5 アオイ記憶を取り戻す 5歳①
衝撃、そして奔流
ドォォォォォン!!!
世界が揺れた。いや、揺れたのは私の内側だったのかもしれない。耳をつんざく轟音は、ただの音ではなかった。質量を持った槌のように、私の頭を、魂を、直接殴りつけた。一瞬、視界が真っ白に染まり、強烈な閃光が網膜に焼き付く。息が詰まり、心臓が喉から飛び出しそうなほどの衝撃。
(痛い…なに…いまの…?)
頭蓋骨の内側で、何かが割れるような感覚。割れた隙間から、熱いマグマのような膨大な何かが、猛烈な勢いで流れ込んできた。それは色であり、音であり、匂いであり、感情であり――記憶だった。
緑の水田が広がる日本の風景。蝉時雨の喧騒。実家の神社の、古びた木の匂いと凛とした空気。大学の研究室の、少し埃っぽい空気と薬品の匂い。種苗メーカーのビニールハウスの、土と植物のむせ返るような匂い。薙刀道場の、汗と木の匂い。弓道場の、張り詰めた静寂と弦音。
父の声、母の声、厳しかった師範の声、友人たちの笑い声。励ます声、時には叱る声。
そして――彼の声。少し不器用で、でも真っ直ぐな、朱斗さんの声。映画館の暗闇で隣に感じた、安心するような体温。神社の石段で不意に触れた指先の熱さ。雷鳴に驚いてしがみついた、彼の逞しい腕の感触。最後に見た、驚きと心配に見開かれた彼の瞳。
「あけ…と、さん…っ!」
私はいつの間にか手にしていた古い布製の人形を、胸が張り裂けんばかりに強く抱きしめていた。涙が堰を切ったように溢れ出す。熱い雫が次々と頬を伝い、粗末な服の胸元を濡らす。止まらない、止められない。
そうだ、私は北條蒼依。26歳。日本という国で生きていた。神社の娘として育ち、薙刀と弓に打ち込み、大学で農学を学び、種苗メーカーで働いていた。それが、どうしてこんな場所に。
(ここは…どこなの…? イグニシア王国…? フレッド男爵家…使用人たちは私を「アオイ」と呼ぶ…そうだ、アオイ…なんて皮肉な…)
この世界で「アオイ」という言葉は、古語で「忌み嫌われるもの」「穢れたもの」といった意味合いを持つらしい。黒髪黒目を持って生まれた私に対するあからさまな蔑称。それをこの家の誰もが、当たり前のように私の名として呼ぶのだ。記憶が戻る前の私は、その意味すら知らずに、ただ呼ばれるままに返事をしていたのだろう。
見慣れていたはずの、薄暗く埃っぽい物置同然のこの部屋が、突然、全く知らない異質な牢獄のように思える。私は「アオイ」という名の忌み嫌われる存在として、この異世界で5年間を生きてきた――いや、生かされてきただけだ。けれど、それは本当の私じゃない。私は、北條蒼依だ。
(朱斗さんは? 朱斗さんはどうなったの!? あの時、確かに隣にいたのに!)
あの雷の後、彼も一緒にここに? それとも私だけがこんな酷い場所に…? 考えたくない最悪の可能性が、冷たい霧のように心を覆い尽くす。一人で、こんな見知らぬ敵意に満ちた世界に放り出されたというのか。あまりの恐怖と絶望に呼吸が浅くなり、指先が冷たくなっていく。
「うっ…く…ひっく…」
声を殺して泣き続けた。どれくらいの時間が経ったのか分からない。涙は枯れ果て、しゃくりあげる体の震えだけが残った頃、私は混乱しきった頭でゆっくりと立ち上がった。長い間泣いていたせいで、足元がおぼつかない。
部屋の隅に、埃をかぶった大きな姿見があった。貴族の持ち物だったにしては枠は傷だらけで、鏡面も酷く曇っている。そこに近づき、震える手で表面の埃を乱暴に拭う。曇った鏡面に映し出されたのは、見知らぬ、しかしこの5年間見慣れてきた小さな女の子の姿――今の私の姿だった。
年の頃は、5つか6つ。栄養が行き届いていないのか、同年代の子と比べてもひどく痩せていて、手足は棒のように細い。顔色も血の気がなく土気色に近い。着ている服は貴族の娘のものとは思えないほど粗末な麻のワンピースで、あちこち擦り切れ薄汚れている。
そして何よりも目を引くのは――艶というものが全く感じられない鴉の濡れ羽色のような黒髪と、光を吸い込んで底が見えないような深い、深い黒い瞳。
(これが…今の、私…『アオイ』…忌み名の意味を込めて、そう呼ばれてきた…)
ぞわりと背筋に悪寒が走った。この黒髪と黒い瞳。日本ではごく当たり前の、時には美しいとさえ言われることもあるこの色が、この世界では「呪われた色」「不吉の象徴」として忌み嫌われているのだと、この5年間の断片的だが鮮烈な記憶が告げていた。
