褒めて、認めて、私を愛して
公爵令嬢ティアーシャ・フレンゼルは超が付く程の目立ちたがり屋だ。
父親は国一番の資産家、母親は隣国出身の元王女。
眩いプラチナブロンド、宝石のように煌めく緑色の瞳を持ち、女神のような美貌を誇る生粋のお嬢様だ。
そんなやんごとなき生まれのせいだろうか。相当な自信家で、周囲にありとあらゆる自慢をして回っている。
最先端のオートクチュールで埋め尽くされたクローゼットに、国宝級のジュエリーがギッシリ詰まった宝石箱。王城に勝るとも劣らない広大で豪奢な屋敷に、豊かな領地。果ては、愛らしいペットや王室御用達の茶器、美術品の数々、隣国の王族との関りに至るまで、彼女の自慢話は非常に多岐にわたる。
(よくもまあ、あんなに話題が尽きないもんだ)
ティアーシャをぼんやり眺めつつ、ノアは小さく息を吐く。
貴族と言うのは見栄と嘘で塗り固められた生き物だ。虚栄を張り、体面を保ち、そうして特権を享受し続ける。
だから、自慢話をするのはティアーシャだけではない。寧ろ、クラスの人間の殆どがそうだ。
けれど、ティアーシャのそれは、ノアから見ても明らかに突出していた。
いつでも、何事にも一番になれるよう、神経を研ぎ澄ましているように思うし、それだけの努力をしていることも見ていて分かる。けれど、噂話に敏感で、誰かが褒められるのを見る度に酷く傷ついたような顔をする。
(あれだけ持っているんだ。普通はもう十分だろう?)
誰もが羨む程の美貌に財力を持ち、知力に優れ、あらゆる分野の才能に恵まれている。それなのに、これ以上何を望むというのだろう? ノアにはそれが不思議で堪らなかった。
「私に何か御用? ディートリヒ様」
その時だ。
ノアの視線に気づいたらしいティアーシャが、そう言って小さく首を傾げる。
「……いや、用という訳じゃないけど」
「でも、私のことを見ていらしたでしょう?」
さすがは目立ちたがり屋。興味関心、好奇心と言った視線に人一番敏感だ。ティアーシャは嬉しそうに微笑みながら、ノアの元へと駆け寄る。
「私のことで何か知りたいことが有るんじゃございません? 何でも話して差し上げますわよ」
「いや、聞かなくても大体知っているし……」
いつもそこかしこで誰かしらと話をしているのだ。直接聞く必要は無いように思う。
けれど、ティアーシャの猛攻は止まらなかった。
「まあ! もしかしてこれ、私?」
彼女が指さした先には一冊のノートがあり、ティアーシャの姿が繊細なタッチで描かれている。またその周りには、美しい王都の景色や、荘厳な城、愛らしい猫や他のクラスメイト達が、活き活きと描かれていた。
「すごいわ! あなたって絵がとても上手なのね」
「そりゃあ、どうも」
興奮した面持ちのティアーシャを尻目に、ノアは淡々とそう応える。お世辞でないことぐらい、彼女の様子を見ていれば分かる。ノア自身、ある程度の矜持を持ち合わせており、謙遜する理由は何処にもなかった。
「まるで本物みたい。この猫なんて、今にも動き出しそうね」
「まあ、そう描いてますからね」
近年流行っているのは、抽象的な絵柄だ。全く別の物にしか見えなかったり、自然界に存在しない色彩で描かれることも多い。ティアーシャが新鮮に思うのも当然だろう。
「そうだわ……!」
ティアーシャは突然身を乗り出し、瞳をキラキラと輝かせる。何だろうと思いつつ、ノアはまじまじと彼女を見つめる。
「ディートリヒ様、私を描いていただけませんか?」
「…………は?」
***
ティアーシャの屋敷、フレンゼル邸は王都の郊外に存在する。
馬車で門をくぐってから既に十分。未だ屋敷の全貌が掴めていない。車窓には広大かつ優美な庭園が広がっており、ノアは小さく息を呑む。
