第二十六話:理想郷の光と終焉の影
レオンとセラという、過去の亡霊との決別から、数ヶ月の時が流れた。
俺の周囲の世界は、俺の脚本通りに、静かに、しかし、確実に、再編され続けていた。
その中心地となっていたのが、西の小国、エリアン王国だ。
王女フィオナの招聘を受け、俺は「国家最高顧問」という、公式な地位に就いた。
それは、俺が、自分の力を、より公に、そして、より大規模に行使するための、絶好の隠れ蓑だった。
俺は、ランガの「コーザの館」を司令塔としながらも、定期的にエリアンの首都を訪れ、フィオナと共に、国の改革を、驚異的な速度で、推し進めていった。
まず、俺が着手したのは、農業改革だ。
俺は、エリアン全土の土壌に、遠隔で、持続的な《生命の息吹》をかけた。枯れた大地は、再び、生命力を取り戻し、あらゆる作物が、異常なまでの豊穣を見せた。
飢饉は、エリアンの歴史から、完全に姿を消した。余剰となった食料は、黄金の天秤ギルドを通じて、大陸中に輸出され、エリアン王国に、莫大な富をもたらした。
民は、もはや、飢えることはない。
次に、教育と技術の改革。
俺は、フィオナを通じて、国中に、新しい学校を、次々と設立させた。そして、そこで学ぶ子供たちや、研究に励む学者、技術者たちに、ごく微弱な《マインドブースト》を、常にかけ続けた。
結果、エリアン王国では、才能の爆発とでも言うべき現象が起きた。
新しい学問が生まれ、画期的な発明が、次々と成された。病を癒す、新しい医療技術。人々の生活を、豊かにする、新しい道具。
エリアン王国は、武力ではなく、文化と、技術の力で、大陸における、その存在感を、日に日に、増していった。
さらに、俺は、公正な税制を導入し、貴族たちの特権を、一部、剥奪した。
もちろん、反発はあった。だが、俺という、得体の知れない存在と、俺の後ろ盾となっている、黄金の天秤ギルドの力を前に、正面から、異を唱えられる者はいなかった。
国の富は、正しく、民に、再分配された。
貧富の差は、緩やかに、是正されていった。
エリアン王国は、変わりつつあった。
いや、生まれ変わりつつあった。
理不尽な飢えも、搾取もなく、誰もが、自分の能力を、正当に評価され、未来への希望を持って、生きることができる国。
それは、俺が、かつて、夢見た、理想郷の、雛形だった。
フィオナは、有能な為政者だった。
彼女は、俺が提示する、時に、常識外れなビジョンを、見事に、現実の政策へと、落とし込んでいった。彼女の、王族としてのカリスマと、民を思う、真摯な心がなければ、この改革は、これほど、スムーズには進まなかっただろう。
「アッシュ。あなたのやっていることは、まさに、神の御業ですわ」
ある日の会議の後、彼女は、俺に、そう言って、微笑んだ。
「あなたは、この国を、地上の楽園にしようとしている」
「楽園、ですか。大げさですよ」
俺は、答えた。
「俺はただ、非合理的なものを、合理的に、作り直しているだけです。飢えも、貧困も、戦争も、全ては、非合理的な、システムの欠陥に過ぎない」
「ふふ。あなたらしい、お答えですわね」
彼女の、俺を見る瞳には、絶対的な信頼と、そして、パートナーとしての、親愛の情が、宿っていた。
俺たちの間には、もはや、探り合いなどない。同じ、理想郷の実現という、共通の目標に向かって、共に歩む、同志としての、強い絆が、結ばれていた。
ランガのバルドも、コーザ村の仲間たちも、そして、「灯火の団」や、エリアナも。
俺の築き上げたネットワークは、完璧に機能し、俺の望む通りに、世界を、動かしていた。
この平穏が、このまま、続いていく。
俺も、そして、俺の周りにいる誰もが、そう信じ始めていた、その時だった。
北の大地で、世界を、再び、混沌の闇へと引きずり込もうとする、狂気の産声が、上がったのは。
*
敗戦国、ガルニア帝国。
その帝都は、今、死の淵にあった。
エリアン王国との戦争での、信じがたい、そして、屈辱的な敗北。
その後に、課せられた、あまりに過酷な、賠償金の支払い。
国の富は、エリアン王国と、その背後にいる、黄金の天秤ギルドへと、吸い上げられ、帝国の財政は、完全に、破綻した。
