アオイ7歳 逃走準備
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厳しい冬を越え、この異世界で私は7度目の新年を迎えた。
この地の慣習に従い、私も7歳になった。
この一年で、本当に、本当に多くのことが変わった。
もはや、物置同然の部屋の隅で、ただ怯えて古い人形を抱きしめていた頃の私ではない。
北條蒼依としての記憶と、この「アオイ」という忌み名を与えられた少女の経験が、私の中で混ざり合い、新たな覚悟を形作っていた。
秘密の菜園での収穫と、白狐――いつしか私の心の中で、親しみを込めて「伊奈帆」と呼ぶようになった彼――がもたらしてくれる新鮮な獲物のおかげで、私の栄養状態は劇的に改善されていた。
骨と皮ばかりだった体には柔らかな肉がつき始め、土気色だった頬にかすかな赤みが戻り、艶を失っていた黒髪にも光沢が感じられるようになった。
以前のような慢性的な空腹感や、ふとした瞬間に襲ってきた目眩や体調不良は、嘘のように影を潜めていた。
体が満たされると、心にも少し余裕が生まれる。
夜ごと続ける木の枝を薙刀代わりにしながらの鍛錬にも、以前よりずっと集中して、そして力強く打ち込めるようになっていた。
伊奈帆は、言葉こそ交わさないものの、その知性的な黒い瞳で私をじっと見つめ、まるで私の思考の機微まで理解しているかのように寄り添ってくれる。
彼は私の唯一の理解者であり、この冷たく広すぎる屋敷の中で、心を許せる、かけがえのない友だった。
冬の間も、私とライカの訓練に休みはなかった。
凍てつくような空気の中、使用人たちの目を盗んで屋敷を抜け出し、森の奥深く、伊奈帆が見つけてくれた人目につかない秘密の拠点へと続く雪道を踏みしめる。
そこで、私たちは来る日も来る日も鍛錬に励んだ。
新しく手に入れた、硬い木を削り出して作った練習用の薙刀は、もはや私の手足の一部となりつつあった。
それを振るい、前世で体に叩き込んだ『流水槍術』――薙刀の基本にして奥義へと繋がる型を、繰り返し体に刻み込む。
呼気は白く凍り、汗はすぐに冷えて肌を刺すが、動きを止めることはなかった。
ライカもまた、驚くほどの成長を見せていた。
私が教えた基本的な短剣の扱いと、彼自身の持つ【風魔法】を組み合わせ、相手を翻弄しながら隙を突く、独自の戦闘スタイルを確立し始めていた。
風を纏って素早く動き、時には風の刃で牽制し、懐に飛び込んで短剣で切り裂く。まだ粗削りだが、その動きには確かな才能の片鱗が見えた。
「ライカ、もっと集中して! 風の流れを読むのよ! ただ力を込めて風を起こすだけではダメ! 相手の動き、空気の淀み、その全てを感じて風を操るの!」
訓練中、私は敢えて彼に厳しく声をかける。
「はい、アオイ様! …くっ、この連続技は、魔力制御が難しい…足元の風と、手元の風刃を同時に維持するのが…」
彼の額には玉の汗が浮かび、呼吸も荒い。
「弱音を吐かない。できるようになるまで繰り返すだけよ。時間は有限なのだから。私たちが生き延びるためには、感傷に浸っている暇はないわ」
彼の息が上がり、膝に手をついても、私は敢えて突き放すように言った。
甘さは、彼の、そして私の命取りになりかねない。
それが、彼を守ることに繋がると信じていたからだ。
ライカも、その私の真意を理解しているのか、悔しそうな顔をしながらも、唇を噛み締め、再び短剣を構え直す。
「…もう一度、お願いします!」
その瞳には、決して折れない意志の光が宿っていた。
(ライカの成長は目覚ましいわ。呑み込みが早いし、何より覚悟が決まっている。
でも、まだ足りない。もっと強くならなければ、私たちはこの理不尽な世界で生き残れない…!)