「どう、どう? すごいでしょう、我が家は!」
「そうですね。すごいと思います」
興奮気味のティアーシャに対し、ノアの態度は素っ気ない。けれどそれは、興味が無いからではなく、スケッチをするのに忙しいからだ。
「たくさん描いてね! あなたの絵があれば、説明がしやすくなりますもの」
そう言ってティアーシャは上機嫌に微笑む。
ティアーシャの目論見はこうだ。
『最近、皆さまが私の話に飽きているようですの』
『まあ、そうでしょうね』
幾ら話題に事欠かないとはいえ、そもそも人の自慢話を喜ぶ人間はそう居ない。最初は物珍しさや、将来的なメリットを踏まえて聞くだろうが、それらを持続させるのは難しいからだ。
『だけど、あなたの絵があれば、私の生活を疑似体験してもらえるかと思いまして』
『疑似体験?』
思いがけない言葉に、ノアは小首をかしげる。
『ええ。私がどれだけ素晴らしさを説明しても、全く見たことがないものって想像しづらいでしょう? だけど、実際にどんな物かを見てもらえれば、それらを自分に置き換えることも容易いだろうなぁと。【このドレスや宝石、屋敷が自分のものだったら】って想像したら、絶対に嬉しい。楽しくなるだろうと思ったのです』
(……いや、それはどうだろうか?)
ノアにはよく分からない感覚だが、そういう人も居るのかもしれない。少なくとも、ティアーシャはそう信じているようなので、疑問の言葉はそっと呑み込む。
『ですから、ディートリヒ様には私や私のもの、屋敷等を描いて欲しいと思いまして』
期待に満ちた眼差し。彼女の原動力は『他人に認められること』に他ならなず、そのためならば何だってするのだろう。
(そんなことしなくても、皆が羨んでいると思うんだけどな)
そう思いつつも、ノアはティアーシャに興味があった。理解が出来ないものほど描き甲斐がある。それに、綺麗なもの、美しいものは出来る限りこの目に焼き付けておきたい。
『承知しました。俺で良ければ描きましょう』
『本当ですか!?』
『ええ。だけど、貴女の婚約者は大丈夫なのですか? 俺が貴女の屋敷に出入りすることを嫌がるのでは?』
ティアーシャには一つ年上の婚約者が居る。エミールと言う伯爵令息で、誰もが羨むような甘いマスクの男性だ。二人の婚約は学園内では周知の事実で、彼と婚約をしていることもティアーシャの自慢の一つなのだが。
『――――エミールにはきちんとお伺いを立てます。彼にダメだと言われたら諦めますわ』
そう口にし、ティアーシャは穏やかに微笑む。らしくない表情だと感じながらも、ノアは小さく頷いた。
屋敷に到着すると、太陽が燦々と射し込む広間へ案内される。ティアーシャのために用意された、光り輝く舞台のような部屋だった。豪奢なドレス、宝石箱が運び込まれ、ティアーシャがそれらを選び取る。
「それで? どれから描きましょう?」
「まずはこのイヤリングを着けた私を」
ティアーシャの耳元で、大きなエメラルドが揺れ動く。親指の爪よりも大きな、美しい宝石だ。周りにはダイヤモンドが散りばめられ、キラキラと輝きを放っている。
「さすが、すごい宝石ですね」
「ありがとう。おじいさまから戴いた、大切なものなのですわ」
はにかむ様に笑いながら、ティアーシャはそっとイヤリングを撫でる。
(意外だな)
普段あんなにも自己顕示欲に塗れているのに、実際に褒めてみたところで、そこまで大きな反応は返ってこない。ノアの褒め方が悪いのか、はたまた何か別の理由があるのだろうか。
「出来ました。次を描きましょう」
「もう? そんなに早く描けるものなの?」
そう言ってティアーシャは、ノアの手元を覗き込む。
