気になる彼女と両想いだったはずなのにドジっ子のせいで誤解された。どうなる?
パリンッ
「あーあ」
床にガラスが落ちた音と女性たちの呆れ声でその場にいた者たちの会話が一瞬止まる。
「もー、志賀ちゃんはいつもいつも」
窓側のボックス席に座る四人の女性たちが各々服に水がかかっていないか確認している。その頃には周囲も彼女らへの興味を失い元通りの空気に戻った。そして俺が今気になっている彼女――堂島さん――はマスターに拭くものを借りて濡れた床を拭きはじめたところだ。
――堂島さん、まだ食べ終わってないのに。そんなの本人に拭かせろよ!
いつも“志賀ちゃん”を甘やかす堂島さんに少し苛立ちを感じながら彼女を見る。
堂島さんはいつもきっちり髪を結い上げていて、今はこちらに背を向けて拭き掃除をしているので、綺麗なうなじが今は眺め放題だ。苛立ちなんてすぐに忘れる。
それにしても――俺はコップを床に落とした張本人に視線をうつす。こちらは、ごめんねと言いながらオロオロするだけで手伝おうともしない。
――なんなんだ、本当に。
「金沢」
同僚の田中から名を呼ばれ、そちらに顔を向けると、「あまりジロジロ見るなよ」と注意された。
今俺は職場近くにある喫茶店で昼休憩中。窓際に4人がけのボックス席が3つとカウンター席が5、6席ある小さな喫茶店だ。目立たない場所にあるためか客はいつも同じ顔ぶれで、俺も上司に連れられて来てから常連になったクチだ。
志賀ちゃんと堂島さんは近くの会社に勤めている。たまにその会社のロゴ入りのジャンバーを羽織っているので知ることができた。あちらも常連。話したことすらないけれど。
志賀ちゃんはドジっ子というやつだろう。
よく転ぶ。ぶつかる。物を落とす。
昼休憩中の彼女しか知らないけれど、これで仕事がまともにできるのかと心配してしまう注意力のなさ。
今日は水の入ったコップを落として割った。
昨日はタバスコをとろうとして腕をのばした際、袖にミートソースがベッタリついていた。
その前はスカートを汚していた。
という風に、とにかく何もなかった日を俺は知らない。
(そういえば田中も彼女が勢いよくトイレのドアを開けたから鼻を打っていたな。誰かがドアの向こうにいるかもしれないと想像しないあの子がもちろん悪いが、トイレから出てくるのが志賀ちゃんかもしれないと予見しなかった田中も悪いから、これはカウントに入らないな)
「そうだ、彼女、今はフリーらしいぞ」
田中がニヤニヤして俺を肘で小突いてきた。田中の友人が堂島さんと同じ会社に勤めていて、部署は違うらしいがあの四人の中の1人と付き合っているらしい。
「そういうのやめろよ。付き合うとか考えてないし」
田中は俺が堂島さんのことが気になっていることを知っている。というか誰が見てもわかると言うが。
俺が気になっている堂島さんは、ドジっ子の世話係みたいな人だ。綺麗系で表情があまり変わらず冷たそうなのに、しょうがないなぁと言いながら甲斐甲斐しく世話をしている姿が意外で、それを眺めているうちにいつのまにか好きになっていた。
身なりはいつも整っていて、世話好きで、たまに笑う顔はもちろん輝いているし、こんな女性が恋人だったらいいなと思うけど――
(自分から話しかけるつもりはないし、いいなと思うだけで毎日が楽しいから俺は今のままでいい)
「えっ…! 俺、友達に頼んじゃったわ」
「なんのこと?」
「だから、お前と堂島さんのことだよ」
「は?」
田中は俺の反応を見るや慌てて立ち上がり、上着をつかむと、「すっ、すまん! あとは自分でなんとかしてくれ!」と逃げるように店を出て行った。
まさか、と振り返れば。
先ほどまで4人いた席は堂島さん1人だけしかおらず、他の3人は窓の外からこちらを見て手を振っていた。そして田中に手招きされ慌ててどこかに消えていった。
完全にお膳立てされた状態……ということか?
