第二話:覚醒と兆し
静まり返った『嘆きの迷宮』最深部。そこに満ちるのは魔物の亡骸が放つ腐臭と俺の内に宿った未知の力への畏怖と興奮が入り混じった異様な熱気だった。
「……すごい」
《フィジカルアップ》をかけた俺の腕はミノタウロスの硬い皮をナイフ一本でバターのように切り裂いていく。《マインドブースト》状態の頭脳は素材の価値が最も高くなる部位と切断線を瞬時に弾き出し、俺の手に寸分の狂いもない動きを命じていた。
さっきまで魔力欠乏で倒れていた男と同一人物とは俺自身ですら信じがたい。
作業は驚くほど速く進んだ。あれほど巨大だったミノタウロスの死骸は見る見るうちに角、皮、心臓の魔石そして特殊な筋肉繊維といった高価な素材へと姿を変えていく。これら全てが今の俺にとっては金貨の山に他ならない。
「これだけの量どうやって運ぶか……」
普通の冒険者ならここで頭を悩ませるだろう。大型の魔法袋でもなければ全てを持ち帰るのは不可能だ。
だが今の俺には問題なかった。
《フィジカルアップ》の効果は純粋な腕力だけでなく持久力や身体全体の強度をも引き上げている。俺は剥ぎ取った分厚い皮で即席の巨大な風呂敷を作るとそこに全ての素材を放り込み軽々と肩に担ぎ上げた。推定で百キロは超えているはずの荷物が羽毛のように軽い。
「さて帰るか」
ダンジョンの出口へ向けて歩き出す。
《マインドブースト》のおかげで迷宮の構造は完全に頭に入っていた。どの道が最短ルートでどこにまだ残党の魔物が潜んでいるか手に取るようにわかる。以前の俺ならレオンの先導がなければ迷っていたであろう複雑な通路を俺は一切の淀みなく進んでいった。
時折ゴブリンやオークの生き残りに遭遇する。
以前の俺なら悲鳴を上げて逃げ惑うしかなかった相手だ。だが今は違う。
「邪魔だ」
俺は担いだ荷物を片手で持ち直し空いた方の手でゴブリンを殴りつけた。特別な技術はない。ただ強化された腕力で殴っただけ。
ゴブリンは「ぎゃっ」という短い悲鳴すら最後まで言い切れずくしゃりと潰れて壁の染みになった。
暴力というものに縁遠かった俺は自分の拳が生み出した結果に一瞬たじろいだがすぐに冷静さを取り戻した。これもこの力を使いこなすために必要なことだ。俺はもう誰かに守ってもらうだけの弱い存在じゃない。
ダンジョンからの脱出はあまりにあっけなかった。
外の光が目に痛い。数時間ぶりに吸う新鮮な空気が肺の隅々まで満たしていく。
俺は追放されそして生まれ変わったのだ。
街に戻った俺がまず向かったのは冒険者ギルドではなく街の裏通りにある素材買い取り専門の店だった。ギルドに持ち込めば身元を確認されレオンたちと鉢合わせる可能性がある。今はまだ彼らと顔を合わせたくなかった。
店の主人は俺が担いできた荷物を見るなり目を丸くした。
「お、おいアンタ……これ全部ミノタウロスの素材じゃねえか。しかも最上級の……まさか一人で狩ったのか!?」
「まあそんなところだ」
俺が曖昧に答えると店主は信じられないという顔をしながらも手早く鑑定を始めた。彼の目がどんどん驚きと興奮に染まっていくのが分かった。
「傷一つない完璧な角! 魔力循環が止まっていない魔石! 信じられねえ……こんな極上品は数年ぶりだぜ!」
査定の結果提示された金額は金貨三百枚。
平民が十年は遊んで暮らせる額だ。パーティーにいた頃俺が受け取っていた分け前はどんなに大きな稼ぎがあっても銀貨数枚がやっとだったことを思うと笑いがこみ上げてくる。
彼らはこれほどの富を生み出す源泉を自らの手で追い出したのだ。
「……ふふっ」
「ん? 何か?」
「いやなんでもない。その額で頼む」
ずしりと重い金貨袋を受け取った俺は誰にも気づかれずに店を後にした。
これで当面の生活には困らない。今後の活動のための軍資金もできた。
宿屋で一番良い部屋を取り熱い風呂でダンジョンの汚れを洗い流す。ベッドに体を横たえるとどっと疲労が押し寄せてきた。魔法の力は凄まじいが精神的な消耗はやはり大きいらしい。
これからのことを考えよう。
この力をどう使うか。
元パーティーへの復讐はもちろん果たす。だがそれは最終目標だ。彼らが「アッシュがいなくなったせいだ」と気づき絶望の淵に沈むには相応の準備と時間が必要だろう。焦りは禁物だ。
それに彼らのような小さな存在に固執するのはこの大いなる力に対してあまりに不誠実な気がした。
