第二十三話:泥中の後悔と神殿の真実
世界の歯車が、俺を中心に、大きく、そして確かな音を立てて回り始めている頃。
その歯車から弾き出され、忘れ去られた者たちは、かつて自分たちがいた光の世界を、もはや思い出すこともできないほどの、暗く、冷たい泥の底で、もがいていた。
王都の、最も汚れた地区。貧民街の、さらに奥。
酸っぱい腐臭と、澱んだ絶望が支配する路地裏で、一人の男が、泥水の中に倒れていた。
その男の名は、レオン。
かつて、聖剣を手に、魔物を薙ぎ払い、人々から「勇者」と呼ばれ、賞賛を一身に浴びていた男。
だが、今の彼の姿に、その面影は、もはや、一片たりとも残っていなかった。
「……う……ぐ……」
二日酔いの、頭を割るような痛みと共に、レオンは、ゆっくりと目を開けた。
視界に映るのは、汚れた石畳と、自分の吐瀉物。体は、殴られたかのように痛み、骨の髄まで冷え切っている。
彼は、自分が、なぜここにいるのか、すぐには思い出せなかった。
ああ、そうだ。昨日も、酒場で、酒代が払えず、他の冒-険者に絡んでは、返り討ちに遭い、ここに捨てられたのだ。
もはや、そんな日常にも、慣れてしまっていた。
彼は、震える手で、ゆっくりと体を起こした。
腹が、焼け付くように、空腹を訴えている。もう、丸二日は、何も口にしていなかった。
彼は、ふらつきながら、壁に手をついて立ち上がった。日雇いの仕事を探さなければならない。肉体労働でも、ゴロツキの用心棒でも、何でもよかった。ただ、今日のパンと、今夜の安酒を手に入れるために。
だが、街へ出ても、誰も、彼を雇おうとはしなかった。
そのみすぼらしい姿。虚ろで、光のない瞳。そして、体中から発せられる、敗北者の匂い。
人々は、彼を、汚物でも見るかのような目で一瞥し、足早に通り過ぎていくだけだった。
「ちくしょう……! なぜだ……! なぜ、誰も、俺を認めねえんだ!」
レオンは、誰に言うでもなく、悪態をついた。
プライドだけは、まだ、彼の心に、醜い澱のように、残っていた。
俺は、勇者だ。特別な存在のはずだ。なぜ、こんな仕打ちを受けなければならない。
彼の心は、自分の弱体化の原因から、目をそらし続けていた。これは、ただの不運だ。長すぎる、スランプなのだ。そう、思い込もうとしていた。
だが、彼の心の奥底では、認めたくない、一つの疑念が、毒草のように、根を張り始めていた。
あの男。アッシュ。
あいつを追放してから、全てがおかしくなった。
その、あまりに単純で、そして、あまりに受け入れがたい真実から、彼は、逃げ続けていた。
彼は、なけなしの銅貨をかき集め、いつものように、街で最も安い、そして最も荒んだ酒場へと、向かった。
彼の唯一の救いは、酒で、思考を麻痺させることだけだったからだ。
*
その酒場は、昼間から、人生に敗れた者たちの、熱気と、諦めの溜息で、満ちていた。
レオンは、カウンターの、一番隅の席に座ると、黙って、エールを注文した。
彼の耳に、周囲の傭兵や、商人崩れの男たちの、興奮した会話が、嫌でも、飛び込んできた。
「おい、聞いたか? 西の、エリアン王国の話!」
「ああ、聞いたぜ! あのガルニア帝国相手に、大勝利したって話だろ? にわかには、信じられねえがな」
「それが、本当らしいんだよ。なんでも、エリアンの兵士たちは、神のご加護でも受けたみたいに、不死身だったって話だぜ」
(……くだらん)
レオンは、心の中で、吐き捨てた。
神のご加護? 不死身?
