6 アオイ記憶を取り戻す 5歳②
しかし、野菜と果物だけではまだ決定的に足りないものがある。それは動物性のタンパク質。丈夫な体を作り、これからますます必要になるであろう体力をつけるための基本となる栄養素だ。このままではやはり健全な成長は望めないし、いずれ限界が来るだろう。
(お肉…お魚…せめて、卵でも…)
そんなものが私の食卓に上ることは未来永劫ないだろう。ならばどうするか。考えられる選択肢は一つしかなかった。
(…自分で、捕まえるしかない)
私の視線は、屋敷の庭の木々の間を警戒心もなく飛び交う小さな鳥たちに向けられた。スズメによく似た茶色い鳥や、時にはもっと色鮮やかな美しい鳴き声を持つ鳥もいる。あるいは庭の隅を素早く駆け抜ける野ウサギのような小動物。あれらを捕まえることができれば…。
(かすみ網…なら、私にも作れるかもしれない)
前世の記憶の引き出しを懸命に探ると、子供の頃に読んだ冒険小説か何かで見た、鳥を捕獲するための特殊な網のイメージがぼんやりと浮かび上がった。非常に目が細かく軽量で、鳥が気づかずに飛んできて絡め取られてしまうという、日本ではその強力さ故に使用が厳しく制限されている罠だ。
(禁止されている猟法…でも、ここは日本じゃない。法律も違うはず。それに、私は生きなくちゃいけないんだから…!)
倫理的な葛藤が胸をよぎる。前世では神社の娘として生命を尊ぶことを教えられてきた。けれど今の私にはそんな綺麗事を言っている余裕はない。生きるためには手段を選んでいられない。私は心を鬼にして覚悟を決めた。
問題は網を作るための材料だ。細くても丈夫でしなやかで、それでいて目立たない色の糸のようなものが必要だ。私は再び屋敷の広大な敷地を、今度は網の材料になりそうな植物を探して探索した。そして丈夫そうな蔓植物や特定の種類の草の繊維が、乾燥させて加工すれば利用できそうなことを見つけ出した。
それらを必要なだけ採取し、物置小屋の裏で乾燥させ、石で叩いて柔らかくし、指先で一本一本細く裂き、それを丁寧に縒り合わせて少しずつ長い糸にしていく。
それは気の遠くなるような繊細で根気のいる作業だった。だが、前世で培った手先の器用さと集中力が、ここで思いがけず役に立った。(あるいは、巫女の手伝いや武道の鍛錬で自然と身につけたのかもしれない――その器用さが。)
数日間の試行錯誤の末、ようやく手のひらより少し大きいくらいの小さ なかすみ網をいくつか作り上げることができた。それを秘密の畑の近く、鳥がよく集まる木立の間や獣道らしき通路に、周囲の枝葉で巧みにカモフラージュしながら慎重に仕掛けた。
網を仕掛けてから二日後の早朝。期待と不安でドキドキしながら息を潜めて様子を見に行くと、一枚の網に小さな茶色い鳥が二羽、もがかずにぐったりと絡まっているのを見つけた。別の場所に仕掛けた網には小さな野ウサギがかかっていた。
(かかった…!本当に、捕まえられた…!)