この力はもっと大きなことのために使えるはずだ。
《マインドブースト》を再び自分にかける。クリアになった思考の中で俺は一つの結論にたどり着いた。
まずは確固たる地盤を作ろう。金、情報、そして信頼できる協力者。それらを手に入れるための最初の実験場。
「……故郷の村に帰ってみようか」
俺の故郷は王都から遠く離れた辺境にあるコーザという名の小さな村だ。
痩せた土地で農業もままならず特産品もない。若者たちは皆俺のように冒険者になるかあるいは都市へ出稼ぎに行ってしまい老人ばかりが残る寂れた村。
追放された俺が帰る場所としてはおあつらえ向きかもしれない。それにあの村ならば俺の力を試すのに誰にも邪魔されないだろう。
もし俺の力であの不毛の村を豊かにすることができたなら。
それは俺の力が本物であることの何よりの証明になるはずだ。
*
その頃アッシュを追放した勇者パーティー『竜の牙』は祝杯をあげていた。
場所は王都でも屈指の高級酒場。ミノタウロス討伐の成功報酬で彼らは盛大に宴会を開いていた。
「はっはっは! やっぱりアイツがいなくなると気分がいいぜ!」
リーダーのレオンはエールを呷りながら豪快に笑った。ミノタウロスに負わされた脇腹の傷は神官セラの回復魔法と高価なポーションで既に癒えている。
「まったくだ。これで俺たちの本当の実力が示せるってもんですよレオンさん!」
戦士のガイも上機嫌で相槌を打つ。
「本当に清々したわ。あいつがいると空気が澱むもの。支援なんて誰にでもできる単純作業じゃない」
魔術師のリリアはワイングラスを優雅に傾けながら言った。彼女の目にはアッシュへの侮蔑の色がいまだに残っている。
三人が盛り上がる中、神官のセラだけがどこか浮かない顔で手元のジュースを見つめていた。
「……でもアッシュさんこれからどうするんでしょうか。一人では……」
「セラは優しすぎるんだよ」
レオンがセラの言葉を遮った。
「アイツの心配なんかする必要はない。自分のミスのせいで俺を危険に晒したんだ。自業自得だろ。それに俺たちの足を引っ張る奴がいなくなったんだ。これからの『竜の牙』はもっと高く飛べる。そうだろみんな!」
「「おおー!」」
レオンの言葉にガイとリリアが力強く応じる。セラはそれ以上何も言えず俯いてしまった。
彼らは気づいていなかった。
この祝杯が彼らの栄光の頂点でありここから先は長い下り坂しか待っていないということに。
翌日彼らは早速次のダンジョン攻略へと向かった。
以前よりも難易度の低いC級ダンジョン『腐敗した獣道』。ミノタウロスを討伐した自分たちにとってはウォーミングアップにもならないはずだった。
「よし行くぞ! 今日は一日でクリアしてやる!」
レオンの威勢のいい声で四人はダンジョンに足を踏み入れる。
だがすぐに異変に気づいた。
「うおっ!?」
レオンが振るった剣がスライムの粘液に絡め取られ動きが鈍る。いつもなら力任せに引き剥がせるはずなのに妙に腕が重い。
「レオンさんどうしたんですか!?」
「いやなんでもない! 少し調子が……」
些細な違和感。だがそれは確実にパーティーを蝕んでいた。
ガイの盾さばきはいつもより半歩遅れた。その隙を突かれゴブリンの汚れた短剣が腕をかすめる。大した傷ではない。だが以前ならありえないミスだった。
「くそっなんでだ!?」
リリアの魔法にも陰りが見えていた。
「《ファイアボール》!……あれ? 威力がいつもより……?」
放たれた火球はいつもより一回り小さく飛距離も短い。オークの分厚い皮を焼き切るには至らず反撃の棍棒を危ういところで避ける羽目になった。魔力の消費もなぜかいつもより激しい気がする。
「皆さんしっかりしてください! 《ヒール》! 《ヒール》!」
セラの回復魔法だけが唯一いつも通り機能しているように見えた。だが仲間たちのミスの頻度が増えたことで彼女の魔力はどんどん削られていく。
おかしい。何かがおかしい。
メンバー全員がそう感じていた。
まるで体全体に重く薄い膜が張り付いているかのような不快な感覚。動きが鈍い。思考が冴えない。力が湧いてこない。
「……スランプか?」
レオンが苦々しく呟いた。ミノタウロスとの激戦の疲れがまだ残っているのかもしれない。そう思うことにした。
彼らはまだ自分たちの身に何が起きているのか本当の理由を理解していなかった。