そんな、おとぎ話があるものか。
だが、その言葉は、彼の、古傷を、容赦なく抉った。
それは、かつて、自分たちが、人々から、飽きるほど、聞かされた言葉だったからだ。
あの頃は、自分も、そう信じていた。自分たちは、神に選ばれた、特別な存在なのだと。
その、甘美な記憶が、今の、自分の惨めな現状を、より一層、際立たせた。
「なんでも、その勝利の裏には、黄金の天秤ギルドが、一枚噛んでるらしいぜ」
一人の商人が、声を潜めて、言った。
「ああ。ギルドが、謎の『軍事顧問』を、エリアンに送り込んだって噂だ。そいつの立てる作戦が、まるで、神の予言みたいに、的確だったとか」
「へえ。そいつは、一体、何者なんだ? どっかの国の、落ちぶれた将軍でも、拾ってきたのか?」
「いや、それが、全くの謎なんだよ。ただ、一つだけ、奇妙な噂があってな……」
商人は、さらに、声を潜めた。
「その、天才軍師様。なんと、『コーザ村』っていう、名前も聞いたこともねえような、ど田舎の、辺境の村の、出身らしいんだ」
その瞬間。
レオンが持っていた、エールのジョッキが、手から滑り落ちた。
ガシャン! という、けたたましい音を立てて、ジョッキが砕け散る。
酒場の視線が、一瞬だけ、彼に集まったが、誰も、気にも留めず、すぐに、自分たちの会話へと戻っていった。
だが、レオンの耳には、もう、何も、入っていなかった。
彼の頭の中で、たった一つの言葉が、何度も、何度も、反響していた。
コーザ村。
コーザ村。
コーザ村。
それは、忘れようとしても、忘れられなかった、あの男の故郷の名だった。
アッシュの、故郷。
レオンの心臓が、まるで、氷の矢で、射抜かれたかのように、凍りついた。
全身の血の気が、引いていく。
偶然か?
同姓同名の、別人か?
いや。そんな偶然が、あるものか。
奇跡的な、支援。
辺境の、貧しい村。
全ての点が、線となって、繋がっていく。
それは、彼が、ずっと目をそらし続けてきた、一つの、ありえない、しかし、唯一の、可能性を、示していた。
*
時を同じくして。
王都の大神殿。
その、最も静かで、そして、最も忘れられた場所。地下の、古い書庫。
セラは、一人、黙々と、埃をかぶった書物を、整理していた。
パーティーが離散し、一人になってから、彼女は、この神殿に身を寄せ、下働きとして、生きていた。
彼女の毎日は、贖罪そのものだった。
早朝から、深夜まで、祈りを捧げることも許されず、ただ、ひたすらに、神殿の掃除や、洗濯、食事の準備といった、雑用をこなす。
その、単調な労働の中で、彼女は、常に、考えていた。
自分たちが、犯した罪のことを。
そして、自分たちが、捨ててしまった、一人の仲間のことを。
あの日、この書庫で、古代文献の中に、「大支援術師」という存在を見つけて以来、彼女の中の疑念は、日に日に、確信へと変わっていっていた。
アッシュさんの力は、自分たちが思っていたような、初歩的なものではなかった。
彼は、伝説の、大支援術師に匹敵する、特別な存在だったのだ。
そして、自分たちは、そのことに、全く気づかず、彼を、傷つけ、追放してしまった。
その罪の意識が、重い十字架のように、彼女の心に、のしかかっていた。
彼女は、毎晩、誰にも知られず、この書庫の片隅で、祈りを捧げていた。
神への祈りではない。
アッシュへの、赦しを乞う、祈りだった。
その日も、彼女は、書物の整理を続けていた。
すると、神殿の聖騎士たちが、何やら、興奮した様子で話しているのが、耳に入ってきた。
「聞いたか! 西のエリアン王国からの、巡礼者たちの話を!」
「ああ。彼らが、神殿に、莫大な寄付をしていったそうだな。なんでも、神への、感謝の祈りを捧げるためだとか」
「奇跡が起きたらしいな。あのガルニア帝国を、打ち破ったと」
エリアン王国の勝利。その噂は、この神聖な大神殿にまで、届いていた。
