第十二話:神託の帰還と新たな灯火
俺が南海航路への出航を予言してから、およそ一ヶ月が経過した。ランガの街は、表面上は普段通りの活気に満ちていたが、水面下では黄金の天秤ギルドと他の競合ギルドとの間で、熾烈な情報戦が繰り広げられていた。バルドがギルドの命運を賭けて未知の航路に船団を送り出したという噂は、瞬く間に広まっていたからだ。
多くの者は、バルドの無謀な賭けを嘲笑した。魔の海域と海賊の巣窟。その二つの難所を同時に越えることなど不可能だと。黄金の天秤の凋落も近い。そう囁く者も少なくなかった。
だが、俺には確信があった。そして、俺を信じると決めたバルドもまた、泰然自若と構えていた。
その日、ランガの港の見張り台にいた兵士が、甲高い声で叫んだ。
「船影だ! ギルドの船団が、南の海から帰還したぞ!」
その一報は、ランガの街を震撼させた。
ありえない。あの魔の海域から、一隻の脱落もなく、あれほど短期間で帰還するなど。人々は信じられない思いで港へと殺到した。
やがて港に姿を現した船団の様子を見て、人々はさらに驚愕することになる。船は嵐に遭ったような損傷もなく、船員たちの顔にも疲労の色はない。それどころか、彼らの顔は、未知の発見に対する興奮と喜びに満ち溢れていた。
そして、彼らが船から降ろし始めた積荷を見て、群衆は息を呑んだ。
見たこともない美しい鳥の羽根。虹色に輝く巨大な貝殻。人の背丈ほどもある巨大な果実。そして、嗅いだことのない、甘く、そして刺激的な香りを放つ、未知の香辛料や木材。
それらは全て、南の大陸にしか存在しない、幻の資源だった。
船団の船長は、港で出迎えたバルドの前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「ギルドマスター! ご報告いたします! 神託の通り、我々の航海は完璧なものでした!」
彼は、興奮した様子で航海の様子を語り始めた。
「出航した夜、予言通りに海は濃い霧に覆われました。海賊『黒渦団』の縄張りを通過した際には、すぐ近くに奴らの船影が見えたにも関わらず、彼らは我々に全く気づきませんでした。まるで、神の御手が見えざる壁となって、我々を守ってくれたかのようでした」
「魔の海域では、これも予言通りに、強力な追い風が吹き続けました。嵐も高波も一切なく、船はまるで滑るように、海の上を進んでいきました。通常なら一ヶ月はかかるはずの海域を、我々はわずか一週間で突破することができたのです」
「そして、たどり着いた南の大陸は、まさに宝の島でした。ここに運び込んだのは、そのほんの一部に過ぎません。あの島には、まだ計り知れないほどの富が眠っています」
船長の報告を聞き終えた群衆は、地鳴りのような歓声に包まれた。黄金の天秤ギルドの歴史的な快挙。そして、それを成し遂げたギルドマスター・バルドへの賞賛。
だが、バルド自身は、群衆の声など聞こえていないかのように、ただ一点、ギルド本部の方向をじっと見つめていた。彼の脳裏には、あの穏やかな青年の顔が浮かんでいた。
(神託……か。いや、違う。あれは、神などではない。それ以上の、何かだ……)
バルドは、アッシュという存在に対する畏敬の念を、そして同時に得体の知れない恐怖を、改めて感じていた。
その夜、俺はバルドの執務室に招かれた。
彼は、いつものような威圧的な態度ではなく、どこか敬虔な信徒のような目で俺を迎えた。
「アッシュ殿……君には、何と礼を言えばいいのか……」
彼は、執務机の上に、ずしりと重そうな木箱を二つ置いた。
一つ目の箱を開けると、中には目もくらむほどの金貨が、隙間なく詰め込まれていた。
「これは、今回の航海で得た利益の一部だ。君への報酬だ。遠慮なく受け取ってくれたまえ。君の功績に比べれば、はした金に過ぎんがな」
その額は、俺がコーザ村の産物を売って得た利益の、さらに数十倍はあろうかというものだった。これだけの金があれば、コーザ村を要塞都市に改造することすら可能だろう。
俺は、黙ってそれを受け取った。
次に、バルドは二つ目の箱を開けた。中に入っていたのは、一本の鍵と、羊皮紙の権利書だった。
「これは、ランガの第一区画にある屋敷の権利書だ。街で最も見晴らしの良い、貴族街の一等地にある。今日から、そこが君の家だ」
「屋敷、ですか?」
「そうだ。君のような人物を、いつまでも宿屋に置いておくわけにはいかん。それに……」
バルドは、少しだけ言いよどんだ。
「君という存在を、このランガに繋ぎとめておきたい。これは、俺個人の我儘だと思ってくれていい」
