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第十話:黒鉄の奇跡と探求者の瞳

俺が商業都市ランガで、世界の経済を動かすための第一歩を踏み出していた頃。遠く離れた北西の山脈地帯では、もう一つの、そしてより根源的な奇跡が静かに始まろうとしていた。

黒鉄鉱山。かつては良質な鉄鉱石を産出し、ランガの発展を支えたその鉱山も、今は見る影もなかった。長年の採掘によって鉱脈は枯渇し、残ったのは質の悪い屑鉄と、閉山の噂に怯える鉱夫たちの深い溜息だけ。空気は重く、希望という言葉は遥か昔に忘れ去られていた。

鉱夫たちは、惰性でつるはしを振るっていた。どうせ今日も大した鉱石は出ない。日当分の仕事さえこなせば、それでいい。そんな諦観が、鉱山全体を支配していた。彼らの目には光がなく、その顔はすすと絶望で黒く汚れていた。

この日も、いつもと同じ一日になるはずだった。


変化は、ある朝、本当に些細なきっかけで始まった。

ベテラン鉱夫のダグは、その日もため息をつきながら古い坑道に入った。もう何年も前に掘り尽くされたと思われている場所だ。だが、新しい坑道を掘る気力もなく、彼はただノルマをこなすために、硬い岩盤に気だるくつるはしを打ち付けていた。

キン、という硬い音が響くだけ。いつもと同じだ。そう思った瞬間だった。

ガツン、という今までとは違う手応えがあった。つるはしが、まるで熟した果実に食い込むかのように、岩盤の奥深くへと吸い込まれたのだ。

「なっ……!?」

ダグは驚いてつるはしを引き抜いた。すると、そこには信じられない光景が広がっていた。岩盤の断面に、黒々とした金属質の光沢が、まるで血管のように走っている。それは、極めて純度の高い鉄鉱石の鉱脈だった。

「うそだろ……。こ、こんな場所に、まだ鉱脈が残ってたなんて……」

彼の声は震えていた。この場所は、彼自身が十年前に「掘り尽くした」と判断した場所だったのだ。

ダグの発見は、瞬く間に鉱山中に知れ渡った。最初は誰もが信じなかった。だが、次々と奇跡は連鎖し始めた。

「おい! こっちでも見つかったぞ! しかも、とんでもない量の鉱脈だ!」

「俺の掘ってた場所もだ! 昨日までただの岩だったのに、今日は宝の山だぜ!」

鉱山の至る所で、枯渇したはずの鉱脈が次々と「再発見」されたのだ。それはまるで、死んだ山が、一夜にして再び脈動を始めたかのようだった。

鉱夫たちの目に、何年かぶりに光が戻った。彼らは歓声を上げ、互いの肩を叩き合い、夢中でつるはしを振るった。

そして彼らは、もう一つの異変にも気づき始めた。

「あれ……? なんだか体が軽いぞ」

「本当だ。いつもなら半日でへばるのに、今日は全然疲れねえ」

「そういえば、ここ数日、落盤事故も怪我人も一人も出てないな……」

彼らの肉体には、なぜか活力がみなぎっていた。疲労は軽減され、集中力は研ぎ澄まされ、作業効率は爆発的に向上した。今までなら二人掛かりで動かしていたトロッコを、一人で軽々と押せるようになっていた。

鉱夫たちは、この超常的な現象を、素朴な信仰心で解釈した。

「山の神様が、ついに目覚めなさったんだ……」

「俺たちの働きを見て、恵みを与えてくださったんだ!」

絶望の底にあった黒鉄鉱山は、突如として熱狂的な信仰と活気に満ちた奇跡の現場へと変貌を遂げた。彼らは、この奇跡の本当の源が、遠く離れた商業都市にいる一人の若者の、静かな魔法によるものだとは、知る由もなかった。


この不可解な奇跡を、ただ一人、信仰や偶然では片付けられない人間がいた。

黄金の天秤ギルドから、この鉱山の管理責任者として派遣されていた若き女性技師、エリアナ。

彼女は、王国でも数少ない工学と地質学の専門家だった。まだ二十代前半と若いが、その頭脳は誰よりも明晰で、何事も理論とデータで割り出す、徹底的な合理主義者だった。魔法の存在は認めつつも、それはあくまで物理法則の延長線上にあるエネルギーの一形態だと考えており、「神の奇跡」などという非科学的な概念を心の底から軽蔑していた。