セラは、その話に、何となく、耳を澄ませていた。
「なんでも、その勝利は、『姿なき守り神』のご加護によるものだと、彼らは、固く信じているらしい」
「その守り神様は、決して、人々の前に姿を現さず、ただ、エリアン王国を、勝利へと導いた、と」
「ほう。それは、まさに、神の御業だな」
「だが、一つ、奇妙な話があってな。その守り神様、あるいは、その神託を伝える賢者様は、『コーザ村』という、小さな村から、現れた、という噂が、あるらしい」
その言葉を、聞いた瞬間。
セラの手から、抱えていた古い聖典が、ばさりと、床に落ちた。
彼女は、その場に、凍りついたように、立ち尽くした。
コーザ村。
アッシュさんの、故郷。
彼女の頭の中で、全てのピースが、はまった。
鷲巣砦の奇跡。霧降りの平原での、ありえない勝利。
それは、神のご加護などではない。
アッシュさんの、支援魔法だ。
彼が、あの日、自分たちのパーティーにかけてくれていた、あの温かい光。
あの光が、今、一つの国の軍隊を、丸ごと、包み込んでいるのだ。
大支援術師は、一人で、軍隊全体の能力を引き上げる。
文献の記述は、真実だった。
そして、その伝説を、今、ア-ッシュさんが、現実のものとしている。
彼女の中で、疑念は、絶対的な、そして、揺るぎない、確信へと変わった。
自分たちが、どれほど、愚かで、取り返しのつかないことをしてしまったのか。
その真実の重みが、彼女の、華奢な体を、打ちのめした。
*
レオンは、酒場を飛び出していた。
降り始めた、冷たい雨に打たれながら、彼は、当てもなく、王都の裏路地を、走り続けていた。
頭の中で、過去の記憶が、濁流のように、渦巻いていた。
『アッシュ!《フィジカルアップ》を切れさせるな! トロいんだよ!』
『おいアッシュ、ちゃんと私にも《マインドブースト》かけときなさいよね』
『お前みたいな、攻撃もできねえ、回復もできねえ、ただ後ろでフワフワ光を飛ばすだけの奴が!』
『アッシュ。てめえは今日限りで、このパーティー『竜の牙』から追放だ』
そうだ。
あいつがいた頃。俺たちは、無敵だった。どんな強敵も、恐ろしくなかった。
体が軽く、力がみなぎり、頭が冴えわたっていた。
それが、当たり前だと思っていた。
それが、俺自身の力だと、信じて疑わなかった。
だが、違ったのだ。
全ては、俺が見下していた、あの男の、支援魔法によるものだったのだ。
俺たちは、自分の力の源を、自分の力の、心臓部を、「役立たず」と罵り、自らの手で、えぐり出して、捨ててしまったのだ。
「ああ……」
レオンは、路地裏の壁に、背中を打ち付け、ずるずると、その場に崩れ落ちた。
「ああああ……あああああああああああっ!」
獣のような、絶叫。
それは、後悔と、自己嫌悪と、そして、あまりにも、遅すぎた、真実への、絶望の叫びだった。
自分が捨てたものが、ただの支援術師ではなかった。
自分の栄光、力、未来。その、全てだった。
その事実に、彼の、ちっぽけなプライドは、完全に、粉々に、砕け散った。
時を同じくして。
大神殿の、書庫の、暗闇の中。
セラもまた、一人、静かに、涙を流していた。
床に散らばった聖典の上で、彼女は、ただ、蹲っていた。
「アッシュさん……。ごめんなさい……。ごめんなさい……」
その、か細い声は、誰にも、届かない。
彼女の涙は、レオンのような、自分を憐れむ涙ではなかった。
ただ、ひたすらに、一人の、心優しい青年を、自分たちが、どれほど深く、傷つけてしまったかという、その罪の重さに対する、贖罪の涙だった。
二人の、元仲間。
彼らは、それぞれの場所で、それぞれの形で、同じ、一つの真実に、たどり着いた。
そして、その真実は、彼らを、これから、さらに深い、絶望の淵へと、引きずり込んでいくことになる。
自分たちが犯した罪を、償うための、長く、そして、あまりにも過酷な、道のりが、今、始まろうとしていた。




