表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/28

第十一話:見えざる支配と崩壊の序曲

若き天才技師エリアナが、俺の協力者となってから一ヶ月が過ぎた。ランガの宿屋の一室は、今や彼女専用の研究室兼工房と化していた。壁には巨大な地図や複雑な数式が書かれた羊皮紙がびっしりと貼られ、テーブルの上には鉱石のサンプルや植物の標本、そして彼女が独自に設計した観測機器の図面などが散乱している。

彼女は、俺という存在、そして俺の使う魔法という、この世で最も非合理的な現象を、どうにかして合理的に解明しようと、寝食も忘れて研究に没頭していた。

「アッシュ様。先週、コーザ村のB-3区画の畑にかけられた《生命の息吹》についてですが、エネルギー放射量と効果範囲の算出にある程度の法則性が見えてきました」

エリアナは、隈のできた目の下に興奮の光を宿らせながら、分厚いレポートを俺の前に差し出した。

「あなたの魔法は、おそらく対象のポテンシャル、つまり土壌の栄養素や作物の遺伝情報に応じて、効果が最適化されているようです。いわば、対象が最も求めるエネルギーを、最も効率的な形で供給する、極めて高度な指向性エネルギー……。こんな魔法、聞いたことがありません」

彼女は、俺の魔法を独自の理論で解釈し、体系化しようと試みていた。それは、俺自身ですら考えたことのないアプローチだった。

俺は感覚的に「この土地に、このくらいの力で、この魔法を」と念じるだけだ。だが彼女は、その「このくらい」という曖昧な感覚を、必死に数値化しようとしていた。

「今日の午後、コーザ村のD-5区画に、再度同じ魔法をかけていただけますか。ただし、今回は意識的にエネルギー放射量を、前回の80パーセントに抑制していただきたい。効果の差異を比較測定することで、さらに詳細なデータが取れるはずです」

「分かった。やってみよう」

俺は彼女の指示に従い、遠く離れたコーザ村の特定の区画に意識を集中させる。そして、魔法の出力を、自分で意識して調整する。それは俺にとっても新しい試みだった。

エリアナは、俺が魔法を発動させた瞬間の、部屋の魔力密度の微細な変化を、彼女が開発した魔力測定器で観測し、記録していく。

俺の直感的な「奇跡」と、彼女の論理的な「分析」。この二人三脚は、コーザ村の生産性を、さらに異常なレベルへと引き上げていた。

エリアナが作成したマニュアルは、すぐにコーザ村へ送られた。そこには、どの作物をどのタイミングで収穫し、次に何を植えるべきか、土壌を休ませる最適なサイクルはどれくらいか、といったことが、アッシュの魔法の効果を前提として、緻密に計算され尽くされていた。

村人たちは、最初は戸惑いながらも、そのマニュアルに従った。結果、村の生産性は、以前の熱狂的なだけの時期よりも、さらに安定し、かつ向上した。無駄がなくなったのだ。

エリアナは、奇跡を日常へと落とし込む「翻訳者」としての役割を、完璧に果たしていた。彼女の存在は、俺の力をより確実で、そして強力なものへと変えていった。


俺の介入は、もはや生産現場だけにとどまらなかった。俺は、黄金の天秤ギルドの心臓部とも言える、物流網にまで、その見えざる手を伸ばし始めていた。

バルドとの契約に基づき、コーザ村とランガを結ぶ輸送ルートは、ギルドの公式ルートとして確立された。だが、他の多くの交易路は、いまだに盗賊の襲撃や過酷な自然環境といったリスクに晒されている。

俺は、ランガの宿屋にいながらにして、ギルドが所有する全ての交易路の地図を広げ、その日の天候や治安状況といった情報を、リアルタイムで把握していた。そして、問題が発生しそうなルートを特定すると、遠隔で支援魔法をかけた。

その効果は、現場の者たちにとっては、まさに「幸運の女神の気まぐれ」としか思えない形で現れた。


黄金の天秤ギルドに所属するベテランのキャラバン隊長、ボルコフは、ここ最近の旅のあまりのスムーズさに、首を傾げずにはいられなかった。

彼は、この道三十年の大ベテランだ。どの街道のどの辺りに盗賊のアジトがあり、どの峠が天候が荒れやすいか、知り尽くしている。彼の経験と勘は、これまで何度もキャラバンを危機から救ってきた。