だから私は生まれてからずっと、実の両親であるはずのフレッド男爵夫妻からも、異母兄であるゴミュとクジュ、異母姉のインバからも、まともな愛情を与えられなかったのだ。存在を無視されるのは日常茶飯事。「黒い子」「忌み子」「役立たず」と蔑まれ、時には彼らから憂さ晴らしのように意地悪な言葉を投げつけられたり、理由もなく突き飛ばされたりすることもあった。
そうだ、思い出した。
つい先日も、食事の時間に一番上の兄ゴミュにわざと椅子を蹴飛ばされ、床に尻餅をついた。誰も助けてくれず、彼は私の前に置かれた唯一のパン切れを奪い取り、鼻で笑いながら自分の口に放り込んだのだ。その時、父も母シルビアも他の兄姉も、ただ黙ってそれを見ていただけだった。
またある時は、廊下で長女のインバ姉様とすれ違った際、彼女はわざと私の粗末なワンピースの裾を踏みつけ、私が転ぶと「あらごめんなさい、そこに汚いものが落ちているとは思わなくて」と嘲笑いながら立ち去っていった。
一番酷いのは次男のクジュで、彼は何か気に入らないことがあるとすぐに私を捕まえては、庭の雑草むしりや汚れた靴磨きといった雑用を無理やり押し付け、「こんなこともできないのか、この役立たずの黒め!」と罵声を浴びせ、時には背中を蹴り飛ばすことさえあった。
そして、同じ母から生まれたはずの実の兄であるカッスでさえ、他の兄姉に同調するように私を嘲り、面白がって私の髪を錆びた鋏でめちゃくちゃに切ろうとした時は、必死で逃げ惑い、柱に頭をぶつけて危うく大怪我をするところだった。あの時の、実兄の歪んだ嘲笑う顔と、周囲の使用人たちの見て見ぬふりをする冷たい目が忘れられない。
使用人たちも主人の意向を敏感に察し、私を人間として扱わない。すれ違っても挨拶はおろか、視線すら合わせようとせず、陰では「黒い厄介者」「気味が悪い」と囁き、あからさまに避ける者も少なくなかった。
記憶が戻る前の「アオイ」は、それが当たり前の世界だと思って、ただ怯え、息を潜め、誰にも逆らわずに生きていたのだろう。小さな胸にどれほどの悲しみと孤独を溜め込み、どれほどの涙を一人で流してきたのだろうか。蒼依としての感情が、記憶の中の不憫な「アオイ」の境遇に共鳴し、再び熱い涙が込み上げてくる。
(…酷すぎる。こんなの、絶対におかしい!間違ってる!)
北條蒼依としての常識と倫理観、そして人としての尊厳が、この理不尽極まりない状況を断罪する。ふつふつと腹の底から静かだが激しい怒りが湧き上がってくる。けれど、怒りだけでは何も変わらない。蒼依の記憶がもたらした冷静な分析力と知識は、まず何よりも先に、この「アオイ」という体が直面している、もっと現実的で差し迫った危機感を私に突きつけていた。
それは――「飢餓」の危機だった。
飢えと、芽生える決意
食事の時間は、私にとって最も惨めで、疎外感と孤独を骨身に染みて痛感させられる時間だった。だだっ広く、しかし薄暗く、どこか黴臭いダイニングホール。長いテーブルの中央には、父であるフレッド男爵と、常に不機嫌そうな顔をしている母シルビアが座る。その周りを、三人の兄(異母兄のゴミュとクジュ、同腹の兄カッス)と一人の姉(異母姉のインバ)が、騒々しく、あるいは無表情に囲む。
彼らの前には、決して豪華とは言えないまでも、肉や野菜の入った温かいシチュー、硬いがそれなりに大きなパン、そしていくつかの保存食のような野菜料理が並んでいる。貧乏男爵家なりに、貴族としての最低限の体面を保とうとしているのだろう。
けれど、テーブルの一番端、まるで存在しないかのように扱われる隅の席に座る私の前には、いつもほとんど同じものしか置かれない。硬く、時には少し緑色がかったカビが生えていることもあるパンの切れ端が一切れか二切れ。野菜の切れ端が申し訳程度に浮いているだけの、ぬるくて味の薄いスープ。それだけ。肉や魚はもちろん、卵や乳製品、温かい料理など、この5年間の記憶にある限り一度も口にしたことがない。
酷い時には、私の分の食事そのものが用意されておらず、空腹のまま部屋に戻らなければならないことさえあった。誰もそれに気づかない。あるいは、気づいていても誰も何も言わない。それが、この家での私の「当たり前」だった。
(こんな食事で、体がまともに成長するわけがない…! このままでは本当に衰弱してしまう…!)
