第二十五話:泥中の懇願と永遠の決別
レオンとセラが共に歩む、贖罪の旅路。
それは、彼らがかつて経験した、どの冒険よりも、過酷で、そして、惨めなものだった。
アッシュという、絶対的な支援を失った彼らは、完全に、ただの無力な人間だった。
夜盗の影に怯え、夜は寒さに震え、昼は飢えに苦しむ。ゴブリンの小さな群れにすら遭遇することを恐れ、街道を外れ、獣道を這うように進む日々。
かつて、聖剣を振るい、人々から「勇者」と讃えられた男の姿は、そこにはない。
かつて、聖なる祈りで、人々の傷を癒した、慈愛に満ちた神官の姿も、そこにはない。
そこにいたのは、ただ、自分たちが犯した罪の重さに、打ちひしがれ、それでも、なお、歩き続けるしかない、二人の罪人だけだった。
どれほどの時間が、経っただろうか。
擦り切れた靴。泥と垢で汚れた衣服。そして、心身ともに、疲弊しきった二つの魂は、ついに、その旅の、終着点へとたどり着いた。
目の前に広がる、巨大な城壁。そして、その向こうから聞こえてくる、尽きることのない、人々の喧騒。
商業都市ランガ。
アッシュがいるであろう、約束の地。
だが、そのあまりの壮大さと、活気に満ちた光景は、彼らの心を、希望ではなく、むしろ、さらなる絶望へと、突き落とした。
「……ここが、ランガ……」
セラの声は、かすれていた。
王都すらも、霞んで見えるほどの、圧倒的な繁栄。行き交う人々の顔は、誰もが、自信と、活力に満ち溢れている。
二人は、その、あまりにも場違いな自分たちの姿を、恥じるように、俯いた。
彼らが、街の中へと、おずおずと足を踏み入れると、すぐに、その繁栄の源が、何であるかを、思い知らされることになった。
街の至る所で、人々が、興奮したように、同じ言葉を、口にしていたからだ。
「聞いたか? コーザ村から、また新しいジャムが入荷したらしいぞ!」
「俺は、ガンツの親父が打った、新しい農具が欲しいんだ。あれを使えば、仕事が倍は、はかどるぜ」
「まあ、奥様。そのショール、もしかして、翠風織ではございませんこと? なんて、お美しい……」
コーザ村。
アッシュの故郷。
その名が、今や、この大陸で、最も価値のある、ブランドとして、人々の間で、語られている。
そして、その奇跡の村を、復興させ、導いている人物への、賞賛の声。
「全ては、『コー-ザの館』におわす、アッシュ様のおかげだ」
「ああ。あの方が、このランガに来てから、街は、ますます豊かになった」
「エリアンを救ったのも、あの方の力だという噂だ。もはや、聖人か、神様のようなお方だ」
アッシュ様。
その、神を崇めるかのような、人々の声を聞くたびに、レオンとセラの心は、鋭いナイフで、抉られるかのように、痛んだ。
自分たちが、「役立ず」と罵り、ゴミのように捨てた男が、今や、人々の尊敬と、信仰を、一身に集めている。
その、あまりにも、残酷な現実。
自分たちがいた世界と、彼がいる世界が、もはや、決して、交わることのないほど、遠く、離れてしまったことを、彼らは、痛感させられた。
*
二人は、噂を頼りに、貴族街にあるという、「コーザの館」へと、たどり着いた。
そして、その壮麗すぎる屋敷を前に、完全に、言葉を失った。
王宮ですら、これほどの威厳はないかもしれない。高く、美しい石塀。磨き上げられた、巨大な鉄の門。そして、その門を守るように立つ、二人の屈強な門番。
門番の男たちが着ている鎧は、自分たちが、かつて、最高級品として身につけていたものよりも、遥かに、質が良いように見えた。
「……どうする、レオンさん」
セラが、不安そうに、尋ねた。
「……」
レオンは、答えることができなかった。
声をかける、勇気が出なかった。
自分は、一体、どんな顔をして、この門を叩けばいい?
そして、あいつに、何と言えばいい?
「悪かった」と、謝るのか?
「戻ってきてくれ」と、乞うのか?