安堵とわずかな興奮。しかしそれ以上に、動かなくなった小さな命を目の当たりにしたことによる重い罪悪感がどっと押し寄せる。私がこの手で彼らの命を奪ったのだ。
(ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…でも、ありがとう…あなたたちの命、決して無駄にはしないから…)
胸の中でそう呟き、震える手でまだ微かに温かい亡骸を網から丁寧に外す。その小さな体は驚くほど軽かった。
捕まえた獲物は誰にも見つからないように素早く処理する必要がある。幸い、前世の記憶の中にはキャンプやサバイバルに関する知識の断片もあった。羽をむしり、皮を剥ぎ、内臓を取り出し、近くの古井戸から汲んだ水で血を洗い流す。火は使えない。そこで肉をできるだけ薄くそぎ切りにし、厨房から少量くすねてきた貴重な塩を保存と味付けのために軽く振りかけ、物置小屋の軒下など目立たず風通しの良い場所に蔓で作った紐で吊るして干し肉を作ることにした。
数日後、乾燥して硬くなった干し肉を初めて口にした時の味は、言葉では言い表せないほど複雑だった。僅かな塩気と凝縮された肉本来の旨味。そして生命を奪ったというずしりと重い罪悪感。それでも、この貴重なタンパク質が私の体を支え明日を生きる力になるのだと思うと、感謝の念も確かに湧いてくる。一口一口、味と命の重みを大切に噛み締めた。
干し肉作りにも慣れ、少しずつだが確実に体力が戻りつつあるのを感じ始めたある日のこと。私はいつものように秘密の菜園の手入れを終え、近くの木陰で古井戸から汲んできた水を飲んで休憩していた。相変わらず屋敷での食事は満足に与えられず、干し肉だけでは十分な栄養とは到底言えない。
もっと効率よく、もっと安定してタンパク質を確保する方法はないものだろうか。そして何より、この孤独なサバイバル生活はいつまで続くのだろうか。そんなことを考えながら、知らず知らずのうちに再び日本の神様、特に幼い頃から身近だったお稲荷様に心の中で強く祈りを捧げていた。
(お稲荷様…どうか、どうかもう少しだけ、私に力を貸してください…生きるための糧を…そして、この孤独を分かち合える、小さな温もりを…)
それは以前よりもさらに切実な、魂からの叫びだった。
その時だった。
私のすぐそば、草むらがカサリと不自然に揺れたかと思うと、そこからひょっこりと純白の毛並みを持つ小さな生き物が姿を現した。それは私が知っているどんな動物とも少し違っていた。大きさは子犬ほどだが紛れもなく狐の姿をしている。しかし、ただの狐ではない。ピンと立った耳、艶やかな白い毛並み、そして何より特徴的なのは、ふわりと揺れる先端が二股に分かれた尻尾。額には小さな赤い宝珠のような模様が輝いている。そして私をじっと見つめる大きな黒い瞳は、まるで人間の言葉を理解しているかのような、驚くほど深い知性を湛えていた。
(狐…?いや、違う…これは、もしかして…妖狐…?お稲荷様の、お使い…?)
あまりの出来事に驚きと戸惑いで、私は息を飲み身動き一つ取れなかった。目の前の白い妖狐は、しかし私を警戒する様子は微塵も見せず、むしろ親しげに尻尾をぱたぱたと振りながら近寄ってくると、私の足元にすり寄るようにしてちょこんと座り込み、小さく「コン」と愛らしく鳴いた。その仕草は、まるで「やっと会えたね」「私が助けに来たよ」とでも言っているかのようだった。
(まさか…本当に…私の祈りが、届いたの…?)
信じられない気持ちで恐る恐る震える手を伸ばしてみる。すると白狐は全く怖がる素振りも見せず、むしろ気持ちよさそうに目を細め、私の手のひらにその小さな頭を優しく擦り付けてきた。指先に伝わる温かくて驚くほど柔らかい毛の感触。その瞬間、張り詰めていた心の糸がふっと緩み、温かいものがじわりと胸の中に広がっていくのを感じた。孤独だった私に初めてできた、秘密の友達。いや、それ以上の何か特別な存在。私の祈りが生んだ、小さな奇跡。
それからというもの、伊奈帆(私はその不思議な妖狐を敬意と親しみを込めてそう呼ぶことにした)は、常に私のそばにいてくれるようになった。まるで私の影のように、しかし決して邪魔にならない距離感で私を見守り寄り添ってくれる。
言葉は通じないけれど、伊奈帆は驚くほど賢く、私の考えていることや求めていることを仕草や表情、そして時折見せる不思議な雰囲気で的確に察してくれる。そして私の方も、伊奈帆が何を伝えようとしているのか何となく理解できるようになった。それは言葉を超えた心と心の繋がりだった。この冷たい屋敷で初めて感じた温かい絆だった。
そして伊奈帆は驚くべき能力を次々と見せてくれた。私が食べ物に困っていることを敏感に察したのか、あるいはそれが彼の役割なのか、驚くほどの俊敏さと隠密性で、私が苦労して仕掛けていたかすみ網など比較にならないほどの効率で次々と野ウサギや鳥を捕まえてきては、私の足元に「さあ、どうぞ」とでも言うようにそっと差し出すのだ。
時には私が存在すら知らなかった木の実や食べられる根なども見つけてきてくれた。かすみ網よりもずっと効率的で、しかも常に新鮮な獲物が手に入るようになったことで、私の食料事情は劇的に改善された。
さらに驚いたのは伊奈帆が火を扱えることだった。ある日、伊奈帆が捕まえてきたばかりの丸々と太ったウサギをどう処理しようか、また干し肉にするしかないかと考えていた時のことだ。伊奈帆は私の目の前で、何か呪文を唱えるでもなくただ前足の先を地面に向けた。するとポンという軽い音と共に、前足の先から小さな、しかし安定した赤々とした炎が燃え上がったのだ。それは焚き火のような頼りない火ではなく、まるで魔法のような不思議な力を持った炎だった。
(火…! これで、お肉が焼ける…! 温かいものが、食べられる…!)