前世で農学を学び、植物の生育や栄養について専門的に学んだ知識が、頭の中でけたたましく警鐘を鳴らす。5歳といえば人間が最も急速に成長する時期の一つだ。丈夫な骨を作り、しなやかな筋肉を育て、複雑な思考を司る脳を発達させるために、タンパク質、ビタミン、ミネラルといったバランスの取れた栄養が絶対に不可欠なのだ。今の私の食事は、その全てが絶望的に不足している。このままではまともに成長できないどころか、病気に対する抵抗力も失い、些細なことで命を落としかねない。
慢性的な空腹は常に私を苛んでいた。夜、寒くて薄暗い自室のベッド(というより藁を詰めただけの硬い袋に近い代物だ)で、自分の意思とは関係なくお腹がぐうぐうと鳴る音を聞きながら、空腹と寒さで眠れない夜を何度も過ごした。日中も、ふとした瞬間にひどい目眩や立ちくらみに襲われ、壁に手をついてうずくまることも少なくなかった。記憶が戻った今、それは単なる体調不良ではなく深刻な栄養失調の兆候だと理解できた。
(なんとかしないと…このままじゃ本当にまずい。誰にも頼れないなら、自分の力で生きるための糧を見つけ出すしかない。この『アオイ』の体で、北條蒼依として生き抜くために!)
幸いというべきか、この落ちぶれた男爵家にも一つだけ無駄に豊富なものがあった。広大な敷地だ。手入れが行き届かず荒れ放題になっている庭や、かつては畑だったのかもしれないが今は雑草が生い茂るだけの古い土地が、屋敷の周りに延々と広がっている。
(そうだ、野菜を育てよう…! 私には、北條蒼依としての知識と技術がある!)
前世で培った農学の知識と、種苗メーカーでの実務経験。それが、こんな絶望的な状況の中で生きるための武器になるかもしれない。私は食事の際に他の家族が残した料理の皿から、あるいは管理のずさんな厨房からこっそりと、使えそうな野菜や果物の種をいくつか集め始めた。
トマトによく似た酸味のある赤い実の種。イチゴのような甘酸っぱい小さな赤い果実の種。キュウリに似た水気の多い緑の野菜の種。どれもこの世界で一般的に食べられているものらしい。加熱せずにそのまま食べられるものを選んだのは、火を使えば煙や匂いで誰かに私の秘密の行動が気づかれるリスクがあるからだ。
記憶を取り戻し、自分の置かれた絶望的な状況を理解して幾日か過ぎたある日の夜。寒くて硬いベッドの上で私は膝を抱え、暗闇の中で静かに涙を流していた。孤独、恐怖、そして未来への不安。そんな感情が渦巻く中で、ふと前世の記憶が蘇った。実家の神社の、厳かでしかしどこか温かい空気。祝詞を唱える父の声。巫女装束で舞う自分の姿。そして境内の片隅に祀られていた、赤い鳥居と白いお狐様――五穀豊穣と商売繁盛の神、お稲荷さん。幼い頃から何かあるたびに手を合わせ、心を落ち着かせていた、私にとって最も身近な神様。
(そうだ…私は、神社の娘だった…)
この異世界に日本の神様がいるとは思えない。科学的にも常識的にもありえないことだ。けれど今の私には他に頼れるものが何もなかった。論理や常識を超えて何かにすがりたかった。藁にもすがる思いで、私は暗闇に向かってそっと手を合わせた。
(…神様…お稲荷様…私の故郷の、慈悲深き神様…もし、この異なる世界の、こんなちっぽけな私の声が届くのなら…どうか、どうか私をお助けください…。私はここでこんな風に終わりたくありません。生きたいんです。もっと、ちゃんと生きたいんです。そして叶うことなら、もう一度…朱斗さんに…会いたいんです…)
声に出さず、心の中で必死に祈る。それは巫女としての型式ばった祈りというよりは、ただの無力な人間の魂からの切実な叫びだった。祈りが届く保証などどこにもない。それでも、そうせずにはいられなかった。暗闇の中で、前世で慣れ親しんだ祝詞の断片を、意味を噛みしめながら小さな声で呟いてみる。『かけまくもかしこき…』不思議と、ほんの少しだけささくれだった心が凪いでいくような気がした。
翌日から、私は具体的な行動を開始した。まずは秘密の菜園を作る場所探しだ。屋敷のすぐそばでは、意地悪な兄姉や噂好きの使用人に見つかる危険性が高い。私は数日かけて屋敷の広大な敷地を、誰にも気づかれないように慎重に見て回った。