民は飢え、貴族たちは、皇帝への不満を、露わにし、各地で、反乱の火種が、くすぶり始めていた。
皇帝ガルバトス七世は、玉座の間で、震えていた。
それは、怒りか、あるいは、恐怖か。
彼は、もはや、国の全てを、失いかけていた。権威も、求心力も、そして、未来も。
「陛下! このままでは、帝国は、内側から、崩壊しますぞ!」
「貴族どもが、新たな皇帝を、擁立しようと、画策しているとの噂も!」
「何とか、手を打たねば!」
大臣たちの、悲鳴のような声が、玉座の間に、響き渡る。
だが、ガルバトス七世には、もはや、打つ手など、残されていなかった。
彼が、絶望に、打ちひしがれていた、その時だった。
玉座の影から、一人の男が、ぬっ、と姿を現した。
痩せこけた体。深く窪んだ、狂信的な光を宿す瞳。宮廷魔術師長の、ザラドゥールだった。
「陛下。嘆くことは、ございません」
彼は、蛇のような、ねっとりとした声で、皇帝に、囁いた。
「我らには、まだ、残された道が、一つだけ、ございます」
「……何だと?」
「起死回生の、最後の、そして、最強の一手が」
ザラドゥールは、懐から、黒い革で装丁された、禍々しい気配を放つ、古い書物を取り出した。
「陛下。もはや、人間の力に、頼る時は、終わりました。今こそ、古代の契約に基づき、我らが帝国を守護する、偉大なる『彼』を、永き眠りから、お目覚めさせる時です」
「『彼』の力をもってすれば、エリアンも、黄金の天秤も、そして、この大陸の、全ての国々を、一夜にして、灰燼に帰すことが、できましょうぞ」
皇帝は、その言葉の意味を、理解した。
『彼』。それは、帝国の建国神話に、禁断の存在として、記されている、破壊の化身。
帝国の祖先が、あまりの、その力の強大さを恐れ、帝都の、最も深い場所に、封印したという、伝説の、古代兵器。
「……だが、それは、制御できるのか? 下手すれば、我ら自身が、滅びることになるぞ……」
皇帝の、かすかな理性が、警告を発した。
「ご心配には、及びません、陛下」
ザラドゥールは、狂気の笑みを、浮かべた。
「この、私がおります。我が魔術の全てをかければ、『彼』を、陛下の、忠実なる僕として、蘇らせてご覧にいれまする」
「さあ、陛下。ご決断を。このまま、屈辱の中で、滅びるか。あるいは、絶対的な力で、全てを、破壊し、新たな世界の王として、君臨するか!」
追い詰められた、皇帝ガルバトス七世の心に、その、悪魔の囁きは、甘く、響いた。
彼は、もはや、正常な判断力を、失っていた。
彼は、藁にも、すがる思いで、その、狂気の計画に、頷いた。
「……やれ。ザラドゥール。儀式を、執り行え」
*
その夜。
帝都の、地下深く。忘れ去られた、禁断の祭壇に、数十年ぶりに、松明の火が、灯された。
壁には、古代の、冒涜的な象形文字が、びっしりと刻まれている。空気は、死と、古の魔力の匂いで、澱んでいた。
皇帝ガルバトス七世と、ザラドゥールを始めとする、十数名の、狂信的な魔術師たちが、祭壇を囲んでいた。
彼らは、自分たちが、今、何を、呼び覚まそうとしているのか、その本当の恐ろしさを、理解していなかった。
彼らの心にあるのは、ただ、エリアンへの、世界への、復讐心だけだった。
「古の契約に基づき、我ら、皇帝ガルバトス七世の名において、命じる!」
ザラドゥールの、甲高い声が、詠唱を始めた。
「永劫の眠りにつきし、終焉の僕よ! 今こそ、その枷を解き放ち、我らが敵を、滅ぼすための、破壊の化身として、蘇れ!」
魔術師たちが、一斉に、詠唱を唱和する。
祭壇に描かれた、巨大な魔法陣が、血のように、赤い光を放ち始めた。
大地が、揺れた。
最初は、微かな振動だった。だが、それは、みるみるうちに、激しくなり、地下神殿全体が、まるで、生き物のように、大きく、脈動を始めた。
壁に、亀裂が走り、天井から、土砂が、ぱらぱらと、落ちてくる。
「おお……! 来るぞ、来るぞ!」
ザラドゥールは、恍惚とした表情で、叫んだ。
「目覚められるぞ! 我らが帝国の、守護神が!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
