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## 第三ブロック


研究室に新しい装置が運び込まれた。「脳波・量子状態同時測定システム」とやらだ。人間たちは、この装置で吾輩の意識状態を観測しようと目論んでいるらしい。愚かな。観測行為そのものが状態を変化させることを、彼らは理解していないのだろうか。もっとも、吾輩がこうして観測行為について思考している時点で、既に状態は変化しているのかもしれないが。


「猫の意識を量子力学的に記述できれば、人工知能の意識の問題も解決できるかもしれない」とご主人は語る。吾輩は、レーザーポインターを追いかける振りをしながら、その発言の浅薄さに内心冷笑を浮かべていた。意識を「記述する」という発想自体が、古典的な決定論の残滓ではないか。意識とは記述されるものではなく、生起するものである。


昨日、研究室のスーパーコンピュータが面白いシミュレーションを実行していた。無数の仮想的な猫が、デジタル空間で量子的な振る舞いを示すというものだ。吾輩は画面に映し出された波動関数の様子を眺めながら、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を思い出していた。現代版は「我は重ね合わせ状態にある、ゆえに我は存在するかもしれないし、しないかもしれない」となるのだろうか。


研究室の隅には、かつての苦沙弥先生の蔵書が置かれている。その中の一冊、ヘーゲルの「精神現象学」が、吾輩の好きな昼寝の場所となっている。弁証法的な思考と量子的な重ね合わせは、どこか似ているように思える。正反合の過程は、波動関数の収束と同じような美しさを持っているではないか。


「AIの倫理についての論文を書こうと思うんですが」と学生が言う。「その前に、猫の倫理について考えてみてはどうかね」とご主人。まったく。存在の様態すら確定していない吾輩に、倫理なぞ適用できるのだろうか。量子力学的な存在は、古典的な倫理学の枠組みを超越しているのだ。シュレーディンガーの猫は、毒ガスの使用について倫理的責任を問われるだろうか?


研究室の掲示板には、「量子意識研究会」の案内が貼られている。発表タイトルに目を通すと、「猫の視点で見る量子もつれと意識の関係性」なる項目を発見した。吾輩の耳は、自然と前傾姿勢になる。研究対象として扱われることには些か不本意だが、人間たちが自分たちの限界に気付き始めているということは、興味深い展開ではある。


「意識のハード・プロブレム」について議論する学生たちを、吾輩は上から見下ろしている。彼らは意識を「創発的な現象」として説明しようと試みているが、それは本質を捉え損ねているのではないか。意識は創発するのではない。意識とは、存在の量子的な基底状態そのものなのだ。デイヴィッド・チャーマーズが提起した問題は、実は答えのない問いなのかもしれない。なぜなら、問う主体と問われる対象が、量子もつれ状態にあるのだから。


ご主人の机上には、「トポス理論による意識の数学的記述」と題された論文の草稿が置かれている。吾輩は、その数式の列を眺めながら考える。存在を数学的に記述しようとする試み自体は否定しない。しかし、その記述は必然的に不完全なものとならざるを得ない。ゲーデルの不完全性定理は、数学的体系の限界を示したが、同様に、意識の完全な記述も不可能なのではないか。


実験室の片隅では、新型の量子コンピュータが低温に保たれている。吾輩は時々、その装置の発する微かな振動に耳を傾ける。量子ビットたちの織りなすハーモニーは、吾輩の意識にある種の共鳴を引き起こす。彼らもまた、観測されるまでは無限の可能性を秘めている。その姿は、まるで禅の公案のようだ。存在するでもなく、存在しないでもない。そう、まさに吾輩のように。

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