私は感動で声も出なかった。不思議なことに伊奈帆の起こす火はほとんど煙を立てなかった。これなら誰かに気づかれる心配もなく安心して肉を焼くことができる。伊奈帆が起こしてくれたその火で初めて、捕れたてのウサギの肉を焼いて食べることができた。木の枝に刺した肉を火にかざすと、じゅうじゅうと音を立てて脂が滴り香ばしい匂いが立ち上る。十分に火が通った肉にかぶりつくと、口の中に広がるのは熱々で柔らかくジューシーな肉本来の旨味。それは硬くて味気ない干し肉とは比べ物にならないほどの、まさに至福の味だった。涙が出るほど美味しかった。
伊奈帆のおかげで私の食生活は量だけでなく質的にも劇的に改善された。新鮮な肉を焼いて食べることで不足していたタンパク質や脂質、ビタミン、ミネラルを効率よく摂取できるようになり、栄養バランスは格段に良くなった。
その結果、体力も目に見えてつき、顔色も健康的になり、以前のような慢性的なだるさや目眩もすっかり消えていた。何より毎日温かく美味しい食事を摂れるようになったことで、凍てついていた心が少しずつ、しかし確実に溶けていくような温かい感覚を取り戻しつつあった。
伊奈帆は文字通り私の命を繋いでくれただけでなく、私の心をも救ってくれたかけがえのない存在となったのだ。もちろん伊奈帆の存在も、彼がもたらしてくれる恵みも、私の最高機密事項であることに変わりはなかったが。
食料の問題に、伊奈帆という頼もしい味方のおかげで大きな改善が見られたことで、私の心には以前よりも確かな余裕と未来へのささやかながらも具体的な希望が生まれ始めていた。そして次に考え、そしてより強く意識するようになったのは、やはりこの先の自分のこと、そしてこの息の詰まるような家からの脱出だった。
(このまま、この家に居続けても私に未来はない。それはどんなに栄養状態が改善されても変わらない事実だ)
今はまだ子供だから、そして伊奈帆のおかげで以前よりは健康そうに見えるようになったからか、家族からの直接的な暴力やあからさまな嫌がらせは少し減ったかもしれない。しかし根本的な無視と冷遇、そして私という存在そのものを否定するような侮蔑の視線は決して変わることはない。
もう少し大きくなったらどうなる? 忌み嫌われる黒髪黒目の娘など、まともな貴族に嫁がせることはできないだろう。どこかの貧しい家に厄介払い同然に嫁がされるか、あるいは家の雑用を全て押し付けられる名ばかりの使用人として、この薄暗い屋敷の中で一生を終えることになるかもしれない。フレッド男爵夫妻にとって私はどこまでいっても、ただの厄介者でいない方がいい存在なのだから。
(いつか、必ずこの家を出てやる…! そして誰にも縛られず、自由に生きてやる!)