だからこそ、彼女はこの黒鉄鉱山で起きている現象に、深い困惑と、そして専門家としての強い危機感を覚えていた。

彼女の執務室のテーブルには、膨大な資料が広げられていた。

地質調査データ、過去十年間の産出量推移、鉱石の成分分析結果、労働災害の発生率、鉱夫たちの健康データ。

その全てが、「ありえない」と叫んでいた。

「……説明がつかない」

エリアナは、整った眉をひそめ、頭をかきむしった。

地質データによれば、新たな鉱脈が発見された地層は、本来なら鉱石が存在するはずのない火成岩の層だった。産出量のグラフは、垂直の壁のように急上昇している。鉱石の成分を分析すれば、鉄以外の不純物が、なぜか以前の百分の一以下にまで減少していた。

極めつけは、労働データだ。あれほど過酷な労働環境にも関わらず、負傷者はゼロ。それどころか、鉱夫たちの平均的な筋力や持久力が、この数週間で二倍近くに向上しているという、医学的にありえない報告まで上がってきていた。

「これは、自然現象じゃない。何者かによる、極めて高度な人為的介入……」

だが、どんな技術を使えばこんなことが可能なのか。錬金術か? いや、これほど大規模な物質変換は、伝説級の錬金術師でも不可能だ。古代の魔法か? だが、これほど広範囲に、永続的な効果をもたらす魔法など、文献のどこにも記されていない。

エリアナは、この不可解な現象の裏に存在する「未知の要因X」の存在を確信した。そして、この謎を解明しなければ、技術者としての自分のプライドが許さなかった。彼女は、この奇跡の正体を暴くため、調査を開始した。


黒鉄鉱山からの奇跡的な報告は、ランガのギルド本部にも届いていた。

バルドの執務室。彼は、鉱山から送られてきた最新の産出量報告書を手に、わなわなと震えていた。それは、恐怖と興奮が入り混じった震えだった。

「……予測の、さらに倍だと……?」

彼がアッシュに全権を委任した時、心のどこかでは失敗する可能性も覚悟していた。だが、結果は彼の最も楽観的な予測すら、遥かに上回っていた。鉄鉱石の価格は、アッシュの予言通り高騰を始めており、この莫大な産出量は、ギルドに天文学的な利益をもたらすことが確定していた。

「あの小僧……一体何者なのだ……。預言者か、あるいは神の使いか……」

バルドは、アッシュという存在に対する認識を、完全に改めざるを得なかった。彼はもはや、単なる頭の切れる若者ではない。世界の理すら捻じ曲げる、人知を超えた何かだ。

彼は、アッシュの存在をギルドの最高機密事項とすることを即座に決定した。彼の力が外部に漏れれば、ギルドだけでなく、王国、いや大陸全体のパワーバランスを揺るがしかねない。アッシュは、黄金の天秤ギルドが独占すべき、最強の切り札だった。

そんな時、バルドの元に、エリアナからの報告書が届いた。

『原因不明の異常事態発生。産出量増加は、既知のいかなる理論でも説明不可能。背後に、未知の超常的な力の介入を強く推奨。調査の許可を求む』

バルドはその報告書を読み、静かに笑みを浮かべた。

「ふん。あの小娘、気づきおったか」

彼はエリアナの有能さを高く評価していた。彼女がこの奇跡に疑問を抱くのは当然のことだった。

バルドは、エリアナに返信を送った。

『調査を許可する。この件の総責任者は、ランガに滞在中のアッシュという名の若者だ。彼と接触し、指示を仰げ。そして、彼の言うことには、何があっても絶対服従せよ』

彼は、二つの知性をぶつけてみることにしたのだ。合理主義者の天才技師と、超常的な力を持つ謎の預言者。彼らが出会った時、一体どんな化学反応が起きるのか。バルドは、商人としての好奇心を抑えることができなかった。


エリアナは、バルドからの指令を受け取ると、すぐさまランガへ向かう準備を始めた。

全ての奇跡の源流にいるという、「アッシュ」という人物。ギルドマスターが絶対服従を命じるほどのその男は、一体何者なのか。

彼女は、自分がこれから足を踏み入れようとしているのが、科学や理論では割り切れない、世界の深淵であることを予感していた。だが、彼女の心にあったのは、恐怖よりも、真実を追い求める探求者としての強い衝動だった。

ランガに到着したエリアナは、ギルド本部を通じて、アッシュとの面会を取り付けた。指定されたのは、アッシュが滞在しているという宿屋の一室だった。

部屋のドアをノックすると、中から「どうぞ」という静かな声がした。

彼女が部屋に入ると、そこにいたのは、想像していたような威圧的な魔法使いや、百戦錬磨の傭兵ではなかった。まだ少年と言ってもいいほどの、穏やかな顔つきの若者だった。

だが、彼の後ろに控える二人の護衛のリョウとケンから発せられる尋常ならざる気配と、部屋の隅で荷馬車の設計図を熱心に眺めているピートの異様な集中力。そして何より、穏やかに微笑んでいるはずのアッシュの瞳の奥に宿る、底知れない深淵。エリアナは、彼がただ者ではないことを瞬時に悟った。