メイドのマリンさん――ライカの母親でもある彼女が、私たちの基礎的な体力づくりに加わったのも、この冬の大きな変化だった。
ある日、彼女は意を決したように私の前に進み出て、こう言ったのだ。
「アオイ様。僭越ながら、私もお二人の訓練の末席に加えていただけないでしょうか。
もし、万が一…いえ、いつか必ず来るであろう『その時』のために、私も少しでもお二人の足手まといにならないように、最低限の体力をつけておきたいのです」
彼女の瞳には、息子を守り、そして私と共に未来を切り開こうという、静かだが燃えるような覚悟が見て取れた。
貴族としての誇りを捨て、奴隷として生きることを強いられた彼女の、母としての、そして一人の人間としての強い意志だった。
初めは、走り込みだけでも息も絶え絶えだった彼女も、持ち前の芯の強さで、雪の中を走り、重い丸太を運び、私たちが教える奇妙な体操に思える、基礎筋トレにも黙々と取り組んだ。
メイドとしての過酷な仕事の合間を縫っての訓練は、どれほど身体に鞭打つものだっただろうか。
ライカも、そんな母の懸命な姿を、言葉には出さないものの、尊敬と心配が入り混じった複雑な表情で見つめ、自らの訓練に一層熱を入れるようになった。
(マリンさんの覚悟…ライカのため、そして私のために。私も、彼女たちのその想いに応えなければならないわ…)
幸い、私たちの食料事情は安定していた。
伊奈帆が時折もたらす新鮮な獲物(時々、驚くほど大きな鳥や、見たこともない毛皮の動物を捕ってくることもあった)。
隠し菜園で前世の知識を活かして品種改良まで試み始めた野菜たち(異常なほど甘いトマトや、寒さに強い葉物野菜などが育ち始めていた)。
そしてマリンさんが厨房から密かに、しかし巧みに「余り物」として確保してくれる栄養価の高い残り物(貴族の食べ残しとはいえ、私にとってはご馳走だった)。
一年以上続いたこの食生活は、確実に私の体を作り変えていた。
かつて鏡に映っていた痩せて青白い、見る影もなかった少女の面影は薄れ、今は同年代の子と比べても遜色のない、むしろ日々の鍛錬によって引き締まった、しなやかで健康的な肉体になっていた。
この体こそが、自由を掴むための、私の何よりの資本となる。
そして、待ちに待った春が訪れた。
長く閉ざされていた大地から草木が一斉に芽吹き、森が色鮮やかに息を吹き返し、土の匂いが満ちる生命の季節。
私は、より本格的な「逃走用」の物資調達を進めることにした。
ライカを伴い、そして伊奈帆を懐に隠して(彼の姿は絶対に人に見られてはならない)、私は久しぶりにフレッドの街へと向かった。
目的は、丈夫な靴と服、そして旅に必要な道具類だ。
「逃げる時は、何よりも足元が大事よ。丈夫で動きやすいものが必須。森や山を越えることになるかもしれないから、しっかりしたものを選ばないと」
街へ向かう道すがら、私はライカに説明した。
「はい、アオイ様。承知しております」
ライカは、以前のような怯えた様子は微塵もなく、頼もしい従者のように頷く。
私たちは、まず革製品の店を訪れ、森歩きに耐えうる底の厚い革製のブーツを、私とライカ、そしてマリンさんの分も合わせて三足選んだ。
少し値は張ったが、命を守るための投資だと思えば安いものだ。
さらに、動きやすく丈夫で、森に紛れやすい濃い緑や茶色の麻や木綿の服、下着や靴下も多めに購入した。
他にも、火打石、麻のロープ、防水加工された革袋、最低限の薬草や包帯などを、目立たないように少しずつ買い揃えた。
これらの品々は、拠点へと運び込み、すぐに持ち出せるよう、しかし誰にも見つからない場所に大切に隠した。
一つ一つ準備が整っていくたびに、まだ漠然としていた逃走という計画が、より確かな輪郭を帯びてくる。しかし同時に、失敗は許されないという重圧も増していくのを感じた。
そんな日々の中で、少し気がかりなこともあった。
伊奈帆の様子だ。時折どこかへ姿を消すのは相変わらずだが、最近は拠点にいる時も、どこか落ち着きがなくソワソワしていることが多い。
そして、頻繁に北の方角を向き、じっと一点を見つめているのだ。
「伊奈帆、あなたは何を伝えたいの? 北に何があるの?」
私が心配になって問いかけてみても、彼はただ「コン」と小さく鳴き、私の足に頭を擦り付けるだけで、また北を見つめる。
その瞳は、何かを強く訴え、私をどこかへ導こうとしているようにも見える。
(北…この屋敷よりもずっと北の方角。あの先に、伊奈帆の故郷か、仲間がいるの? それとも、何か危険が迫っている知らせ? …あるいは、魔石の出処と関係が…?)
