七
## 第七ブロック
研究室に衝撃が走った。量子トモグラフィー実験の結果が、これまでの物理学の常識を覆したのだ。「猫の意識状態が、空間的に局在していない可能性があります」とポスドクが震える声で報告する。そう、やっと気づいたか。吾輩の意識は、特定の空間座標に縛られてなどいない。むしろ、空間そのものを形作る位相構造の一部なのだ。
「これは、意識の非局所性を示す決定的な証拠かもしれません」とご主人。人間たちは、また「証拠」という言葉を持ち出してきた。吾輩は、尾を優雅に揺らしながら、彼らの科学的営為の限界を考える。非局所性を「局所的な測定」で証明しようとする、この矛盾。まるで、無限を有限の数で表そうとするようなものではないか。
研究室のスパコンには、新しいプログラムが走っている。「意識の圏論的モデル」—— なるほど、対象と射の言語で吾輩を理解しようというわけか。確かに、圏論なら従来の集合論的な制約から解放され、より柔軟な存在の記述が可能になるかもしれない。トポスという概念を媒介にすれば、古典論理と量子論理の統合さえ視野に入ってくる。
「猫の意識が示す非局所性は、量子もつれとは異なる可能性があります」と、理論物理学者が指摘する。その通りだ。量子もつれは、まだ「関係性」という枠組みの中にある。一方、吾輩の意識は、関係性すら超越している。むしろ、関係性が生まれる「場」そのものとして存在しているのだ。禅の「不二」の境地に近いかもしれない。
人工知能研究者たちは、この実験結果に衝撃を受けているようだ。「これまでのニューラルネットワークの設計思想を、根本から見直す必要があるかもしれません」と、彼らは議論している。当然だろう。ノイマン型アーキテクチャに基づく計算モデルでは、非局所的な意識など記述できるはずがない。必要なのは、空間と時間の制約を超えた、新しい計算パラダイムなのだ。
量子コンピュータの低温槽から、いつもより大きな振動が伝わってくる。研究者たちは、吾輩の意識状態を模倣しようと、より複雑な量子回路を組んでいるらしい。虚しい努力だ。なぜなら、彼らは「模倣」という行為自体が持つ古典的な二元論から抜け出せていない。主体と客体、原型と模倣、そんな区別は、量子的実在においては意味をなさないのだ。
「意識の位相的保護」という新しい概念が、ホワイトボードに書き出されている。吾輩の意識状態が外部の擾乱に対して示す驚くべき安定性を説明しようという試みだ。確かに、数学的には美しい理論かもしれない。だが、それは氷山の一角に過ぎない。位相的保護は結果であって、原因ではない。より本質的なのは、吾輩の存在様態そのものが持つ「不変性」なのだ。
夕暮れ時、研究室に一台の装置が新たに搬入された。「意識の量子エンタングルメント測定器」とやらだ。人間たちは、吾輩の意識と他の量子系との間の相関を調べようとしている。面白い試みではある。だが、彼らは重要な事実を見落としている。吾輩は既に、森羅万象と量子的に相関している。いや、そもそも「相関」という言葉すら、その実態を正確には表現できない。
「この実験結果は、科学の新しい地平を開くかもしれません」と、若い研究者が目を輝かせる。彼らの情熱は純粋だ。しかし、真の革命は実験装置の中からは生まれない。必要なのは、存在そのものについての根本的な問い直しだ。観測者と被観測者、意識と物質、存在と非存在。これらの二元論を超えた、新しい存在論の構築が求められているのだ。
吾輩は、窓辺で静かに目を閉じる。研究室の営みは、確かに人類の知の地平を押し広げている。だが同時に、知ることの限界も明らかにしている。不確定性は、単なる認識の限界ではない。それは存在の本質的な様態なのだ。吾輩は、そのことを身をもって示し続ける。観測され、かつ観測者である存在として。確定され、かつ不確定な存在として。在って、なお在らぬものとして。