彼らが「あって当然の空気」だと思っていたものがどれほど強力でどれほど貴重なものだったのか。
彼らが失ったのは単なる支援術師一人ではない。
パーティー全体の性能を根底から引き上げていた最強のブースターそのものだったのだ。
この日の『竜の牙』はC級ダンジョンの攻略に丸一日を費した挙句ボスにたどり着くことすらできずに撤退を余儀なくされた。
それは輝かしい勇者パーティーの凋落を告げる最初の兆しだった。
*
一方その頃俺は王都を発ち故郷へと向かう街道を歩いていた。
乗り合い馬車を使うこともできたが俺はあえて自分の足で進むことを選んだ。これも自分の能力を試すための訓練の一環だ。
《フィジカルアップ》を常時自分にかけ続ける。疲労を全く感じずその気になれば馬車よりも速く走れた。
《マインドブースト》で周囲の状況を常に把握する。山賊や魔物が潜んでいそうな場所は事前に察知して迂回することができた。
数日後俺は見慣れた景色を目にした。
痩せた土地。まばらに生えた活気のない木々。そして丘の上から見える古びた家々が集まる小さな集落。
俺の故郷コーザ村だ。
村に近づくにつれて胸が締め付けられるような思いがした。
数年ぶりに見る故郷は俺が旅立つ前よりもさらに寂れているように見えた。畑は荒れ家々の壁は剥がれ落ちている。道端で遊ぶ子供の姿もない。
村の入り口で鍬を片手に呆然と畑を眺めている老人がいた。村長のダリオスさんだった。
「……村長?」
俺が声をかけるとダリオスさんはゆっくりとこちらを振り向いた。その顔には深い皺が刻まれ瞳には生気が感じられない。
「おお……お前はアッシュか? アッシュじゃないか!」
俺の顔を認識するとダリオ-スさんの顔がわずかに輝いた。
「ご無沙汰してます村長。ただいま戻りました」
「そうかそうか! 無事だったか! それが何よりだ。しかし……冒険者はどうしたんだ? パーティーは」
ダリオスさんの言葉に俺は一瞬詰まったが正直に話すことにした。
「……追い出されたんです。俺が役立たずだったから」
俺は自嘲気味に笑った。するとダリオスさんは悲しそうに眉を寄せ俺の肩を力なく叩いた。
「そうか……辛かっただろう。だがよく帰ってきた。ここはいつでもお前の家だ」
その言葉に思わず目頭が熱くなる。
追放された俺を無条件で受け入れてくれる場所がまだあったのだ。
「村の様子酷いですね……」
俺は荒れ果てた畑に目をやりながら言った。
「ああ……。日照りが続いたかと思えば長雨が降ったりで、もう何年もまともに作物が育たん。若者たちは皆村を出ていき残った我々年寄りではもうどうすることもできんのだ。この村ももう終わりかもしれん」
ダリオスさんの声は諦めに満ちていた。
俺は彼の絶望的な言葉を聞きながら静かに決意を固めた。
終わりじゃない。ここから始めるんだ。
俺はダリオスさんの前に進み出ると乾ききってひび割れた畑にそっと手をかざした。
「村長。俺少しだけ変わった魔法が使えるようになったんです」
「魔法? お前さん支援術師だったろう?」
「ええ。だからこれは支援魔法です。この土地へのね」
俺は目を閉じ意識を集中させた。
自分にではなくこの広大な土地、この村全体の畑に向けて一つの魔法を詠唱する。
それはパーティーにいた頃には使ったことすらないレベルアップによって最近習得したばかりの魔法だった。
「――《生命の息吹》」
それは《グロース》の上位互換。対象の成長を促進するだけでなく生命力そのものを活性化させ土壌や環境にまで影響を及ぼす広範囲支援魔法。
俺の足元から淡い翠色の光が波紋のように広がっていく。
光は乾いた大地を撫でひび割れた土を潤し枯れかけた作物の芽に触れていった。
それはほんの一瞬の出来事だった。
「……アッシュ? 今何か……」
ダリオスさんが怪訝な顔で俺を見る。
見た目には大きな変化はない。ただ空気が少しだけ澄んだような気がした。
俺はにっこりと笑って言った。
「見ていてください。きっとこの村は変わりますから」
その言葉がただの若者の戯言でないことを村人たちが知ることになるのは翌朝のことだった。
一夜にして荒れ果てていた畑一面に青々とした若葉が芽吹き枯れかけていた苗が天に向かって力強く伸びていたのだ。
それはコーザ村の歴史上誰も見たことのない奇跡の光景だった。
俺の本当の人生がそして世界の運命がこの寂れた辺境の村から静かに動き始めた。