以前、伊奈帆が珍しく大きな魔石を持ってきたことがあった。
もしかしたら、北には魔石が採れる場所があるのかもしれない。
(気になるけれど、今は逃げる準備が最優先だわ。事が落ち着いたら、必ず確かめないと…)
彼の謎めいた行動が、私の心に小さな、しかし消えない引っかかりを残していた。
◇
季節は夏本番を迎えようとしていた。
木々の緑は深く、日差しは肌を焼くように強い。
拠点の備蓄をさらに充実させ、そして何よりも逃走のための資金を増やすため、私は貯えてきた魔石、特に以前伊奈帆が捕らえてきたハイオークのものと思われる質の良い魔石を換金しようと決めた。
これはかなりの高値で売れるはずだ
。今回もライカを郊外に残し、伊奈帆を連れて、私は一人、再びフレッドの街へと向かった。
だが、じりじりと照りつける太陽の下、街の空気は春先よりもさらに重く、淀んでいるように感じられた。
市場の活気は失われ、人々の顔には暑さによる疲労と、それだけではない不安の色が濃い。
衛兵の姿が以前よりもやけに目につき、日陰でひそひそと交わされる会話には、「魔物」「徴兵」「税」といった不穏な単語が頻繁に混じっている。
(やはり、良くない噂は本当なのね…魔物の被害が領内の他の地域で広がっているのか、それとも…父上がまた何か良からぬことを企んでいるのか…)
警戒心を最大限に高めながら、魔石を扱っていそうな少し裏手の商人を探して歩いていた、その時だった。
「だから! これは、その、旅の商人からたまたま安く手に入れたもので!」
「嘘をつけ! この質の魔石が、そう何度も『たまたま』手に入るか! 正直に吐かんか、どこで仕入れたのだ! まさか、近頃噂の『盗掘者』の仲間ではあるまいな!? 男爵様は全てお見通しだぞ!」
路地の向こうから、甲高い言い訳の声と、それを遮るような兵士の大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
物陰から覗き込むと、そこには小太りで汗まみれの商人らしき男(後で思えば、あれがシュートを苦しめた悪徳商人オラライだったのかもしれない)が、数人の屈強な兵士たちに取り囲まれ、厳しい口調で詰問されていた。
兵士たちの腰には、フレッド男爵家の紋章が入った剣が見える。
聞こえてくる言葉の断片から、どうやら商人が扱っていた質の良い『魔石』の出所について、男爵家が血眼になって探しているらしい。盗掘、という言葉も聞こえた。
(ハイオークの魔石…! 今、こんな質の良い魔石を売ろうとしたら、間違いなく私も疑われる…! 最悪、捕まって全てを吐かされるかもしれない!)
全身の血が凍るような感覚。
彼らは、良質な魔石の出所を探している。
そして、それに関わる者を捕まえようとしている。
この街で、これ以上目立つ行動は命取りになりかねない。
私は即座に魔石の売却を断念し、音を立てずにその場を離れた。
(売却は中止。でも、このまま手ぶらで帰るのも…そうだわ、あれを頼んでおかないと)
私は踵を返し、以前訪れた街外れの馬宿へと急いだ。
強い日差しを避けながら馬宿に着くと、ラーニャさんとその両親は、私の突然の再訪に驚きながらも、快く迎え入れてくれた。
「ラーニャさん、お久しぶり。実は、急ぎでお願いがあるのだけど」
「まあ、アオイ様! どうかなさいましたか?」
ラーニャさんは心配そうに尋ねる。
「以前いただいた『ももちゃん(ロバ)』が、とても賢くて役に立っているので、もう二匹、ももちゃんと同じくらい、丈夫で大人しくて長距離を歩けるロバを譲っていただきたいの。それも、今すぐに」
私の言葉に、店主であるラーニャさんの父が難色を示した。
「い、今すぐに、ですか? アオイ様、それは少々無理がごさいます。
売れるロバはおりますが、蹄の手入れや健康チェック、気性の確認などで、通常はお渡しするまでに数日から一週間はいただいておりまして……」
「そこをなんとかお願いできないかしら。実はね、急遽、母と弟と三人で遠方の親戚を頼って旅に出ることになったの。事情があって、一刻も早く出立しなければならないのよ」