だが、この一ヶ月、その経験が全く役に立たなくなっていた。いや、危機そのものが、まるで存在しないかのように消え去っていたのだ。

例えば、先週の旅。彼らは、ランガから北方の都市へ、高価な織物を運んでいた。途中には、必ず大規模な盗賊団「赤髭団」が現れることで有名な「人食い沼」と呼ばれる湿地帯がある。いつもなら、腕利きの傭兵を何十人も雇い、何日もかけて慎重に突破する、最も危険なルートだ。

しかし、その日に限って、沼地には深い霧が立ち込めていた。視界は数メートル先も見えないほどだった。ボルコフは野営して霧が晴れるのを待つべきだと判断した。だが、なぜか彼の頭の中に「進め」という強い衝動が湧き上がってきたのだ。まるで、誰かに囁かれているかのように。

彼は、自分の勘とは違うその衝動に、半信半疑のまま従った。そして、キャラバンは霧の中を、ゆっくりと進み始めた。

不思議なことに、あれほどぬかるんでいたはずの道は、なぜか硬く締まっており、荷馬車の車輪が沈むことはなかった。そして、濃い霧のおかげで、彼らは一度も赤髭団に遭遇することなく、いつもなら三日はかかるはずの湿地帯を、たった一日で踏破してしまったのだ。

後から聞いた話では、彼らが通過した直後に、赤髭団が大規模な襲撃の準備をしていたという。まさに、間一髪だった。

また、ある時は、山岳地帯で大規模な雪崩が発生するという予報があった。他のキャラバンが全て麓で足止めを食らう中、ボルコフの隊だけは、なぜか無性に「この谷間なら安全だ」という確信に満たされ、ルートを変更した。結果、彼の隊だけが雪崩の被害を免れ、予定通りに商品を届けることができた。

こんなことが、何度も、何度も続いた。

キャラバンの隊員たちの間では、いつしかこんな噂が囁かれるようになった。

「俺たちの隊には、幸運の女神様がついているに違いねえ」

「ああ、ギルドマスターが、どこかの神殿に莫大な寄付でもしたんじゃねえか?」

彼らは、その「幸運の女神」が、遠く離れたランガの宿屋の一室で、地図を眺めながら静かに魔法をかけている一人の青年だとは、夢にも思っていなかった。

俺は、彼らに《クイック》をかけて移動速度を上げ、《フォーカス》をかけて危険察知能力を高め、時には《フォッグ》のような初歩的な幻惑魔法で、盗賊の目をくらませていた。

俺の力は、生産だけでなく、物流という経済の血脈すらも、裏側から完全に支配し始めていたのだ。


この奇跡的な輸送効率の向上は、当然、ギルドマスター・バルドの耳にも入っていた。

彼は、執務室で俺と向かい合いながら、もはや畏敬の念を隠そうともしなかった。

「アッシュ殿……君は、一体どこまで我々を驚かせれば気が済むのだ」

彼の前には、ギルドの利益が過去最高を更新し続けていることを示す報告書が、山のように積まれている。黒鉄鉱山の成功、コーザ村の特産品の爆発的な売れ行き、そして、この異常なまでの輸送効率の改善。その全てが、目の前の青年が関わってから起きたことだった。

「もはや、君をただのアドバイザーとして扱うわけにはいかんな。君は、このギルドの『守り神』だ」

バルドは、そう言って豪快に笑った。彼の俺への信頼は、もはや絶対的なものとなっていた。彼は、ギルドの経営に関わる、あらゆる重要案件を俺に相談するようになった。

その日、彼が持ちかけてきたのは、ギルドの長年の懸案事項だった。

「南海航路の開拓について、君の意見が聞きたい」

彼は、巨大な海図を広げた。

「南の大陸には、まだ我々が知らない豊かな資源が眠っている。この航路を開拓できれば、ギルドの富はさらに倍増するだろう。だが、この航路には二つの大きな問題がある。一つは、悪名高い海賊『黒渦団』の存在。そしてもう一つは、『魔の海域』と呼ばれる、天候が極めて不安定な海域だ。これまで、何隻もの船が、この海域で消息を絶っている」