「いえ。そもそも大した画材を持参していませんし、一枚をじっくり描き上げるよりも数量が多い方が良いでしょう? 仕上げは俺の家でやった方が効率が良いですから」
ティアーシャは承認欲求を満たしたいだけなのだから、重視すべきは質より量だ。他人に『すごい』『いいね』と言って貰うのが目的なのだし、一枚一枚に時間を掛ける必要はない。
「だけど、時間を掛けた渾身の一枚を描いた方が、ディートリヒ様にとって良いんじゃありませんこと? そりゃあ元々お上手ですけど、そちらの方が皆の称賛を集めるに違いありませんのに」
「俺は、誰かに褒められたいと思ったことがありません」
「え?」
ノアの返答に、ティアーシャが目を見開く。予想通りの反応に、ノアは思わず小さく笑った。
「称賛など求めていません。ですから、貴女の目的を優先していただければそれで……」
「褒められたいと思わないんですか?」
ティアーシャが尋ねる。表情から、彼女の困惑ぶりが手に取るように分かった。
「ええ」
「認められたいと思わないの? 本当に? 全く?」
どうやら信用していないらしい。ノアは静かに頷いた。
「そりゃあ、俺だって褒めて貰えるのは嬉しいですよ。だけど、それはあくまで結果論であって、目的じゃありません」
ティアーシャはまるで迷子のような表情でその場に佇んでいた。普段、自信満々な笑顔ばかりを見ているため新鮮だ。どちらかといえば、こういう表情をこそ絵に残したいとノアは思う。
「さあ、次は何を描いて欲しいですか?」
問い掛けに、ティアーシャは気を取り直したように微笑む。
それから、侍女達と共に次の題材となるドレスを選び始めた。
***
ティアーシャの目論み通り、ノアの描いた絵は凄まじい威力を発揮した。
視覚のもたらす効果は絶大で、彼女の周りにはいつも人だかりが絶えない。
「素敵! 話には聞いておりましたが、こんなに素晴らしい逸品でしたのね!」
「わたくし、こちらのドレスをお作りになったサロンを是非ご紹介いただきたいわ!」
以前からティアーシャを褒めそやしていた令嬢たちではあるが、目の色が明らかに違っている。絵を眺め、目を瞑り、ややしてまるで自分がティアーシャに成り代わったかのように、頬をウットリと染めるのだ。
「今度お屋敷にお邪魔しても構わない? 実物を見てみたいわ」
「もちろん。是非いらっしゃって?」
目論見が上手くいったため、ティアーシャはとても嬉しそうだ。ノアとしても描いた甲斐があったと思う。
「ところで、こちらの絵はどなたがお描きになったの? 素晴らしい腕前ですわね」
ある時、令嬢の一人がそう尋ねた。
ティアーシャは嬉しそうに瞳を輝かせつつ、唇に人差し指を押し当てる。
「残念ながら、それはお教えできませんの。けれど、貴女の言葉は必ず、私が本人に届けますわ」
教室の隅でノアが笑う。届けるも何も、描き手本人はここに居る。
どうも、と小さく口にしながら、自分が褒められた時よりも嬉しそうに笑うティアーシャの姿をノアはぼんやりと眺めていた。
***
侯爵令息ノア・ディートリヒは、変わった男だ。
由緒ある侯爵家の二男であるというのに、偉ぶったところが一つもなく、誰かとつるんでいる様子もない。かといって、社交下手かと言えばそういうわけでも無いようで、要所要所を押さえている。
それから、いつもどこか一点をじっと見つめ、微笑んだり、首を傾げたり、場所を変えて眺めてみたり、不思議な動きをする人という印象だった。
(あれは、気になった物を観察していたのね)
長い前髪から覗く鮮やかな青い瞳が、目の前のティアーシャを真っ直ぐに見つめる。虚栄心も嘘もなければ、欲すらも削ぎ落された無垢で澄んだ瞳だ。
ノアと一緒に居ると胸のあたりがざわつく。己の内面を覗かれているような、暴かれているかのような気分になる。