「あなたが、技師のエリアナさんですね。お待ちしていました」

アッシュは、彼女が名乗る前に言った。

エリアナは動揺を押し殺し、彼の前に座った。彼女は、回りくどい挨拶は抜きにして、単刀直入に本題を切り出した。

「お伺いします、アッシュ殿。黒鉄鉱山で、あなたは何をしたのですか?」

彼女の瞳は、真実だけを求める強い光を宿していた。

「あの鉱山で起きている現象は、私が知る全ての物理法則、地質学、そして魔法工学の理論をもってしても、説明がつきません。産出量、鉱石の純度、労働者の身体能力の向上……全てが異常です。合理的に、説明してください」


アッシュは、エリアナの挑戦的なまでの問いかけに、静かな笑みを浮かべた。彼は、この若く聡明な女性技師が、いずれ自分を訪ねてくることを予測していた。そして、彼女が自分の計画にとって、重要な駒になりうることも。

「合理的、ですか。面白いことを言いますね、エリアナさん」

アッシュは、テーブルに置かれた水差しから、グラスに水を注いだ。

「では、あなたに一つ質問です。もし、土壌に含まれる特定元素の原子配列を、外部からのエネルギーで任意に組み替える技術があったとしたら?」

「……は? 原子配列の組み替え? それは、神の領域です。人間には不可能な……」

エリアナは、アッシュが何を言っているのか理解できず、眉をひそめた。

アッシュは構わずに続けた。

「では、もう一つ。もし、人間の細胞内にあるミトコンドリアの活動効率を、対象の生体エネルギーに直接干渉して、数百パーセント単位で引き上げる方法があったとしたら?」

その言葉に、エリアナははっと息を呑んだ。

ミトコンドリアの活性化。それは、人体のエネルギー生産効率の飛躍的な向上を意味する。疲労回復の促進、筋力や持久力の増強。鉱夫たちに起きていた身体的な変化を、理論上は説明できる仮説だった。

そして、原子配列の組み替え。それは、ただの岩石を、純度の高い鉄鉱石へと変成させることも可能にする、まさに神の御業。

「……まさか」

エリアナは、震える声で言った。

「あなたが言っていることは、SF小説の中の話です。そんなことが、本当に……?」

「俺がやった、とは言っていませんよ」

アッシュは悪戯っぽく笑った。

「ただ、そういう『仮説』を立てれば、あなたが観測した全ての異常な現象に、一応の『合理的な説明』がつくのではないですか? と言っているだけです」

エリアナは、言葉を失った。アッシュは、肯定も否定もしない。だが、彼の態度は、そのSFのような仮説が真実であることを、雄弁に物語っていた。

彼女は、目の前の青年が、自分が今まで信じてきた科学や理論など、赤子の遊びのように超越した、とんでもない存在であることを悟った。

恐怖。畏怖。そして、それを遥かに上回る、強烈なまでの知的興奮。

この男のやっていることは、何だ? この力は、どこから来るんだ? この力の先に、一体何があるんだ?

エリアナの探求者の魂が、激しく燃え上がった。

彼女は、椅子から立ち上がると、アッシュの前に進み出て、深く頭を下げた。

「……アッシュ様」

彼女は、無意識のうちに、敬称を使っていた。

「私を、あなたのそばで働かせてください」

「ほう?」

「私は、あなたの起こす奇跡を、もっと知りたい。理解したい。そして、もし可能なら……私は、あなたの奇跡を、理論化し、体系化し、そして、より効率的に現実世界へ定着させるための手助けができるはずです!」

彼女は、顔を上げた。その瞳には、もはや疑念はなく、知的好奇心と、彼と共に新しい世界を創りたいという強い意志の光が宿っていた。

アッシュは、彼女の申し出を待っていた。

彼の直感的な《マインドブースト》によるマクロな世界介入。そして、彼女の論理的な思考によるミクロな技術管理。この二つの知性が融合すれば、彼の計画は、さらに加速するだろう。

「歓迎しますよ、エリアナさん」

アッシュは、手を差し伸べた。

「今日から君は、俺の専属技術顧問だ。これから、退屈する暇は与えませんから、覚悟しておいてください」

エリアナは、その手を力強く握り返した。

「望むところです」

こうして、追放された支援術師の元に、最初の「仲間」とは違う、彼の能力の特異性を理解し、それを補佐する「協力者」が生まれた。

彼の野望は、この若き天才技師という新たな歯車を得て、さらに大きく、そして確実に回り始めたのだった。

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