バルドの顔には、珍しく弱気な色が浮かんでいた。それほど、この航路の開拓は困難を極めていたのだ。

俺は、その海図と、過去数年間の気象データを一瞥した。そして、即座に結論を導き出した。

「バルドさん。三日後の満月の夜に、船を出してください」

「三日後? 何か根拠があるのかね」

「ええ。その夜、魔の海域には、特殊な海流と追い風が発生します。船は、帆を張るだけで、通常より三倍の速度で安全な海域まで到達できるでしょう。さらに、黒渦団が出没する海域は、濃い霧に覆われます。彼らは、あなた方の船に気づくことすらできません」

それは、予言だった。俺の《マインドブースト》が、膨大なデータから導き出した、寸分の狂いもない未来予測。

バルドは、もはや俺の言葉を一切疑わなかった。

「……分かった。君の予言に、このギルドの未来を賭けよう。すぐに船の準備をさせる」

彼は、俺という存在に、完全に依存しきっていた。それでいい。彼が俺に依存すればするほど、俺の世界への影響力は、より強固なものになる。


俺が、世界の経済を裏側から動かし、新たなステージへと進んでいた頃。

王都の片隅では、かつての勇者たちが、人間としての尊厳すら失いかけていた。


『竜の牙』は、完全に社会から見捨てられていた。ギルドからの依頼は途絶え、日雇いの仕事もなく、彼らは飢餓の縁をさまよっていた。

隠れ家としていた廃墟は、もはや仲間と暮らす場所ではなく、互いの獲物を奪い合う、獣の巣窟と化していた。

その日、事件は起きた。

戦士のガイが、どこからか手に入れてきた干し肉を、こっそりと一人で食べようとしていたのだ。それを、魔術師のリリアが見つけた。

「あなた! 何を一人で食べてるのよ!」

リリアの甲高い声が、廃墟に響き渡る。

「う、うるせえ! これは俺が見つけたもんだ! お前らには関係ねえ!」

ガイは、慌てて干し肉を口に押し込んだ。

「何ですって! 私たちを出し抜くなんて、汚いわ!」

「汚いのはてめえの方だろうが! いつも自分だけ楽をしようとしやがって!」

醜い口論に、寝ていたレオンが目を覚ました。

「何をごちゃごちゃ騒いでやがる……」

飢えと絶望で、彼の精神はすり減りきっていた。かつての勇者の面影はない。

「ガイが! 私たちの食料を独り占めしようとしてるのよ!」

リリアが、レオンに泣きつく。

「てめえ、ガイ……!」

レオンが、怒りに顔を歪めてガイに詰め寄った。

その瞬間、ガイの中で、何かがぷつりと切れた。

「もうたくさんだ!」

彼は、叫んだ。その声は、絶望と怒りに満ちていた。

「俺はもう、こんな生活はごめんだ! 勇者だかなんだか知らねえが、てめえらといるとロクなことがねえ! 俺は、このパーティーを抜ける!」

「なんだと……! 裏切るのか、ガイ!」

レオンが、ガイの胸ぐらを掴み、殴りかかった。だが、飢えきった彼の拳には、何の力もこもっていない。

ガイは、その頼りない拳を払いのけると、逆にレオンを力強く突き飛ばした。

ドサッという鈍い音を立てて、レオンが地面に倒れ込む。

「うるせえ! てめえこそ、いつまでリーダー気取りなんだ! お前のせいで、俺たちはこうなったんじゃねえか!」

ガイは、倒れたレオンを見下ろし、憎しみを込めて吐き捨てた。

「俺は、一人で生きる! お前らも、勝手にここで飢え死にしろ!」

彼はそう言い残すと、一度も振り返ることなく、廃墟から走り去っていった。

残された三人は、呆然と、その背中が見えなくなるまで見送ることしかできなかった。


最もレオンに忠実で、パーティーの盾役だったガイの脱落。

それは、『竜の牙』というパーティーの、物理的な崩壊の始まりを告げる号砲だった。

「いやあああ! ガイまでいなくなっちゃった! もう終わりよ、私たち!」

リリアが、地面に突っ伏して、ヒステリックに泣き叫び始めた。

レオンは、地面に転がったまま、無力感に打ちひしがれ、ただコンクリートの床を拳で何度も、何度も殴りつけていた。

セラは、その光景を、冷たい瞳で見つめていた。涙は、もう出なかった。

崩れ落ちていく仲間たち。失われた絆。

彼女の頭の中を、一つの冷徹な思考が支配していた。

(次は、誰の番だろうか)

信頼は、もうどこにもない。そこにあるのは、いつ裏切られるかという、疑心暗鬼の闇だけだった。

崩壊の序曲は、今、始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