恋の行方:春霞に揺れる想い、桜ひとひらの願い 〜蒼依〜
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あの日、日ノ本神社の境内で舞い上がった心からの祝福の声と、春の陽光よりも眩しく幸せに輝いていた二組の笑顔。
ルカオンさんとエレナさん、そしてブレディさんとステフィさん……
その晴れやかな姿は、私の胸の奥を温かく照らし出すと同時に、なぜだか少しだけ切なく締め付けた。
素直な羨望。
心の底からそう思った。
あんな風に、誰かと深く、強く結ばれ、揺るぎない未来を誓い合うことの尊さ、その輝き。
私だって、いつか……いつか必ず、朱斗さんと……。
その想いは、この「日の本国」が誕生し、平穏な日々が訪れるにつれて、以前よりもずっと強く、そして鮮明な輪郭をもって私の中に大きく育っているのを感じていた。
式の華やぎが日常の穏やかさへと移り変わって数日。領都カマクラの街角で、ふとした瞬間に、新妻となったステフィさんやエレナさんの、以前にも増して柔らかな、そして満ち足りた笑顔が目に入るたび、あの日の神前での誓いの言葉や、感動にきらきらと輝いていた涙が鮮やかに蘇る。
そして同時に、私の心の中には、言いようのない小さな、けれど確かな波が繰り返し打ち寄せ、静かに揺れるのだった。
ふと、日本にいた頃の記憶が、水面に浮かぶ泡のように不意に現れては消える。
朱斗さんのご実家の道場に一緒に通っていた彼の姿。竹刀を握り、厳しい稽古に打ち込む時の、他者を寄せ付けないほど真剣な横顔。
時折見せる、射貫くような鋭い眼差し。
でも、稽古が終わって道場の隅で二人きりで話す時なんかは、びっくりするくらい不器用で、朴訥で、それでいて言葉の端々に温かい優しさを感じさせてくれた。
あの、最後に会った日。
二人で初めて映画を見に行った日。
派手なアクション映画だったけれど、隣にいる彼の緊張が伝わってきて、なんだか微笑ましくて、でもすごくドキドキしたのを覚えている。
映画が終わった後、
「もしよかったら、なんですけど……うちの神社に寄りませんか?
ここからそんなに遠くないですし、桜もきっと綺麗で……
それに、今日、無事に楽しく過ごせたお礼参りもしたかったんです」
と私が勇気を振り絞って誘った。
楽しい時間が無事に過ごせたことへの感謝と、これからの日々の平穏を祈るために、と。
そして、二人で神社お参りをしている時だった。
急に空が暗くなり、激しい雷鳴が轟いたのは。そ
して、全てが真っ白な光に包まれた……。
次に目覚めた時、私はこの異世界にいた。
フレッド男爵家での日々は、息が詰まるような、私自身の存在価値を根底から否定され続けるような毎日だった。
兄姉たちからの容赦ない仕打ち、蔑みの言葉、そして飢えにも近い食事。
そんな絶望的な日々の中で、ある日、伊奈帆がどこからか運んできてくれた、一枚の汚れた羊皮紙。
そこに書かれていたのは、朱斗さんの、懐かしい筆跡だった。
「蒼依さん 南基朱斗 元気です」
――たったそれだけの数文字が、真っ暗闇の中に差し込んだ唯一の、そして何よりも力強い希望の光のように思えたのだ。
彼も、この世界のどこかで生きている!
その事実だけで、私は再び立ち上がる勇気をもらえた。
そして、この手紙を胸に、私はついにあの忌まわしい家を飛び出す決意をしたのだ。
もちろん、逃亡は容易ではなかった。
私と一緒に来てくれたマリンさんと息子のライカ、そしていつの間にか私の守り神のようになってくれていた伊奈帆。
この三人がいなければ、私はとっくに力尽きていたかもしれない。
森で恐ろしい魔物の群れに襲われた時も、三位一体となって戦い、ライカの剣技と風魔法、伊奈帆の炎と幻術、そして私の未熟な水魔法と薙刀を駆使して、なんとか退治することができた。
けれど、本当に辛かったのは、魔物との戦いの恐怖よりも、いつ終わるとも知れないこの逃避行そのものだった。
朱斗さんに本当に会えるのか、この先に希望はあるのか、そんな不安に心がすり減らされていく日々。
それでも、マリンさんとライカと伊奈帆の存在、そして胸に抱いた朱斗さんからの手紙だけが、私を前へと進ませてくれた。
そして、1ヶ月余りの放浪の末、疲労困憊しきった私たちが、ついに辿り着いたのが、ルアン村だった。
村の門の前で、見張りの兵士の方に厳しい声で誰何された時は、緊張と、そして「ここにも朱斗さんはいないのかもしれない」という恐怖で、心臓が張り裂けそうだった。
けれど、事情を話し、自己紹介をしたとき、門の上から…この世界では初めて会ったのに、でも見間違えるはずのない、あの懐かしい姿を見つけたのだ。
泥と汗にまみれていたけれど、その瞳の力強さは、日本にいた頃と少しも変わっていなくて……。
彼を見つけた瞬間、安堵と、喜びと、そしてそれ以上のどうしようもない想いが、堰を切ったように込み上げてきて、私はただ彼の名前を、日本での呼び名である「朱斗さん」と呼ぶのが精一杯だった。
日本から、奇跡のように繋がっていた細い細い絆が、この過酷で理不尽な世界で、確かに目の前にあるのだと、あの時ほど強く、そして切実に感じたことはない。
今日も、日ノ本神社の境内に咲き誇る桜の下で、一人、そんなことを思い出していた。
ひらひらと舞い落ちる薄紅色の花びらが、まるで私の心の欠片のように思えて、たまらなく愛おしく、そして切なくなる。
こんなにも、こんなにも朱斗さんのことが好きなのに。
どうして、私のこの気持ちは、こんなにも臆病で、あと一歩を踏み出すことを、頑なにためらってしまうのだろう。
朱斗さんは、私のこと、本当はどう思っているのかな……。
ただの、日本からの幼馴染?