――ここで何もせず店を出るという選択はだめなんだろうな。
心を決め、堂島さんに小さく会釈をする。堂島さんも無表情だが会釈を返してくれた。
(たぶん俺の気持ちは伝わってるんだよな……それでもこうしてここに残ってくれているなら脈アリと考えていいのか? ああ、もうなんだよこの状況)
「金沢と申します。突然すみません。今、お時間は大丈夫ですか?」
とりあえず平静を装い話しかけてみる。
「堂島です。休憩はあと15分ありますから大丈夫です」
堂島さんの細い指が正面の席に向けられる。座って良いということか。礼を言って正面に座る。
初めて視線が合った。正面から見るのは初めてだけれどやはり綺麗な人だ。
「えっと……僕も突然のことで何を言えばいいかわからないのですが、田中からなんと言われたか聞いても?」
「はい。金沢さんが私とお付き合いしたいらしい、とお聞きしています」
――えっ! 付き合いたいって伝えちゃってるの!? 俺が言うことなくない?
「ま、まぁ、そんな感じです……」
「恋人になりたいということですよね」
「そ……そういうことになりますね」
それからどちらも口を閉ざした。俺は落ち着かずそわそわと視線を動かしているあいだ、彼女は正面を向いたままだ。
――気まずい。
堂島さんの表情は変わらず、たっぷり5分は経った頃、ようやく先ほどの自分の告白はとんでもなく失礼なものだと気がついた。
「違うんだ――」
自分ではちゃんと言葉を発したつもりが、焦っていたから掠れ声のようなものになってしまい、彼女が首をかしげた。言い直そうとすると、彼女が口を開いた。
「お気持ちが本当なら嬉しいです。実は私も金沢さんのことを気になっていていつも見ていましたから。あ、まだ続きがあるので最後まで話を聞いてください。
知ってました? 私と金沢さんは今日初めて目が合ったんですよ。毎日のように顔を合わせていたのに一度も目を合わせたことなかったなんてビックリですよね。でもそれは、金沢さんがずっとあの子ばかり見ていたからです。それで急に私のことを好きと言われて信じられますか?」
「は? え!?」
――あの子ってドジっ子のことか? 確かにいつも俺は堂島さんの横顔やうなじばかり見ていたから、俺に見られていても気づかなかっただろうけど……ドジっ子を見ていたのは堂島さんに世話をされて当たり前みたいな顔をしているのが憎たらしかったからで――
「それは誤解だ!!」
とにかく誤解をとくのが先だ。俺がドジっ子を好きだなんて誤解されるのだけは許しがたい。俺は信じてほしい一心で叫ぶ。
「その様子を見ると誤解だったことはわかりました。でも……そういうことじゃないんです」
堂島さんの表情は変わらない。
「そういうことじゃないって、どういうこと?」
「金沢さんがあの子のことを見つめていた姿を見て、ずっと羨ましく思っていました。こんなに想われていいなって」
「え?」
――なに? なんの話?
「私、すごーくヤキモチ焼きなんです。だから誤解だとしても、もう駄目なんですよ。好きな人以外にあんな目を向ける人は」
「あ」
「そういうことで」
「え、あ、はい」
彼女は、私以外の女性を見たら絶対に許さない系だった。ここまで言われてしまったら縁がなかったと諦めるしかない。もう駄目と言われたのだから、しかたない。
――なんて、納得するわけがない。
それからの俺は、なりふり構わず堂島さんにアタックを始めた。両想いだとわかれば引く理由はない。堂島さんも俺の本気の目を見て、本当に誤解だったと気づいたのか満更でもなさそうだ。恋人になるのも時間の問題だと思う。
ドジっ子のせいで危うかったけれど、あいつがいなければお互いに好きにならなかったかもしれないと思うと、あいつにも少しだけ感謝してやろう。彼女がヤキモチを焼くから今このときだけ。
終
普通の恋愛を書こうと思って書き始めたのに、今回もなぜかちょっと違う方向にいってしまいました……