第3話 墜落
翌日、窓際最後尾のあの席に、あかねの姿は無かった。
西園寺あかねは失踪した。それも実に不可解な形で。
あかねは他の失踪者と同じく、失踪する直前に「自分のドッペルゲンガーを見た」と言い、そして消えた。
だが、彼女は家に帰ってからどこにも外出はしていなかった。帰宅して部屋に行き、夕飯時になっても降りてこなかったという。母親が彼女の部屋に行くと、読みかけの本がページを開いたまま机に置いてあり、そして彼女の姿はどこにもなかったのだった。
荷物も部屋に置いたまま、靴も一足も欠けていない、どこにも出掛けていない、しかし彼女は消えた。窓の鍵も施錠されていたにも関わらず。
この話は、夕べ心配になってあかねの家に電話を掛けたとき、母親から説明してもらったことだった。あかねの携帯は、その前から音信不通だった。
「……ありえないだろ」
点滅する街灯に蛾が群がる真夜中、楓は言った。
人気の無い路地裏に、楓と麻生は身を潜めていた。
「本当にドッペルゲンガーの仕業かもな」
「面白がるなよ」
咎めるように言う。あかねが失踪してから、あかねの言う「面白がってるのね」という言葉の重さが分かった。気分のいいことではないだろう、自分が失踪するかもしれないのに。
「……悪い、そんなつもりじゃ……ないわけないか。でも不思議というか、どう説明したらいいんだ? こんなこと」
「わからない……」
「西園寺は失踪前にお前に言ったんだろ? ドッペルゲンガーのこと」
「言ったさ。でも勝馬のときは何も聞いてなかった。誰もドッペルゲンガーの話なんて聞いてない。そんな話、全部が全部そうだってことはない。ただ何人かが言ってるだけだ」
だから違うと信じたい。そんな非科学的なものに巻き込まれているのだとしたら、自分には何も出来ない。どうしようもない。――何も出来ない?
あかねの背中を黙って見送った時の感覚を思い出した。
いや、有り得ない。
「何にせよ、これで何か分かるかもしれないよな」
「ああ」
楓と麻生は、それぞれ武器になるものを所持していた。楓は野球のバッド、麻生はたまたま持っていた傘。
二人は放課後から現時刻まで、ずっと街を徘徊していた。自分の「ドッペルゲンガー」とやらに会うために、もとい、犯人に自ら遭遇するためである。
――自分も失踪者の一人になればいい。そうすれば全ての真相が分かる。
だが、こうした事件が起きていることで警察の巡回がないわけもなく、二人はこうして身を潜めるように街を徘徊していた。
「なあ、いいのか?本当に」
「お前こそ俺に付き合わなくたっていい」
「いや、そんなこと言われてもな……一応ちゃんと心配なんだよ」
「今一伝わらないな、それ……」
「相手が一人じゃなかったらどうするんだよ。それにお前から今日のことを聞いておいて、それでお前が失踪でもしたら後味悪いだろーが」
「まあ無策だけどな」
これで事件の犯人に出くわしたら、何の抵抗も出来ずに自分も失踪者の仲間入りを果たすかもしれない。だがそれでも知りたかった。
あかねを誘拐した犯人を。
何故あかねが失踪しなくてはならなかったのか。何故あかねなのか。あかねはどこへ消えたのか。どんな奴があかねを失踪に追い込んだのか。そして、どうやってあかねは失踪したのか。全てを知りたかった。
我ながら現金な奴だと思う。仁井田勝馬の時、自分は何もしなかった。何もしようとは思わなかった。それなりに付き合いのある奴だったが、自分の身を危険に晒してまで何かをしようとはしなかった。あかねだからこうした。だが俺は卑怯なことに、犯人を見つけあかねを救い出せたとしたら、勝馬もきっと助け出せると思っている。本当は、あかねのことしか考えていないのに。
冬の近づく寒空の下では、夜が長い、闇が深い。点滅する街灯は闇を照らすにはあまりに頼りない――。
「おやおや」
若い、男の声が闇夜に響く。
驚きよりもまず、寒気が背中を伝った。何故ならそれは楓と、麻生の背後から聞こえた声だったからだ。そこから聞こえることなどまず有り得ないという場所から。
「こんな時間に夜のお散歩かい? あぶなっかしいねェ。こんな時に?」
「……!」
行き止まりであるはずの場所に、唐突に人影が現れた。今さっきまで気配も物音もなく、そこに現れることなど不可能な場所に、唐突にだ。
「いけないよォ、お前も『失踪者』の一人になっちゃうよ?」
そういって笑う男は、頭の上から布を被り、顔どころかその全貌を見せようとはしない。強盗犯が顔を隠すのと同じで、見るからに妖しい雰囲気が漂う。いや、その男が持つ雰囲気そのものが異様というしかないのだが。
「余計なお世話だ、ほっといてくれ」
「心配してる相手に大そうなことを言うねェ。生意気で結構」
男はそこで言葉を切り、そしてまた面白おかしそうに言葉を紡ぐ。
「でも長生きはできないねェ。殺されちゃうよ? あぁ、俺にね」
そういって、背中に担いでいた大剣を地面にズシンと突き刺した。その重低音からして相当な重さだろうが、その大剣を携えた腕は自分とそう変わらない細腕だった。
その異様な風体と、異様な言動。かもし出す雰囲気がすでに常人とは違う。
危険信号が頭の中で点滅し、本能が目の前の男を拒んでいる。危険だと訴えている。足元から粟立つ。
「だ、誰なんだお前……!?」