それとも、この日の本国を共に支える、妖狐巫女としての、信頼できる仲間……?
考えれば考えるほど、胸の奥がきゅうっと締め付けられるように苦しくなる
。もし、私のこの溢れそうな想いが、彼にとってはただの重荷で、迷惑でしかないとしたら……。
そう考えただけで、新しい涙が、とめどなく溢れてくる。
桜の花びらが涙に濡れて、冷たく頬に張り付いた。
いっそ、この想いを、全て彼に打ち明けてしまえたら、どんなに楽になれるだろう。
でも、もし……もし拒絶されたら?
その瞬間を想像するだけで、足元から自分の存在そのものが崩れ落ちていくような、耐えられないほどの恐怖を感じてしまう。
そうなってしまったら、私はもう、このカマクラにはいられないかもしれない。
朱斗さんのいない場所で、彼のいない毎日を生きていくなんて、もう考えたくもない。
そんな出口の見えない葛藤を抱えたまま、また新しい一日を迎えた。
いつもと変わらない朝。
領主屋敷の廊下で、執務に向かう朱斗さんとすれ違う
。彼は私に気づくと、一瞬動きを止め、少しだけれど、優しい、けれどその奥に何か読み取れない複雑な色を湛えた眼差しを、私に向けてくれる。
その本当に些細なことで、私の心は木の葉のようにまた大きく揺れ動いてしまうのだ。
その日の午後、朱斗さんと一緒に「朱備え」と「蒼備え」の合同稽古に参加した。
剣術と魔法を組み合わせた実践的な訓練。
彼の動きは、ますます洗練され、力強さを増している。
その姿を間近で見ているだけで、私の胸は高鳴り、そしてほんの少しの勇気が湧いてきた。
型の稽古の合間、ほんの少しだけ、彼の動きに合わせて隣に並んで立った時、私は無意識に、ほんの少しだけ、彼の大きな手に自分の手をそっと近づけてみた。
指先が触れるか触れないかの、息が詰まるような、甘い緊張感が走る距離。
けれど、朱斗さんは、まるでそれに気づかなかったかのように、あるいは、気づいたからこそなのか、ふっと、本当に自然な動作で手を引いてしまった。
(……やっぱり、私のこと、何とも思っていないのかな……)
彼の頬が、ほんの一瞬、微かに赤らんでいたことにも、その手を引く動きが、ほんの僅かだけれど、ためらうようであったことにも、私は気づくことができなかった。
ただ、避けられた、という事実だけが、冷たい針のように私の心に鋭く突き刺さる。
心臓がきゅうっと縮こまるような痛みと、冷たい水が背筋をすっと伝っていくような、どうしようもない感覚。
「……あ」
思わず、小さな、自分でも驚くほどか細い声が漏れた。朱斗さんが、少し驚いたように私を見る。
「どうした? 蒼依。顔色が悪いぞ」
彼の声は、いつもと変わらない、少しぶっきらぼうで、でもその奥に確かな優しさを感じさせる響き。
それが、今の私には余計に辛く、胸を締め付ける。
「ううん、なんでもないの。ごめんなさい、朱斗さん。ちょっと……ぼんやりしてたみたい」
必死で笑顔を作ろうとしたけれど、きっとひどくぎこちない、引きつったものになってしまっただろう。
朱斗さんは、何か言いたそうに少し口を開きかけたけれど、結局何も言わずに、ふいと視線を逸らした。
「……そうか。……ならいいけど。無理はするなよ」
その短い言葉と、すぐに逸らされた視線が、まるで私との間に、見えないけれど分厚い壁を作られたように感じてしまう。
「……うん。……あの、稽古、続ける?」
私は、自分の声が震えていないか、それだけを気にしながら、何とかそう言った。
「ああ、そうだな」
そう言って、朱斗さんはすぐに稽古の体勢に戻る。
その背中が、いつもよりずっと遠く、そして大きく見えた。
煮え切らないのは、もしかしたら、私だけじゃないのかもしれない。朱斗さんだって、何かを迷っているのかもしれない。
何か、私に伝えられない想いを抱えているのかもしれない。
でも、彼の心の内側は、春霞のように厚い霧に覆われているようで、今の私にはどうしてもそれを見通すことができない。
手を伸ばせば、すぐにでも届きそうなのに、決して触れることができないような、そんなもどかしさだけが募っていく。
春の柔らかな日差しが、こんなにも残酷に、そして切なく感じられるなんて。
私の淡い恋心は、行き場も見つけられず、ただただ春風の中で揺れている。
この想いは、いつか彼に届く日が来るのだろうか。
それとも、このまま桜の花びらのように、誰にも知られることなく、春の記憶と共に、静かに散ってしまうのだろうか……。
それでも、私は信じたい。この胸の奥で確かに燃え続ける、朱斗さんへの想いを。
そして、いつか彼と、本当の意味で心を通わせることができる日が来ることを。
今はただ、そう願うことしかできないけれど。
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