……。あなたなら、この絶望を、覆すことができるのでしょうか……)
彼女は、最後の望みを、ランガにいる、あの、謎めいた青年に、託していた。
彼女は、彼に、一通の、短い書簡を送っていた。
そこには、ただ、一言。
『我が民を、そして、この世界を、どうか、お救いください』
とだけ、記されていた。
*
ランガの「コーザの館」。
その、最も奥にある、かつて作戦室と呼ばれた部屋は、今や、巨大な、魔術的な装置そのものと化していた。
部屋の中央には、大陸全土を、精密に再現した、巨大な立体地図が置かれている。
その地図の上には、無数の、水晶の駒が置かれ、それぞれが、淡い光を放ち、魔力の線で、結ばれている。
エリアナが、大陸中に、密かに設置させていた、「通信用魔道具」兼「魔力増幅器」。
その、全ての拠点が、今、この部屋の、中央制御装置と、リンクしていた。
「……全ネットワーク、接続完了。魔力循環、安定しています」
エリアナが、青ざめた顔に、汗を浮かべながら、報告する。彼女の目の下には、何日も、眠っていないことを示す、深い隈が、刻まれていた。
彼女の隣では、バルドが、ギルドの通信士たちに、矢継ぎ早に、指示を飛ばしていた。
「飛竜便からの、最新情報を、常に、アッシュ様に伝えろ! 大陸中の、全てのギルド支部に、最高レベルの、警戒態勢を維持させろ!」
黄金の天秤ギルドの、全ての情報網と、通信網が、今、この部屋のために、機能していた。
ピート、リョウ、ケンも、それぞれの持ち場で、固唾を飲んで、その時を待っている。
ピートは、この巨大な装置の、物理的なメンテナンスを担当し、リョウとケンは、この館の、最終防衛ラインとして、外の警備を、固めていた。
コーザ村も、黒鉄鉱山も、全ての機能が、この決戦のために、動員されている。
そして、俺は、その部屋の中心、巨大な地図の前に、静かに、立っていた。
俺の体からは、今まで、誰も見たことのないほどの、膨大な魔力が、青白いオーラとなって、立ち上っていた。
俺は、自分の築き上げた、全てのネットワークを、自分の、魔力回路へと、接続させていた。
今の俺は、もはや、一個の人間ではない。
この大陸に、張り巡らされた、巨大な、神経網そのものだった。
俺には、全てが、分かっていた。
最前線で、震える、兵士の、心臓の音。
避難する、民衆の、祈りの声。
そして、大地を蹂躙し、迫り来る、終焉の巨兵の、おぞましい、脈動。
(……潮時だな)
俺は、静かに、目を開いた。
その瞳は、もはや、人間のそれではなく、世界そのものを、見通すかのような、神の色を、宿していた。
俺は、この、世界の歯車となることを、決意した。
そして、その歯車を、俺の望む、未来へと、動かすために。
*
最前線にいる、「灯火の団」の三人の頭の中に、アッシュの、直接の、声が響いた。
それは、もはや、念話というより、魂に、直接、語りかけてくるような、神託だった。
『ミリア。ゴードン。ティナ。聞こえるか』
「「「はっ! 師匠!」」」
三人は、心の中で、即座に、応えた。
彼らは、連合軍の中でも、最も危険な、最前線に、配置されていた。
だが、彼らの顔に、恐怖の色は、なかった。
『君たちに、最後の任務を、与える』
アッシュの声は、静かだったが、その言葉は、世界の運命そのものの、重みを持っていた。
『あの、終焉の巨兵。その、胸部の中央に、赤く、脈動する、コアが見えるはずだ。そこが、奴の、唯一の弱点だ』
三人は、目を凝らした。
山のように巨大な、黒い巨体。その、ちょうど、心臓があるであろう位置に、確かに、不気味な、赤い光が、明滅しているのが、見えた。
『俺が、道を作る。連合軍が、奴の、足止めをする。その、わずかな時間に、君たちは、そこへ、たどり着き、君たちの、全ての力を、叩き込め』
「……御意に」
ミリアは、短く、しかし、力強く、答えた。
『頼んだぞ。俺の、最高の、弟子たちよ。君たちこそが、この世界を救う、希望の『灯火』だ』
その言葉を最後に、アッシュからの、通信は、途絶えた。
ミ-リア、ゴードン、ティナは、顔を見合わせた。
そして、強く、頷き合った。
師匠が、自分たちを、信じてくれている。
それだけで、十分だった。
彼らは、静かに、剣を、斧を、杖を、構えた。
世界の、未来を、その、小さな肩に、背負って。
*
「……来たぞ!」
ダリウス将軍の、絶叫。
終焉の巨兵が、ついに、連合軍の、射程圏内に、到達した。
その、黒い巨体から、無数の、おぞましい触手が、伸び、連合軍の、最前列を、薙ぎ払った。
兵士たちは、悲鳴を上げる間もなく、紙切れのように、吹き飛ばされ、肉塊へと、変わっていく。
巨兵の、無数の赤い目から、黒い光線が、雨のように、降り注いだ。
大地が、抉られ、兵士たちが、蒸発していく。
人類の、最後の抵抗は、わずか数分で、壊滅寸前にまで、追い込まれた。
誰もが、絶望に、膝を、つきかけた。
もう、終わりだ。
世界は、ここで、終わるのだ。
その、頂点の、絶望の、瞬間。
ランガの、コーザの館。
俺は、静かに、その両手を、広げた。
そして、この星の、全ての生命に、語りかけるように、告げた。
「――聞こえるか。この世界に、生きる、全ての者たちよ」
「――今、汝らの、その身に、我が力の、全てを、与えよう」
「――立て。そして、戦え。未来を、その手で、掴み取るために」
