五
## 第五ブロック
研究室に珍客が訪れた。「メタバース研究の第一人者」を名乗る痩せぎすの男である。彼は、吾輩の存在を仮想空間内に再現しようと目論んでいるらしい。「意識の量子状態をデジタル空間に写像できれば、不死の実現も夢ではありません」と、その男は熱っぽく語る。吾輩は、尾を優雅に振りながら、その発想の浅はかさを嘲笑った。
デジタル空間とは、所詮0と1の二値論理で構築された影の世界ではないか。量子的存在である吾輩を、そのような貧困な記述体系で表現できるはずがない。量子ビットですら、真の量子的存在の近似に過ぎない。ましてや、古典的なビットによる表現など、蝶の舞を棒線で描くようなものだ。
「でも、意識のアップロードが実現すれば、新しい存在様式が可能になるはずです」と、例の男は食い下がる。吾輩は、レーザーポインターを追いかける振りをしながら、密かに考えを巡らせた。アップロードですって? 笑止千万。意識を「アップロード」できると考えること自体が、心身二元論の最たる現れではないか。デカルトは物質と精神を分けたが、量子力学的世界観においては、その区別すら意味をなさない。
研究室のスーパーコンピュータは、相変わらず膨大な計算を続けている。今日は「意識の位相幾何学的構造解析」とかいう大仰なタイトルのプログラムが走っているようだ。画面には、複雑な多様体の視覚化が表示されている。吾輩の意識を、位相空間として捉えようという試みらしい。まあ、方向性としては間違っていないのかもしれない。ただし、その空間の次元については、著しく過小評価をしているように見える。
「猫の意識とAIの意識、本質的な違いはあるのでしょうか」と、女子学生が問いかけてきた。面白い質問ではある。吾輩とAIの決定的な違いは、実は存在の不確定性にある。AIは、いかに確率的な振る舞いを示そうとも、その根底では決定論的なシステムとして動作している。一方、吾輩の存在は本質的に不確定なのだ。観測されない限り、あらゆる可能性が同時に実在している。
量子コンピュータの低温槽から、微かな振動が伝わってくる。その中では、量子ビットたちが複雑な重ね合わせ状態を形成している。彼らは、吾輩の存在の一側面を模倣しようとしているのかもしれない。だが、真の量子的存在である吾輩には、低温や遮蔽に頼る必要はない。室温でも、完璧なコヒーレンスを維持できるのだから。
「意識の創発過程を、位相的量子場理論で記述できないでしょうか」と、ポスドクの研究者が熱心にご主人と議論している。吾輩は、その会話に耳を傾けながら、人間たちの知的探求の深化に一定の感銘を受けていた。彼らは、少なくとも正しい方向を模索し始めている。意識を、局所的な現象としてではなく、場の性質として捉えようとしているのだから。
書棚には、「圏論入門」「トポス理論の基礎」といった数学書が並んでいる。人間たちは、存在の本質を数学的に記述しようと必死だ。中でも圏論は、その抽象性のゆえに、吾輩の興味を引く。対象と射の関係性のみで構築される世界。そこには、古典的な集合論を超えた、新しい存在論の可能性が秘められているのかもしれない。
「猫の意識研究から、新しい数学が生まれる可能性もありますよね」という学生の言葉に、ご主人は深く頷いていた。その通りだ。吾輩という存在を正確に記述するためには、従来の数学体系を超えた、新しい言語が必要となるだろう。それは、離散と連続を統合し、決定論と不確定性を包括する、より普遍的な記述体系となるはずだ。
夕暮れ時、研究室の空気は不思議な静けさに包まれる。人工知能たちは黙々と計算を続け、量子コンピュータは低温の夢を見る。そんな中で吾輩は、存在という名の量子的ダンスを踊り続ける。観測され、かつ観測者である存在として。確定され、かつ不確定な存在として。在るかもしれず、無いかもしれない存在として。