それは、単なる報酬ではなかった。俺という存在を、黄金の天秤ギルドが、いや、彼自身が独占したいという、強い意志の表れだった。
俺は、その申し出も受け入れることにした。ランガに本格的な拠点を構えることは、俺の計画にとっても都合が良かった。
「ありがとうございます、バルドさん。ありがたく、使わせていただきます」
「礼を言うのは、こちらの方だ」
バルドは、深く息を吐いた。
「アッシュ殿。今日から君は、このギルドの、いや、このランガの宝だ。君の望むものは、何でも用意しよう。だから、これからも、我々に君の『知恵』を貸してほしい」
俺は、静かに頷いた。
こうして、俺はランガにおける絶対的な地位と、莫大な富を手に入れた。追放された支援術師が、この巨大な商業都市の裏側の支配者として、完全に認知された瞬間だった。
翌日、俺たちは、バルドから譲り受けた屋敷へと移り住んだ。
それは、屋敷というより、城と呼ぶべき壮麗な建物だった。高い塀に囲まれ、手入れの行き届いた庭園があり、何十もの部屋があった。
「す、すげえ……。俺、こんな場所に住んでいいのか……?」
ピートが、口をあんぐりと開けて、大理石の玄関ホールを見上げている。
「アッシュ様は、もはや王様だな……」
リョウとケンも、ただただ圧倒されていた。
俺たちは、それぞれに広すぎるほどの個室を与えられ、専属の使用人までつけられた。コーザ村から出てきて、まだ数ヶ月。あまりの環境の変化に、仲間たちは戸惑いを隠せないようだった。
だが、一人だけ、この状況に全く動じない人物がいた。エリアナだ。
彼女は、屋敷に到着するやい否や、最も日当たりの良い、一番大きな部屋を指さした。
「アッシュ様。この部屋を、私の新しい研究室として使わせていただきます。よろしいですね?」
彼女の目は、すでに新しい研究計画で爛々と輝いていた。
「ああ、好きに使ってくれ」
俺が許可すると、彼女はすぐに使用人たちに指示を出し、巨大な本棚や実験台を運び込ませ始めた。その行動力には、俺も感心するしかなかった。
俺は、この屋敷を、単なる住居として使うつもりはなかった。ここは、俺の計画の新たな司令塔となる。コーザ村とランガ、そして黒鉄鉱山を結ぶ情報網の中継地点。そして、これからさらに広がるであろう、俺の支配領域を統括する、中枢拠点だ。
仲間たちを集めた俺は、改めて今後の計画を話した。
「俺たちは、この『コーザの館』を拠点に、さらなる事業を展開する。ピートには、新しい工房を。リョウとケンには、最新の武具と訓練場を用意しよう。エリアナの研究も、全面的にバックアップする。そして、コーザ村を、世界一豊かな村にする。それが、俺たちの当面の目標だ」
俺の言葉に、仲間たちの顔が引き締まった。彼らは、自分たちが、今、歴史の大きな転換点に立っていることを、肌で感じていた。
ランガでの俺の物語は、新たな章へと突入したのだ。
その頃、ランガからほど近い森の中では、小さな、しかし懸命な灯火が、消えかかろうとしていた。
新米冒険者パーティー「灯火の団」。リーダーで剣士の少女ミリア、力自慢の戦士ゴードン、気弱な魔法使いティナの三人組だ。
彼らは、冒険者として成功することを夢見て田舎から出てきたが、現実は厳しかった。才能も金もなく、受けられる依頼は、ゴブリン討伐のような、駆け出し向けの仕事ばかり。それでも、彼らは仲が良く、お互いを励まし合いながら、なんとか日々の糧を得ていた。
その日も、彼らはゴブリンの巣の討伐依頼を受けていた。
「ゴードン、右から来る! ティナ、援護を!」
ミリアが、錆びついたロングソードを構えながら叫ぶ。彼女の剣技は未熟だったが、その瞳には仲間を守るという強い意志が宿っていた。
「おうさ!」
ゴードンが、使い古された手斧を振り回し、ゴブリンを薙ぎ払う。だが、彼の動きは大振りで、隙だらけだった。
「は、はい! 《ファイア・アロー》!」
ティナが、震える声で魔法を放つ。小さな火の矢が、ゴブリンの一匹の肩を焦がしたが、致命傷には程遠い。
彼らは、三匹のゴブリン相手にすら、苦戦を強いられていた。装備はボロボロで、連携もぎこちない。それでも、彼らは必死にお互いをかばい合った。ゴードンが攻撃を受ければミリアが前に出て、ミリアが危なくなればティナが魔法で牽制する。
彼らの戦いは、俺がいた『竜の牙』とは、まさに対極にあるものだった。あちらは、個々の実力はあっても、仲間を信頼せず、自己中心的だった。こちらは、実力はないが、仲間を思う心だけは、誰にも負けていなかった。