その、どちらの言葉も、あまりに、軽く、そして、あまりに、虫が良すぎるように、思えた。
彼らは、ただ、遠くから、その巨大な屋敷を、眺めることしかできなかった。
一日が過ぎ、二日が過ぎた。
彼らは、屋敷の近くの、路地裏で、物乞いをしながら、その日暮らしの飢えをしのいだ。そして、夜になると、ただ、亡霊のように、屋敷の前に立ち、その中から漏れてくる、温かい光を、見つめ続けた。
自分たちには、決して、手の届かない、光を。
そして、運命の日は、三日目に、訪れた。
その日の昼下がり。
屋敷の、重厚な鉄の門が、ゆっくりと、開き始めた。
中から、豪華な装飾が施された、数台の馬車が、静かに出てくる。その馬車を、リョウとケン、そして、「灯火の団」のメンバーたちが、護衛するように、周囲を固めていた。彼らの顔つきは、自信に満ち溢れ、その装備は、一流の冒険者のものであることを、示していた。
そして、その中心にいる、最も豪華な馬車の、窓が開いた。
そこから、外の景色を眺めていたのは、エリアン王国の、王女フィオナ。そして、黄金の天秤ギルドの、ギルドマスター・バルド。
彼らが、誰かと、親しげに、談笑している。
その、相手の顔を見て、レオンとセラの心臓は、止まりそうになった。
アッシュだった。
かつてのような、おどおどした態度は、微塵もない。
穏やかな、しかし、絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべ、王族や、大商人と、対等に、いや、むしろ、彼らを導くかのように、国の未来について、語らっている。
その姿は、もはや、自分たちが知っている、あの気弱な支援術師ではなかった。
それは、世界の中心に立つ、王の姿、そのものだった。
その光景が、引き金となった。
レオンの中で、最後まで、かろうじて残っていた、元勇者としての、ちっぽけな、そして、醜いプライドが、ガラスのように、音を立てて、完全に、砕け散った。
彼は、衝動的に、走り出していた。
理屈ではなかった。ただ、本能が、叫んでいた。
ここで、何もしなければ、自分は、本当に、終わってしまう、と。
「待って、レオンさん!」
セラの、制止の声も、彼の耳には、届かなかった。
*
「アッシュ……!」
馬車の一団の前に、泥だらけの男が、転がるように、飛び出してきた。
護衛についていた、リョウとケンが、即座に、剣を抜き放ち、その男の前に、立ちはだかる。
「何者だ!」
だが、その男は、彼らを、見向きもしなかった。
ただ、一心に、アッシュが乗る、馬車を見つめ、そして、その場に、崩れ落ちた。
彼は、泥だらけのまま、額を、硬い石畳に、何度も、何度も、こすりつけた。
土下座。
いや、それ以上に、惨めで、必死な、祈りの姿だった。
「アッシュ……! 頼む……! 話を、聞いてくれ……!」
レオンは、嗚咽しながら、叫んだ。
その、異常な光景に、馬車は、静かに、停止した。
フィオナや、バルドが、怪訝な顔で、窓から、その様子を見ている。
ミリアたちも、何事かと、馬を寄せた。
「……悪かった……!」
レオンは、泣きじゃくりながら、全てを、告白し始めた。
「俺が……! 俺たちが、全部、間違っていた……! お前の力の、本当の価値に、俺たちは、気づかなかったんだ……! いや、気づこうとも、しなかった……!」
「お前を、役立ずだと、罵り、追放した……! なんて、愚かなことをしたんだ……! 頼む、アッシュ! 殴ってくれ! 蹴ってくれ! この通りだ! だから……!」
彼は、顔を上げた。その顔は、涙と、鼻水と、そして、泥で、ぐちゃぐちゃだった。
「……だから、頼む! もう一度、俺たちのパーティーに、戻ってきてくれ!」
「お前がいないと、俺たちは、何もできないんだ……! ゴブリン一匹、倒せないんだよ……! 頼む……アッシュ……!」
その、あまりに、情けない、懇願。
その時、レオンの後を追ってきたセラもまた、彼の隣に、静かに、膝をついた。