彼と過ごすようになって以降、ティアーシャは己を客観的に見るようになった。というより、彼の絵を通して視ざるを得なくなったというのが正解だ。
何よりも他人の目を気にしていた筈なのに、ティアーシャには肝心の己の姿が全く見えていなかった。ティアーシャを彩るのは見栄でも嘘でも無いけれど、彼女の内面は何処か虚ろで、溢れかえる自慢話で己を武装しているかのような、そんな印象を受ける。
「ノア様は将来、どうなさる予定ですの?」
「どう、とは?」
「絵をお仕事になさるおつもりなのですか?」
「まさか。二男ですし、家族からは好きにしていいと言われていますが、これでも貴族の端くれですから」
「ノア様のご家族はそのう……仲がお悪いのですか?」
ふと、これまで抱いてきた疑問をぶつけてみる。ノアはキョトンと目を丸くし、クスクスと笑い声をあげた。
「いいえ。家族仲はすこぶる良好ですよ?」
「そう……ですか」
「どうしてそう思われるのです?」
今度はノアが尋ねる。己の本質に容赦なく切り込まれている感覚がして、ティアーシャは静かに息を呑んだ。
「……ずっと気になっていたのです。あなたには承認欲求というものが全くないから」
元々の能力が低いから? 家族仲が悪いから? 己自身に興味が無く、期待も抱いておらず、どうでも良いと思っているから? だから『誰かに認められたい』と思わないの?――――ティアーシャは最初、そんな予想を立てていた。
だけど、ノアは己を大事にしているし、決して志が低いわけでも無い。何事にも一生懸命に取り組んでおり、堅実に将来設計をしている様子が窺える。
自分と正反対の人間なのだろうか――――そんなティアーシャの考えは、完全に間違っていたようだ。
「ねえ、ノア様。あなたはどうして、いつもそんなに満たされているの?」
ティアーシャはそう言って唇を噛む。
違う。本当に知りたいのはそちらではない。
何故ティアーシャは満たされないのか。
どうやったらノアみたいになれるのか。ティアーシャはそれが知りたくて堪らなかった。
(辛い。苦しい)
どれだけ己を飾り立て、素晴らしい物に囲まれて暮らしていても、ティアーシャの心が満たされることはない。
望めば何でも買い与えられ、類まれな美貌にだって恵まれた。
多くの人に褒めそやされ、家族に愛されていたとしても、決して埋まらない溝がある。
決定的に足りない何かが存在する。
『ティアーシャの絵?』
ふと脳裏に蘇る冷たい声音。次いで、一人の男性の姿が浮かび上がる。ティアーシャの婚約者であるエミールだ。
『ええ! 先日お話しましたでしょう? クラスメイトのディートリヒ様に私を描いていただいたのです。新しくドレスを作ったから、エミールにも見ていただきたいなぁと思って。絵を見て興味を持っていただけたら、是非我が家においでいただきたいと……』
『悪いけど、全く興味ない』
ふ、と小さく嘲笑い、エミールはそのまま踵を返す。
彼の傍らにはいつもと同じ、幼馴染の女性の姿がある。
ティアーシャがエミールを見初めなかったら――――結婚したいと駄々を捏ねなかったなら、彼の妻になったであろう女性だ。
(どんなに頑張った所で、エミールは私を見てくれない)
婚約した当初は、ティアーシャだって希望を持っていた。
たとえ金と権力にものを言わせた政略結婚だとしても、いつかはティアーシャのことを見てくれる。愛してくれるだろうと思っていた。
けれど、彼のティアーシャの扱いは年々悪くなるばかり。まるで空気か、その辺に落ちている石ころの如く扱われる。
嫌われた方がまだマシだ。無関心の方が余程辛い。
せめて興味を持って欲しい――――話題を振りまけば多少は関心を惹けるだろうか――――そうして出来上がったのが、今のティアーシャの姿だったのである。
