003 教会の孤児
パタンと、1冊の本を閉じる。
開いていたのはこの世界のかなり大雑把な歴史を絵と少ない文字で記した児童向けの絵本だ。
『不老不死の魔法使い』を目指し、私が行動を初めてから半年の月日が流れた。
まず私が始めたのは文字の読み書きだった。
何せ私はこの世界の文字を読むことが出来ない。話すくらいは5歳になるまでに自然と覚えたけれど文字というのは自ら学ばなければ身につかない。
幸いにも読み書きはすぐに覚えた。
ある程度、文字の読み書きができるようになった後はひたすらに本を読み漁った。前世の、SNSに人生の3分の1を支配されていたような私は読書なんて滅多にしなかったはずだけど、幸いにも特に苦痛もなく手に入る限りの書物を読破した。
理由はやはり危機感なんだろう。
あれから半年経っても死に対する恐怖を和らぐどころか日々強くなっていく。今でも、かなりの頻度で眠れなくなる程度には私のトラウマは強い。
ほとんどの子供が誕生の後に最初に感じるのは親からの愛情のはずだけど私の原点は恐怖だ。その私の根幹に根差した恐怖は簡単に克服できるようなものじゃない。
しかし、その恐怖心とは裏腹に私の容姿は半年前よりだいぶマシになっている。
やはり死の恐怖に抗う希望が見つかったのが大きいんだろう。いや、希望に向かって行動出来るようになったから、か。人を絶望から救うのは希望ではなく没頭だと言ったのは誰だったっけ。
不老不死、不老長寿、永遠の存在。
全部夢物語りだけど、それに向かって行動してる間だけは少しだけ私は恐怖を忘れられた。
実際、私の図書館通いならぬ図書室通いは死の恐怖を誤魔化すためのメンタルケアに役立った。過度なストレスが寿命を削ることを知っている私としては文字通りの死活問題だ。
……まぁ、図書室と言っても私が本を借りていたのは年少組用の小さな図書室(あれは図書室と言うよりは衣服の代わりに本が詰まったウォークインクローゼットだ)で結局、詳しい魔法の勉強なんて出来なかったわけだけど。
だけど少なくともこの世界のある程度の知識は手に入った。
まず、最初にやはりこの世界は私の知る世界、つまりは地球でないということはやはり確定らしい。
この世界の形は大雑把な、かなり大雑把な世界地図を見ても私の知る地球の姿とはとは似ても似つかないものだった。なんでもこの世界は地球のような球形ではなく円形の世界だという。
私の住む国、アテルリシア王国はその地図で見るとちょうど中心線の北側。あるふたつの勢力を跨ぐ形で存在していた。
ひとつはアテルリシア王国も所属する人類陣営、そしてもうひとつは魔王が収める魔王陣営。
……この世界にはどうやら魔王も存在するらしい。
正直、そういう某国民的ゲーム的な展開はノーセンキューで、世界の危機なんてものはできるだけ私の知らない遠い場所で起きて欲しいけど、幸いにも今は魔王はこの世界には居ないらしい。
多分、魔王だけでなく魔物とか魔族とかもいるに違いない。モンスターはモンスターでもポケットに入るモンスターならいいのに。
……話を戻すとアテルリシアは世界的に見てかなり発展した国だ。私は当たり前に使っていたけど、トイレは水洗だし、毎日お風呂にも入れる。
これはこの世界ではかなりに恵まれた方らしい。
国土も超大国という程ではないけれど、それなりに大きく治安もいい。
上下水道が当たり前に使えるのは日本人として嬉しい限りだ。それが無ければ私の精神はもう少し荒んでいたかもしれなかった。
再び話を戻すと、アテルリシア王国には発展した先進国と言う側面とは別の顔がある。
魔導国 黄昏。
この国はその名の通り魔法が発展した国だという。
私は最初、その事を知って喜んだ。
魔法使いを目指す上で魔法が発展した国に生まれたという事実はかなり運がいい。
だけど同時に無視できない疑問も生まれた。
ひょっとしたらその疑問はこの先の私の行動を決める上でかなり面倒なことに……
「あ、こんなとこに居たのね。シロナちゃん」
そんな事を考えるとシスターのひとりが話しかけてきた。
殆ど完全な銀髪に榛色の瞳。フードは被ってなくて、ただ黒い帽子だけを被っているのは、この孤児院……というか教会では割と標準的な格好だ。たしか前世で知っているシスターは白いフードみたいな物で髪を隠してたと思ったのだけど。
彼女は私にも普通に話しかけてくる変わったシスターで名前は確か……
「シスター……………………クロエ、わたしに何かおはなしですか?」
「シロナちゃん、 ……君また私の名前忘れてたでしょ。まぁ仕方ないけどね」
ジトっとした上目遣い(なんとわざわざ腰を曲げてまでの上目遣い)で頭を撫でてくるクロエに、私は気まずげに目を逸らした。
彼女が言っている仕方ないとはこの孤児院には少なくともクロエという名前が3人、他にもクロノ、クロコと似たような名前のシスターや兄弟達が複数いるという話だ。
まぁ、私が彼女……というかこの孤児院に住むほとんどの名前を覚えていないのはひとえに私が他人に興味が無いからなんだけど。
しかしそんな私の内心を知らない彼女は(当たり前だが)まるで初対面の人と会うたびに性別を間違えられる中性的な少年がそうするように若干のあきらめと嘆息が混ざった表情で「名札でも付けようかしら」ため息をついた。
彼女のその、ある種の哀愁を漂わせる態度にはさすがの私も申し訳なさを感じた。
彼女が持ち込むつもりであろう面倒ごと、もとい何かしらの雑用を、断ったり避けたりするのではなく引き受けようと思う程度には。……5歳とは言っても、この世界では割と普通に簡単なお手伝いをするのは当たり前なのだから。