彼女は、レオンのように、叫ぶことはなかった。
ただ、深く、深く、頭を下げ、その肩を、小刻みに、震わせ、涙を流し続けていた。
その姿は、どんな言葉よりも、雄弁に、彼女の、深い後悔と、罪悪感を、物語っていた。
*
馬車の中は、静まり返っていた。
フィオナも、バルドも、そして、ミリアたちも、目の前で繰り広げられる、異様な光景に、言葉を失っていた。
ミリアと、リョウ、ケンは、アッシュの過去に、何があったのかを、おぼろげながらに、察した。彼らの師匠が、目の前の、この惨めな男女によって、かつて、深く、傷つけられたのだと。
彼らの目に、静かな、怒りの炎が、宿った。
その、張り詰めた空気の中、アッシュは、ゆっくりと、馬車の扉を開け、外へと、降り立った。
彼は、泥の中にひれ伏す、かつての仲間、二人を、静かに、見下ろした。
その瞳には、かつてのような、気弱さも、優しさも、同情も、何一つ、浮かんでいなかった。
そこにあるのは、絶対的な、力を持つ者の、冷たい、静かな光だけだった。
やがて、彼は、静かに、しかし、その場にいる、全員に、聞こえるように、はっきりと、告げた。
「……レオン。君は、まだ、勘違いをしているようだね」
その声は、氷のように、冷たかった。
「君たちが、欲しいのは、『僕』じゃない。君たちが、恋い焦がれているのは、『僕の力』という、便利な道具だけだ」
「君たちは、あの頃と、何も変わっていない。ただ、失った道具の、そのあまりの便利さに、今さら、気づいて、駄々をこねているだけだ。……違うかい?」
レオンは、その、あまりに的確な指摘に、ぐっと、言葉を詰まらせた。
「残念だったな、レオン。僕の力は、もう、君たちのような、小さな器には、収まりきらない。そして、何よりも……」
アッシュは、そこで、一度、言葉を切った。
そして、自分の後ろに控える、ミリアや、リョウ、ケン、そして、馬車の中のエリアナや、バルド、フィオナに、視線を向けた。
「……僕の、今の仲間たちは、僕の力ではなく、『僕』自身を、見てくれる。信じてくれる。……君たちには、決して、できなかったことだ」
「君たちの居場所は、もう、僕の隣には、ない。それは、君たち自身が、あの日、選んだことだろう?」
それは、絶対的な、そして、永遠の、決別の言葉だった。
レオンは、その、あまりの、冷たい真実に、完全に、打ちのめされ、ただ、その場で、声を上げて、泣き崩れることしかできなかった。
アッシュは、次に、セラへと、視線を移した。
彼女は、ただ、顔を伏せ、震え続けている。
「……セラ」
彼は、少しだけ、声のトーンを、和らげた。
「君が、あの時、何も言えなかった、臆病者だったことは、知っている。君が、誰よりも、心を痛めていたことも、知っていたよ」
「だが、君は、自分の足で、ここまで来た。誰かに、命令されたわけでもなく、自分の意志で」
「……もう、誰かに従うのは、やめなさい。自分の足で、自分の人生を、歩むんだ。神官であるなら、人を癒し、助ける道は、いくらでもあるはずだ」
それは、突き放しであり、同時に、彼が、セラに与えた、最後の、そして、唯一の、救いの言葉だった。
セラは、顔を上げることができなかった。ただ、地面に、熱い涙の染みを、広げていくだけだった。
「……行け」
アッシュは、短く、御者に、そう告げた。
馬車は、ゆっくりと、動き出す。
泣き崩れる、レオンとセラの、そのすぐ横を、何事もなかったかのように、通り過ぎていく。
アッシュは、一度も、彼らを、振り返らなかった。
レオンとセラは、遠ざかっていく、豪華な馬車の一団を、ただ、呆然と、見送ることしかできなかった。
彼らの、長く、そして、惨めだった贖罪の旅は、今、この場所で、完全なる、絶望という名の、終着点を、迎えたのだった。
彼らの物語は、ここで、終わった。
そして、アッシュの物語は、彼らを、過去の風景として、置き去りにして、さらに、先へと、進んでいく。