ティアーシャの瞳から涙がポロポロと零れ落ちる。
エミールは本当に、ティアーシャに何の関心も示さなかった。同級生の男性を屋敷に招き入れたことも、寧ろ喜んでいる様子であったし、ティアーシャをその目に映しはしない、声も聴かない。婚約者としての形ばかりのやり取りすらも交わしてはもらえなかった。
「あなたは何と言うか……不器用な人ですね」
ノアがそう言ってハンカチを差し出す。愛らしい刺繍の施された薄紅色のものだ。
「ありがとう」
受け取りつつも俯いたままのティアーシャに、ノアが微かに苦笑を漏らす。
「早く拭かないとドレスが染みになりますよ?」
「……良いのよ、もう」
ドレスなど気にして何になろう? ティアーシャにはもう、自分が何を求めていたか分かってしまった。そして、それが決して手に入らないということも。
「ほら。貸してください」
ノアはティアーシャからハンカチを奪い取ると、ポンポンと丁寧に拭ってやる。あまりにも優しいその手付きに、寧ろ涙が溢れ出た。
「ごめんなさい、ノア様」
「何がです?」
「あなたの婚約者のハンカチをこんな風に汚してしまって……」
見事な刺繍の施されたハンカチだ。恐らくは婚約者か、ノアを想う令嬢からの贈りものなのだろう。
今さらながら、相手の女性には酷いことをしてしまった。ティアーシャのくだらない承認欲求のために、今頃寂しい思いをしてはいないだろうか? 苦しんでいないだろうか? 申し訳なさに心がつぶれる。
本当はノアに声を掛けたのも、屋敷に呼び寄せたのも、彼や彼の絵に興味を持ったというより、エミールの関心を惹きたかったからなのだろう。無意識とはいえ、彼を当て馬にしたことを、ティアーシャは心から恥じ入っていた。
「婚約者なんて居ません。このハンカチに刺繍をしたのは俺ですから」
「えっ? ノア様が?」
驚きのあまり、涙が引っ込んでしまった。ノアは瞳を細めつつ、刺繍の部分を優しく撫でる。
「ビックリした。あなたって本当に器用なのね。自分に正直だし……とても良いと思う」
「そうでしょうか? ……いや、そうかもしれませんね」
そう応えたノアの表情は優しくとても穏やかで、なんだか嬉しそうに見える。ティアーシャは胸が温かくなった。
(やり直そう)
もう一度、一から。
ティアーシャは前を向くと、力強く微笑んだ。
***
「婚約を解消しましょう」
ティアーシャが言う。彼女からの呼び出しに応じたエミールは、向かいの席で静かに息を呑んだ。
「本気で言っているのか?」
「ええ。これまで私のワガママのせいであなたを縛り付けていたこと、本当に申し訳なく思っています」
そう言ってティアーシャは頭を下げる。エミールは慌てて首を横に振った。
「……いや、悪いのは明らかに僕の方だ。キッカケがどうであれ、両家が納得の上婚約を結んでいるんだ。あんな態度を取るべきではなかった。今さらではあるけれど、本当に反省している」
一体どんな心境の変化だろう。エミールは後悔を滲ませながら、深々と頭を下げる。
「君の――――絵を見たんだ」
「……え?」
「先日、ディートリヒ様に呼び止められてね。君がどれだけ苦しんでいたか、悲しんでいたか知るべきだと言われた。頭を強くぶん殴られたような気分だったよ。本当に僕は、君のことを全く見ていなかったんだな」
そう言ってエミールは、分厚い紙の束をティアーシャに手渡す。
「ノア様……」
渡された紙に描かれているのは、どれも寂しそうな表情を浮かべたティアーシャだった。彼の目に映る自分はこんな表情をしていたのだろうか。ドレスやジュエリーで飾り立て、誰にも見せないようにしていた筈の自分の姿が、そこにありありと描かれている。ティアーシャの目頭がグッと熱くなった。