私はもっともらしい嘘を重ねたが、店主は困ったように頭を掻いている。
「お家のご事情はお察ししますが、万が一、整備不足でアオイ様たちに怪我でもさせては……」
やはり、正規の手順では時間がかかる。
だが、今の街の空気を感じた以上、数日待つという選択肢は私にはない。
私は懐に手を入れると、用意していた袋をカウンターの上に音を立てて置いた。
チャリ、と重たい金属音が響く。
「……これで、どうかしら」
袋の口を少し開けて中身を見せる。
そこにあるのは、鈍く、しかし魅力的な輝きを放つ金貨――それも5枚だ。
ロバ二頭の相場からは考えられない、法外な金額である。
「き、金貨……!? ご、5枚ですと!?」
店主の目が飛び出さんばかりに見開かれ、ラーニャさんも息を呑んだ。
「無理を言っているのは承知しているわ。これは、その『無理』を通してもらうための対価。
そして、口止め料も含んでいると思って。……一番いいロバを二頭、鞍と荷袋をつけて、今すぐここに連れてきて」
私の真剣な眼差しと、目の前の圧倒的な「現実」に、店主の商売人としての、計算が働いたのだろう。
彼はゴクリと唾を飲み込むと、顔を引き締めて深く頷いた。
「……かしこまりました。先日仕入れたばかりの、とっておきの二頭がおります。気立ても良く、足腰も丈夫です。すぐに準備させます!」
「ありがとう。助かるわ」
金貨の力は絶大だった。
店主とラーニャさんは大慌てで裏手の厩舎へ走ると、驚くべき手際で二頭のロバを連れ出し、簡単な手入れと装備の装着を済ませてくれた。
通常の手順を全て飛ばした荒業だが、今の私に必要なのは「丁寧さ」ではなく「速さ」だ。
市場で手早く保存食と、ライカの好物であるボアの串焼きだけを買うと、私は二頭のロバの手綱を引き、早々に街を後にした。
郊外で待っていたライカと合流する。
「ア、アオイ様!? そのロバは……!」
ライカは目を丸くして、私の後ろに続く二頭の新しい仲間を見つめた。
「話せば長くなるけれど……金貨5枚で『時間』を買ったわ。街の様子がおかしいの。数日待ってなどいられなかった」
「金貨5枚……! ですが、アオイ様のそのご判断、街のあのピリピリした空気を感じた後では、正解だと僕も思います」
ライカはすぐに状況を理解し、真剣な表情で頷いた。
「ええ。これで、母さんとあなたの分の足も確保できた。……ライカ、予定を早めるわよ」
私たちは人目を避けるように森の道を進みながら、早足で屋敷へと戻った。
隠れ場所で待っていたマリンさんに、私は街での出来事と、ロバを連れ帰ってきた事実を告げた。
彼女は、ライカの母として、そして私の侍女として、静かに、しかし決意に満ちた眼差しで二頭のロバと私を見つめた。
「……そうですか。やはり、風向きが変わってきているのかも知れませんね。いいえ、もう嵐が、すぐそこまで来ているのかもしれません」
彼女の声には、恐怖よりも覚悟が滲んでいる。
「金貨を使ってでも即座に移動手段を確保されたこと、賢明なご判断です。これで、いつでも発てますね」
「ええ。だから、マリンさん……ライカ」
私は、二人を真っ直ぐに見据えて言った。
「もう、猶予はないわ。いよいよ、ここを出る日は近い。その覚悟をしておいて」
「……はい。この命、アオイ様と、この子と共にあると決めております」
マリンさんは、隣に立つライカの肩にそっと手を置いた。
「はい! 僕も、アオイ様と母さんを、必ず守ります!」
ライカも、母と私を守るという決意を瞳に宿らせ、力強く頷いた。
街で感じた不穏な空気は、私の決意を最終的に固めさせた。この家に、この男爵領に留まり続けることのリスクは、限界まで高まっている。
準備は整った。ロバも手に入れた。
数日後に予定していたXデー。だが運命の歯車は、私の予想よりも早く、そして激しく回り始めていた。
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