俺の体が、太陽よりも、眩しい、青白い光の、奔流に、包まれた。
その光は、作戦室の、巨大な地図の、全ての水晶へと、流れ込み、そして、大陸中に張り巡らされた、魔力ネットワークを通じて、この世界の、隅々まで、一瞬にして、到達した。
それは、鷲巣砦の奇跡の、再現。
いや、それとは、比較にすらならない、まさしく、神々の奇跡。
惑星規模の、超広範囲、超々高密度の、支援魔法。
最前線で、死を待つだけだった、連合軍の兵士たちの体に、光が宿った。
傷は、瞬時に、癒え、疲労は、吹き飛び、絶望は、不屈の闘志へと、変わった。
彼らの肉体は、鋼鉄となり、その精神は、賢者のように、研ぎ澄まされた。
「……なんだ、これは……」
ダリウス将軍は、自分の、老いた体に、若者以上の力が、みなぎってくるのを感じて、愕然とした。
「力が……力が、湧いてくる……!」
「神だ! 神々が、我らに、力を貸してくださったのだ!」
それは、兵士たちだけに、起きたことではなかった。
後方で、負傷者の手当てをしていた、衛生兵たち。
必死に、食料を運んでいた、補給部隊の、民たち。
そして、遠く離れた、町や、村で、ただ、祈ることしかできなかった、全ての人々。
巨兵に、抵抗する意志を持つ、全ての、生命の、魂に、俺の力は、注ぎ込まれた。
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!」
誰かが上げた、その雄叫びは、もはや、一人のものではなかった。
それは、人類という、種全体の、決意の、咆哮だった。
絶望的な戦況は、一転した。
人類の、奇跡の、反撃が、今、始まった。
*
「神々の奇跡だ!」
人々は、そう叫び、奮い立った。
兵士たちは、もはや、死を恐れなかった。彼らは、巨兵の、黒い光線を、その身に受けても、倒れない。傷は、すぐに、再生した。
彼らは、自らの命を、盾として、巨兵の、進軍を、食い止めた。
一人、また一人と、仲間が、消滅していく。
だが、彼らは、ひるまない。
自分たちが、ここで、一秒でも長く、時間を稼ぐことが、勝利への、唯一の道だと、理解していたからだ。
その、英雄的な、時間稼ぎの、中で。
三つの、光の矢が、戦場を、駆け抜けていた。
「灯火の団」、突撃。
「ゴードン! 右翼の触手を、叩き斬れ!」
ミリアが、叫ぶ。
「任せろォォォッ!」
ゴードンの巨体は、もはや、人間のものではなかった。彼は、巨大なバトルアックスを、まるで、風車のように、振り回し、巨兵の、ビルほどもある、触手を、次々と、切断していく。
「ティナ! 上空の目を、潰して!」
「ええ! 任せて! 《アーク・ライトニング》!」
ティナの放つ魔法は、もはや、雷ではなく、天罰そのものだった。空から、巨大な雷の柱が、何本も、降り注ぎ、巨兵の、赤い目を、次々と、焼き潰していく。
そして、ミリア。
彼女は、その二人が、切り開いた、わずかな道を、ただ、ひたすらに、前へと、突き進む。
彼女の剣は、もはや、見えなかった。
ただ、閃光だけが、走り、その軌跡上にある、全てのものが、切り裂かれていく。
彼らは、アッシュから与えられた、最強の、そして、最高密度の、支援魔法を、その身に、受けていた。
彼ら三人こそが、この戦場における、神の刃だった。
彼らは、無数の障壁を、突破した。
仲間たちの、命がけの支援を、受けながら。
そして、ついに、たどり着いた。
巨兵の、胸部。
赤く、おぞましく、脈動する、巨大な、コアの、目の前に。
「……今よ!」
ミリアが、叫んだ。
三人の心が、一つになる。
「「「うおおおおおおおおっ!」」」
ミリアの剣。
ゴードンの斧。
ティナの、最大級の、破壊魔法。
三人の、これまでの、人生の、全ての思いを、乗せた一撃が、同時に、その、赤いコアへと、叩き込まれた。
パリン、という、小さな、ガラスが割れるような音が、響いた。
次の瞬間。
終焉の巨兵の、山よりも巨大な体が、内側から、まばゆい、白い光を、放ち始めた。
それは、断末魔の、叫びだったのかもしれない。
光は、みるみるうちに、強くなり、やがて、全てを、白一色に、染め上げた。
……どれほどの時間が、経っただろうか。
光が、収まった時。
そこに、終焉の巨兵の姿は、もう、なかった。
ただ、その巨体が、崩壊してできた、黒い、ガラス質の砂が、キラキラと、空から、舞い落ちているだけだった。
世界は、救われた。
静寂。
そして、遅れてやってきた、割れんばかりの、歓声の、大爆発。
人々は、抱き合い、泣き、そして、笑った。
英雄「灯火の団」の名を、叫んだ。
連合軍の、全ての兵士たちの、勇気を、讃えた。
そして、この、奇跡を、起こしてくれた、「神々」に、心からの、感謝を、捧げた。
その頃。
ランガの、作戦室。
俺は、全ての魔力を、使い果たし、椅子に、深く、もたれかかっていた。
目の前の、立体地図が映し出す、人々の、歓喜の姿を、俺は、ただ、静かに、見つめていた。
顔には、深い、深い、疲労の色と、そして、全てを、終えた者の、静かな、満足感が、浮かんでいた。
俺は、決して、表舞台には、立たない。
誰にも、知られることなく、ただ、一人、世界を、救った。
それで、よかった。
追放された、支援術師。
役立たずと、罵られた男。
その男が、今、世界の、本当の、救世主となったのだ。
その、甘美な、皮肉を、俺は、ただ一人、静かに、噛み締めていた。