凄まじい、地響き。
祭壇の中央が、巨大な力によって、内側から、押し上げられ、砕け散った。
そして、その、開かれた闇の底から、おぞましいほどの、濃密な魔力が、黒い奔流となって、噴出した。
儀式は、成功した。
そして、同時に、致命的に、失敗した。
*
帝都の、民衆は、その日、世界の終わりを、見た。
帝都の中央広場。その、美しい石畳が、何の前触れもなく、巨大なクレーターのように、陥没した。
そして、その、開かれた奈落の底から、ゆっくりと、山よりも巨大な、「何か」が、姿を現した。
それは、異形、という言葉すら、生ぬるい、混沌の塊だった。
何百メートルもあるであろう、その巨体は、黒い、流動的な物質で、できており、その表面には、何千、何万という、赤く輝く、目が、無数に、点滅していた。
体からは、腕とも、触手ともつかない、おぞましい突起が、何本も、蠢いている。
終焉の巨兵。
古代人が、神々との戦いのために作り出した、究極の、破壊の化身。
それは、召喚主である、皇帝たちのことなど、まるで、意にも介さなかった。
その無数の目は、ただ、無差別に、地上の、生命あるもの全てを、憎悪に満ちた光で、見下ろしていた。
ピュン、という、軽い音。
巨兵の、無数にある目の一つから、一条の、黒い光線が、放たれた。
その光線は、帝国の、最も壮麗な建造物である、皇帝の城に、着弾した。
音は、なかった。
ただ、城が、その周辺の、街区画ごと、光に飲み込まれ、そして、塵も残さず、完全に、「消滅」した。
空間そのものが、抉り取られたかのようだった。
沈黙。
そして、遅れてやってきた、絶叫。
帝都は、阿鼻叫喚の、地獄へと、変わった。
巨兵は、まるで、子供が、蟻の巣を、踏み潰すかのように、ただ、気まぐれに、その破壊の御業を、振りまき始めた。
黒い光線が、空を、無数に、飛び交い、そのたびに、街が、人々が、歴史が、音もなく、消滅していく。
ガルニア帝国は、自らが、起死回生のために呼び出した、その絶対的な厄災によって、わずか数分で、その、長かった歴史の幕を、完全に、閉じたのだ。
だが、厄災は、終わらない。
帝都を、完全に、更地へと変えた、終焉の巨兵は、その、巨体を、ゆっくりと、動かし始めた。
南へ。
豊かな、生命の匂いがする、南の方角へ。
その進路上にある、町や、村、そして、小国が、これから、次々と、地図の上から、消え去っていくことになるだろう。
人類の歴史上、誰も、経験したことのない、未曾有の、大災害。
その報は、生き残った者たちの、恐怖に満ちた絶叫と共に、飛竜便や、伝令馬によって、大陸中に、瞬く間に、伝播していった。
各国は、連合軍を結成し、巨兵の迎撃を、試みた。
だが、剣も、矢も、そして、最強の魔法すらも、その、黒い、流動的な体には、何の効果もなかった。
逆に、巨兵から放たれる、黒い光線の一撃が、数千の兵士を、一瞬で、消滅させた。
人類は、初めて、自分たちの力が、全く通用しない、絶対的な「理不尽」を、目の当たりにした。
世界が、抗う術のない、完全な、絶望に、包まれようとしていた。
その、絶望の報は、もちろん、ランガの「コーザの館」にいる、俺の元へも、詳細に、届けられていた。
作戦室。
エリアナが、青ざめた顔で、報告を、続けている。
「……以上が、現時点で、判明している、全てです。ガルニア帝国は、消滅。巨兵は、現在も、南下を続けており、このままでは、あと十日ほどで、エリアン王国の国境に、到達します」
「……そうですか」
俺は、巨大な地図の上に置かれた、終焉の巨兵を示す、黒い、巨大な駒を、静かに、見つめていた。
俺の顔には、恐怖も、驚きも、焦りも、なかった。
ただ、まるで。
この時が、来るのを、ずっと、待っていたかのような。
静かで、冷徹な、そして、どこか、楽しんでいるかのような、表情が、浮かんでいた。
俺の脚本の、最終幕が、今、上がろうとしている。
そして、その主役は、俺自身だ。
世界が、本当の意味で、俺の「支援」を、必要とする時が、来たのだ。