「それで、シスタークロエ、わたしはなにをすれば?」
「君のそういう話が早いところは美点だけど、まだまだ子供なんだからそんなかしこまった話し方はしなくてもいいのよ?」
そう言って彼女が私に任せた雑用は本当に簡単なお使いだった。
もちろんお使いといっても教会の敷地外どころか併設された孤児院に戻る必要もないほど簡単なものだ。
余談だが私の住む孤児院は教会と一体となっており、子供たちは普通、寝る時以外は教会で過ごす。これはおそらく孤児院の管理者である神父様やシスター達が子供を管理しやすいように彼らを誘導してるんだろう。
閑話休題。
シスタークロエの話を聞いた後、その指示に従い私は食堂で預かった聖餅をもって教会の外に続くの扉をくぐった。
目の前に広がるのは一見バザーにも見える炊き出しだった。
本来の意味において聖餅とは基本的には教会の儀式で使う発酵パンのことだ。だけどこの世界、あるいはこの教会では聖餅は炊き出しで渡す日持ちのいい保存食のことだ。
中身も単なる発酵パンではなくラム酒につけられた果物やナッツが入った上等なものだ。
渡す相手はごく少ないが浮浪者に見えるもの、これまた数えるほどしかいないけれどおそらくは裕福とは言えない家の子供などと、そして炊き出しに並ぶ大半の人間を占めるおそらくは町の外から来たらしい旅の僧侶といった格好をした者たちだ。
「神父様、追加の聖餅を持ってきました」
「おや、ありがとうございますシロナさん。……それにしても新しい聖餅はシスタークロエにお願いしていたはずなのですが」
「彼女はどうしたのですか?」と私から聖餅を受けとりながら子供相手にも当たり前のように頭を下げて感謝を示す彼に、私は一応は周囲を見回してから心持小さな声で応えた。
「またカミト達三兄弟が問題を起こしたみたいでシスターミカに援軍を頼まれたみたいです」
私は自分が、自分に迷惑をかけてくる相手が叱られている状況を嬉々として言いふらす意地の悪い子供に見えないように、できるだ表情を沈めながらシスタークロエから半ば伝言という形で聞いた事情を話した。
「彼らは、もしやまたしても君やほかの子供たちに迷惑を?」
その甲斐あってか彼は私相手に窘める言葉を出すこともなく、三兄弟がしでかしたことに注目しているようだった。
「そこまでは聞いていません」と、私はできるだけ事務的に答えた後、二三言葉を交わしてから彼と別れ教会に戻るのではなく三兄弟が問題を起こしたらしい裏の井戸と反対方向の孤児院へと続く庭へと歩を進めた。
孤児院の私のベッドがある大部屋に戻る道中で私はシスタークロエに声を掛けられる前まで考えていた事を思い出していた。
私の育ったこの場所の正式名称はサンマルコス教会。つまり孤児院はサンマルコス教会孤児院だ。
名前からも分かる通り、この教会は聖書の神を信奉している。割と平均的な日本人である私は前世では聖書についても彼らが信じる神についてもよく知らなかった。教えによって派閥があることくらいは知っていたけれど、家の近くの教会で時々ボランティアに参加していたくらいで、私にとって最も強くあの宗教に関わるのはクリスマスだった。
だけどそんな私でも知っている。
聖書の神を信仰するその教えは世界三大宗教の一角をなす地球の宗教だ。
なぜ地球の宗教が異世界でも一般的なものとして受け入れられているのか、どんな経緯で地球で生まれたはずの宗教が異世界にも広まっているのか。
考えても今の私にはわからない。
それに実のところ地球の宗教が異世界でも広がっている事、それ自体は私にはあまり関係ないことだ。問題なのはその教えと、そしてその教えに私は従わなければならないという点だ。
言うまでもなく私が目指しているのは不老不死の魔法使いだ。この目標は二つの意味で聖書の教えに反している。
一つは魔法の存在そのもの、そしてもう一つは不老不死の存在そのもの。
魔法についての是非は正直解らない。前世で言えば聖書の信仰において、魔法は魔女や悪魔が使う邪法のことだったはずだけど、こちらでは魔法は生活に完全に溶け込んでいてイコールで悪という訳ではないようだ。
だけど不老不死については明らかに彼らの教えに反している。彼らはいずれ来る審判の日に救世主が再臨し人々を約束の地に誘うと信じているのだから。不老不死という、神の領分を侵すそれを許すわけがない。
私は彼らの事を見下すつもりはない。
死の恐怖を知っている私だからこそ思う。
あの、あまりに恐ろしい恐怖に立ち向かうより、絶対的な存在に身を任せ、ただその慈悲に縋る。その方が明らかに健全で健康な人生を送れる。
前世の私はそれをただの逃避だと思っていて宗教そのものにあまりいい印象を持っていなかった。そして今は少しだけ理解出来て、同時に羨ましくもある。
見た事もない、直接話したことも無い誰かを信じ、殉じられる彼らが。
だけど私は知ってしまった。
死の間際に感じた抵抗のしようも無い恐怖を、自己が塵になって消えていく冷たさを、救いを求めて伸ばした手が誰にも掴まれなかった時の絶望を、知ってしまったから。
だから私には無理だ。
神に縋ってただその身を委ねるなんて、救いを求めるなんて。
不老不死の魔法使いになるのはたった一つ私が救われる方法だ。足を止めることなんてありえないし、手をこまねくなんて不可能だ。
だから
「やれることは、ぜんぶやろう」
私が彼らと道を分かつその時まで