「今さらかもしれないが、やり直せないだろうか?」
エミールが言う。彼の瞳は、これまで頑なに避け続けていたティアーシャのことを真っ直ぐに見つめていた。
「彼女とは別れた。これからは君を幸せにしたい。どうか僕の手を取ってくれないだろうか?」
それは、ティアーシャがずっとずっと待ち望んでいた言葉だった。エミールに己を見てもらうこと、彼と共に幸せになることが、ティアーシャの望みだったのだが。
「私も――――あなたのことをきちんと見ていなかったみたい」
ティアーシャはそう言って朗らかに微笑む。悲しみも憂いも、それから、何の欲も無くなった彼女の笑みは、あまりにも美しく光り輝いていて。エミールは静かに息を呑んだ。
「ごめんなさい。本当の私を見て欲しい人が――――好きになって欲しい人が居るの」
***
静かな室内に、紙片と木炭が擦れる微かな音が鳴り響く。
「――――婚約を解消されたそうで」
「あら、もうお聞きになったの?」
質問に質問を重ね、ティアーシャは静かに微笑む。
「あなたはいつでも話題の中心ですからね。そう言った情報はすぐに入ってきますよ」
応えながら、ノアはティアーシャをまじまじと見つめる。
「……悲しくありませんか?」
「いいえ、ちっとも。これがそんな表情に見える?」
ティアーシャが微笑めば、ノアは首を横に振る。
ティアーシャはもう、誰かに褒められたいとは思わない。話題の中心に居ることだって、嬉しいとは思わない。あんなにも強く『認められたい』『褒められたい』と思っていた筈なのに、人は変われば変わるものだ。
豪奢で煌びやかだったティアーシャの私室は、随分とものが減り、シンプルかつ優美な空間へと変貌を遂げている。彼女が着ているドレスも、美しい素材をそのまま生かした上品なデザインへと変わっていた。
「……実は俺、ティアーシャ様のお陰で、最近承認欲求というものが理解できるようになってきまして」
「あら、そうなの?」
無欲で、承認欲求とはかけ離れた人だったというのに、一体どういう心境の変化だろう? 尋ねれば、ノアは僅かに頬を染め、静かに視線を泳がせた。
「貴女と……貴女のお父様に認められたいと思っています」
「え?」
ティアーシャの胸が高鳴る。頬が熱を持ち、身体がふわふわと宙に浮かぶような感覚に襲われる。
ノアはティアーシャの前に跪くと、彼女の手を優しく握った。
「今は未だ婚約を解消したばかりで、結婚について考えられないかもしれません。けれど、俺は貴女が――――ティアーシャ様が好きです。いつか貴女に認められたい。幸せにしたいと思っています」
ティアーシャの頬を涙が伝う。躊躇いながらも、ノアはティアーシャを抱き締めた。
「私……私も、今度は……今度こそちゃんと、本当の自分を見て欲しいって」
「うん」
嗚咽を漏らすティアーシャの背を、ノアは優しく撫でる。
「それで、私を好きになって貰えたらって……そう思って」
「その相手は『俺』ってことで良いですか?」
ノアの瞳が微かに揺れる。期待と不安で揺れ動く、欲に濡れた瞳だ。つい先日までティアーシャが浮かべていたであろう表情によく似ていて、彼女は思わず笑ってしまう。
「もちろん! ノア様が良い。大好き!」
幸せそうに笑うティアーシャに、ノアの笑顔が弾ける。
それから二人は、初めての口づけを交わしながら、互いをきつく抱き締めるのだった。
本作を読んでいただき、ありがとうございました。
この作品を気に入っていただけた方は、ブクマやいいね!、広告下の評価【★★★★★】や感想をいただけますと、今後の創作活動の励みになります。
改めまして、最後までお付き合いいただきありがとうございました。