だが、現実は非情だ。
「ミリア、まずい! 奥から、仲間を呼ばれたみたいだ!」
ゴードンの焦った声が響く。洞窟の奥から、十数匹のゴブリンが、甲高い奇声を上げながら姿を現したのだ。
「そ、そんな……」
ティナの顔が、絶望に青ざめる。
多勢に無勢。もはや、どうすることもできない。三人は、背中合わせになり、じりじりと洞窟の奥へと追い詰められていった。
「ここまで、か……」
ゴードンが、悔しそうに呟く。
「ごめん、二人とも……。私が、リーダー失格だったから……」
ミリアの目から、涙がこぼれ落ちた。
三人が、死を覚悟した、その瞬間だった。
たまたま、俺は馬に乗り、この森の近くの街道を視察に訪れていた。新しく整備された輸送路の安全確認のためだ。
その時、俺の《マインドブースト》が、近くの洞窟から漏れ出る、複数の魔力の反応を捉えた。一つは、ひどく弱々しい人間のもの。そしてもう一つは、多数のゴブリンのものだ。
(……冒険者が、しくじったか)
俺は、最初は見過ごそうと思った。冒険者の世界の自己責任だ。だが、ほんの気まぐれだった。最近、自分の力が世界に与える影響が、あまりにマクロなものばかりだった。たまには、もっとミクロな、個人的な介入をしてみるのも、面白いかもしれない。
俺は馬を止めると、洞窟の方向に意識を集中させた。
洞窟の中の様子が、手に取るように分かる。追い詰められた三人の冒険者。彼らの絶望が、ひしひしと伝わってくる。
俺は、ほんの少しだけ、彼らに力を分けてやることにした。
《フィジカルアップ》《マインドブースト》《クイック》
俺の魔力のごく一部を使った、ごくごく微弱な支援魔法。だが、一般人にとっては、それは神の祝福にも等しい効果をもたらす。
ミリアは、死を覚悟し、目を閉じた。だが、訪れるはずの衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。
彼女が恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
「おおおおおっ!」
戦士のゴードンが、雄叫びを上げていた。彼の振るう手斧が、まるで雷光のようにゴブリンの群れを薙ぎ払い、その一撃は、ゴブリンだけでなく、背後の岩壁すらも粉々に砕いていた。
「な、なにこれ!? 魔法の威力が、いつもと全然違う!」
魔法使いのティナも、驚愕の声を上げていた。彼女が放つ《ファイア・アロー》は、もはや矢ではなく、灼熱の槍となってゴブリンたちを貫いていた。
そして、ミリア自身も、自分の体に起きている変化に気づいた。
体が、羽のように軽い。力が、体の奥底から無限に湧き上がってくる。頭は、氷のように冴えわたり、敵の動きが、まるで止まっているかのように、はっきりと見えた。
「……いける!」
彼女は、無意識のうちに叫んでいた。
彼女の振るう剣は、もはやただの鉄の棒ではなかった。それは閃光となり、ゴブリンたちの間を駆け巡り、正確にその命を刈り取っていった。
ほんの数分前まで絶体絶命だった状況が、嘘のようだった。三人は、まるで伝説の勇者パーティーのように、ゴブリンの群れを一方的に、そして完璧に殲滅してしまったのだ。
静寂が戻った洞窟の中で、三人は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……やったのか? 俺たちが……?」
ゴードンが、信じられないといった様子で自分の手を見つめている。
「神様が、私たちを助けてくれたんだわ! きっと、日頃の行いが良かったのよ!」
ティナが、涙ながらに天に祈りを捧げている。
だが、ミリアだけは、違った。
彼女は、まだ自分の体に残る、力の奔流の余韻を感じながら、考えていた。
(神様……? 本当に、そうだろうか……)
今の力は、あまりに人為的すぎた。まるで、誰かが、自分たちの能力を、最も効率的な形で、一時的に引き上げてくれたかのようだった。それは、祝福というより、もっと計算され尽くした、高度な「支援」のように感じられた。
(今の力は、一体、どこから……?)
彼女の心に、小さな、しかし消えることのない疑問の種が蒔かれた。
その疑問が、やがて彼女を、この奇跡の本当の主に引き合わせることになるとは、まだ誰も知らない。
俺は、洞窟での騒ぎが収まったのを確認すると、静かにその場を後にした。
今日の気まぐれが、俺の物語に、新たな登場人物を招き入れることになる。それは、俺自身ですら、まだ予測できていない未来だった。