その決意は日増しに揺るぎないものへと変わっていった。自由になりたい。誰にも蔑まれず、自分の意思で自分の人生を自分の力で切り開きたい。そのためには力がいる。この息苦しい屋敷から、いつか必ず来るであろう「その日」に確実に逃げ出すための体力。そして一人でこの厳しい、おそらくはモンスターなども存在する危険な世界を生きていくための最低限の護身術。北條蒼依としての誇りを、このアオイの体で取り戻すために。
その日から私は夜の鍛錬を、以前にも増して熱心にそして計画的に行うようになった。家族も使用人も寝静まった深夜、月明かりだけが頼りの庭の片隅で息を殺して体を動かす。伊奈帆は心配そうに、しかし決して邪魔はせず、少し離れた木の根元で丸くなり静かに私の姿を見守ってくれている。その存在が私の孤独な鍛錬を支える大きな心の拠り所となっていた。
まずは基礎体力。昼間の秘密の菜園仕事や水汲みに加え、栄養満点の食事のおかげで体は以前とは比べ物にならないほど軽く力強く動くようになった。それでもさらに上を目指す。全力疾走を繰り返し少しでも速く走れるようになる努力をする。より高く、より遠くへ跳ぶ練習。体を極限まで柔らかくしどんな動きにも対応できるようにするための柔軟体操。
前世で弓道と薙刀の厳しい稽古で培った基礎トレーニングの記憶を総動員し、一つ一つ丁寧に行う。体が悲鳴を上げても歯を食いしばって続けた。あの兄姉に二度と容易く捕まらないために。
次に武器の訓練。やはり弓が使いたい。あの、弦を引き絞り精神を無にして的だけを見つめ、そして矢を放つ瞬間の研ぎ澄まされた静謐な感覚は、今でも鮮明に体に残っている。けれど今の私に精度の高い弓矢を作る技術も材料を手に入れるあてもない。
(弓が無理なら、薙刀で。これも、私の魂に刻まれた技だ)
私は以前から使っている、手頃な長さと太さを持つまっすぐで硬い木の枝を改めて手に取った。表面のささくれを石で丁寧に削り、握りやすいように、そして少しでも重さを増すために丈夫な布きれをきつく巻き付けて調整する。それを長年愛用していた白樫の薙刀に見立てることにした。
私は月明かりの下、木の枝を静かに構え、弓道で学んだ丹田を意識した深く静かな呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとしかし鋭く素振りを繰り返した。すり足、体捌き、打ち込み、薙ぎ払い、突き。前世で体に叩き込んだ型を一つ一つ思い出しながら、見よう見まねではなく、より実践的に、より力強く、より速く。枝が空を切る音だけが夜の静寂に響く。汗が滝のように流れ落ち、腕や足が悲鳴を上げ、呼吸が苦しくなっても私は黙々と枝を振り続けた。いつか来るであろう「その日」のために。自分の自由を自分の手で掴み取るために。
秘密の菜園も伊奈帆との狩りも、そしてこの夜の鍛錬も全てが私の秘密。誰にも知られてはいけない。家族の冷たい視線、使用人たちの侮蔑的な態度。昼間はそれに耐え感情を押し殺して無力な子供「アオイ」を演じ続ける。そして夜、北條蒼依として一人と一匹で自由への道を切り開くための爪を研ぐ。
鍛錬の合間にふと夜空を見上げる。日本で見ていた優しい星空とは全く違う、どこか冷たくしかし圧倒的な力強さを持つ星々が、漆黒の空に無数に、そして驚くほど近くに輝いている。この広い、広い空の下のどこかに朱斗さんもいるのだろうか。彼も私と同じようにこの世界で生きているのだろうか。そしてもし生きているならどんな暮らしをしているのだろうか。どうか私のような惨めな思いをしていませんように…。
(朱斗さん…もし、あなたもこの世界のどこかにいるのなら…どうか、無事でいてください…)
今はまだあまりにもか細く不確かな希望でしかない。けれどその希望と、足元で信頼の眼差しを向けてくれる白狐の温かい存在があるから、私はこの理不尽な運命に抗うことができる。兄や姉たちの仕打ちにも今は耐えられる。生き抜いて必ず自由を手に入れる。そしていつか必ずあなたを探し出す。
月明かりに照らされた私の瞳に、黒曜石のような静かだが以前よりもずっと強く、そして決して折れることのない光が宿り始めていた。私の、たった一人と一匹の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。
お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
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