そして屋敷の裏手にある、今はもう使われていない崩れかけた古い物置小屋の、さらにその奥。高く伸びた雑草に覆われ、大きな木の陰になっている、ほとんど誰も近寄らないような薄暗い一角を見つけた。ここならまず見つかることはないだろう。
昼間、家族がそれぞれの部屋で昼寝をしたり談笑したりしている時間や、皆がまだ寝静まっている早朝の薄明かりの中を狙って、私は秘密の作業を開始した。スコップなんて便利なものはない。手頃な大きさの硬くて平たい石や、折れた丈夫な木の枝を探し出し、それを鍬やスコップ代わりにして固くなった地面を少しずつ掘り返していく。
5歳の非力な体では、ほんの小さなスペースを耕すだけでも息が切れ、汗びっしょりになる重労働だった。手のひらはすぐに豆だらけになり、皮がむけて血が滲む。爪の間には黒い土が深く入り込んだ。
それでも私は黙々と作業を続けた。土を耕し、しぶとい雑草の根を取り除き、小さな畝を作る。そこに大切に集めてきた種を、種類ごとに分けて祈るような気持ちで丁寧に蒔いていく。水やりは、少し離れた場所にある今は使われていない苔むした古井戸から、これまた誰にも見つからないように、夜中にこっそりと割れた壺のかけらや拾った木の器などを使って何度も往復して水を汲み、運んだ。井戸の周りは暗く足元も悪いため、何度も転びそうになった。
(お願い、ちゃんと育って…私の、希望の種…!)
祈るような気持ちで毎日畑の様子を見に行った。そして種を蒔いてからわずか数日後、信じられない光景を目にした。小さな、しかし力強い緑色の双葉が、黒い土の中から一斉に顔を出していたのだ。
(早い…! こんなに早く芽が出るなんて! 日本の野菜よりもずっと早い!)
しかもその後の成長速度は、私の予想を遥かに超えていた。まるで魔法でもかかっているかのように、ぐんぐんと音を立てるように茎を伸ばし、青々とした葉を茂らせ、あっという間に小さな白い花や黄色い花を次々と咲かせる。葉の色艶も驚くほど良く、病気や害虫の被害を受ける気配も全くない。
(この世界の土は、よっぽど栄養が豊富なんだわ…それとも気候が特別に合っているのかしら?…それにしても、少し異常な気がするけど…まあ、ありがたいことには違いないわ!)
私はこの奇跡のような驚異的な成長を、異世界の恵まれた自然環境のおかげだと、自分に言い聞かせるように解釈した。(まさか、北條蒼依としての記憶を取り戻し生きる意志が強まったことで、自分自身の中に眠っていた未知の力――植物の成長を強力に促進する【豊穣】あるいは【栽培】とでも呼ぶべき特別なスキルが、無意識のうちに発現し作用しているとは、この時のアオイは知る由もなかった)
そして種まきからわずか数週間後。私の秘密の畑には目を奪われるような光景が広がっていた。太陽の光を浴びてルビーのように輝く真っ赤なトマトのような実が、細い支柱に支えきれないほど鈴なりになり、地面には甘酸っぱい芳香を放つ真っ赤なイチゴのような果実が、まるで赤い絨毯のようにびっしりと実り、長く伸びた蔓には瑞々しい緑色のキュウリのような野菜が何本も重そうにぶら下がっていた。
陽の光を浴びてキラキラと輝くそれらは、まるで宝石のようだった。私は一番赤く熟したトマトのような実を一つそっと摘み取り、汚れた服の裾で軽く泥を拭ってそのまま口に放り込んだ。
(…おいしい…! すごく、おいしい…!)
じゅわっと口の中に広がる濃厚な甘みと爽やかな酸味。太陽の恵みと大地の味がする。涙がまたポロポロと溢れてきた。それは単なる空腹が満たされた喜びだけではない。自分の力で、自分の知恵と手で、この厳しい世界で生きるための糧を生み出したという確かな達成感。そしてどんな逆境の中でも力強く育つ生命の輝きに対する深い感動が、私の心を激しく震わせたのだ。
それからは毎日、収穫したばかりの新鮮な野菜や果物を、誰にも見られないように細心の注意を払いながら自室に持ち帰り、粗末なベッドの下や偶然見つけた壁の隠しスペースに隠し、夜中にこっそりと食べるのが、私のささやかな、しかし何よりも大切な楽しみになった。少しずつだが土気色だった頬にも血の気が戻り、慢性的に感じていた体のだるさや目眩も以前よりずっと軽くなった気がした。生きているという実感が、少しずつだが確かに湧いてきた。
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