麻生が半ば叫ぶように尋ねると、男は「ハハッ」と軽快に嘲笑った。
「ドッペルゲンガー?って奴?」
「……何言ってんだよ、本当にそんなのがあると思ってるのか?」
「さァ?そんなの俺は知らないね。お前らが言ってることだろォ?」
「あるわけないだろ……そんなこと! あるわけないんだ、ドッペルゲンガーなんて」
「頭が固いやつだな。流石はトネリコ・ルガンスの片割れだなァ。あいつにそっくりだよ」
「トネリコ……?」
聞いたこともない名前だった。だがこれをデジャヴと言うのだろうか、聞いたことなどないはずなのに、その名前を知っているような気がするのは。トネリコ・ルガンスの名前を。
「なぁ、失踪者がどこに行ったか知りたくないか?教えてやろうか?なぁ、なぁ?」
楓の質問には答えず、しかし何かを知っているふうに男は言う。
「お前……お前が犯人なのか!?この事件の、」
「全部がそうとは言わないけどねェ。昨日お前と一緒に歩いてた女は、俺が『落とした』んだけどな」
「あかねを……!? ……お前が!」
「この野郎!」
言葉の意味は分からなかったが、この男があかねを失踪させるに至ったのだということは分かった。
麻生は感情を爆発させ、男に跳びかかった――いや、麻生は怒りに任せてそうしたわけではない。「怖かった」のだ。目の前にいる男が。
だが、男は麻生が振り下ろす傘をひらりと避けると、何の躊躇いもなくその顔面に蹴りを入れた。
顔面に蹴りだぞ?その動作に一切の手加減が無かったのは言うまでも無い。
「ぐっ!」
「麻生!」
麻生の体は、人間の体はこうも簡単に吹っ飛ぶものかと思うくらい簡単に、蹴り飛ばされ壁にぶち当たった。
男は蹴り飛ばした相手に罪悪感のカケラすらないようで、ずり落ちる麻生には目もくれなかった。その代わりに視線がやってくるのは、楓のほうだった。
バッドを握る手が震えていた。それでも人間の防衛本能が働くのか、楓は知らず知らずのうちにそのバッドを構えていた。
だが――それは相手を楽しませたのか、それとも怒らせたのか、バッドを握っていた手が一瞬にして弾かれた。両手で握っていたバッドが片手で弾かれただけだというのに、その衝撃は予想していたものを遙かに超え、弾かれたバッドは壁に突き刺さった。
それを目で追う余裕すら与えず、男は楓の首を掴み壁に叩き付けた。
「オイオイ、勘違いするなよ。俺がまともに戦って勝てる相手だとう思うな。お前と俺との間には、圧倒的な力の差が存在する。嬲り殺すくらい簡単になァ。それとも何か?殺されたくって仕方ないのかな、トネリコみたいにさ……」
「俺はそんな奴知らない……!」
首を鷲掴みにする腕を引き剥がそうとするが、驚くことにびくともしない。少しぐらい動いてもいいものだが、この男の腕力では首の骨をへし折ることなど容易だろう。
「知らないだろうともさ。だけど知ってる。あいつはお前だからな。なぁ知ってるか?トネリコは正義感に溢れる典型的な『正義の味方』って奴でさァ、『悪』を許せないんだってよ。勝てるはずも無い俺に何度突っ掛かってきたか知れないね。いい加減鬱陶しいんだよ……こっちのお前を殺せば、あっちのお前は死ぬのかな?試してみたいなぁオイ」
「…………ッ!!」
言っている意味は相変わらず分からない。だが、この男からは純粋な殺意を感じる。
殺される――戦慄が走った。
「お前を『落とせ』とは言われてなかったなァ、そういえば。まあ殺していいとも言われてはいないけど、止められてはいないから問題はないよな? なぁそう思うだろ?」
「なっ……な、何が……何で俺が……」
「殺されなきゃいけないかって?」
男は俺の言葉の続きを摘み取った。この世で最も残酷な人間は、目の前にいるこの男ではないかと錯覚するほどに、この男は残酷だ。
「そんなの自分で考えろよ。俺は教えてやらない。でも俺には教えてくれよ?お前が死んで、トネリコが死ぬかどうかをさァ」
「ふざけんな!」
「殺す・壊すってことに正当な理由なんて本当はないのさ。常にそれは理不尽なものなんだ。だからお前を殺すことに正当な理由は必要ない。そういうことだから、一回くらい死んでみようか?もしかしたら死なないかもしれないぜ?」
本当に殺す気だ――どんな言葉もこの男には通用しない。最初から見逃すつもりはないのだ。
恐怖が決壊したダムのようにあふれ出す。震えが止まらない。
「……い、やだ……」
搾り出すような声で助けを懇願した。だが、無論男には通用しない。
男はにやりと不敵に笑う。そして不思議なことに、先ほどまで地面に突き刺していたはずの大剣を片手に握っていた。
「じゃぁな、トネリコ・ルガンスの片割れ君?」
言うが速いか――大剣が楓の胴体を貫いた。これだけ大きい剣だ、臓器は一瞬にして使い物にならなくなり、行き場の無くなった血液が外へ噴き出す。この非常時に痛覚はその機能を停止したのか、まったく痛みは無かった。異物が体の中に進入したのは感じるが。
悲鳴を上げる力はごっそり持っていかれ、全身から力が抜ける。悲鳴の代わりに、逆流してきた大量の血液が吐き出された。足元はもうすでに血の海だ。
乱暴に大剣が引き抜かれると、楓の体は支えを失って地面へくず折れた。しなびた野菜にでもなった気分だった。
「――っは、はァっ……はッ……!」
呼吸が上手く出来なかった。肺か気管支か、とにかく呼吸器官もやられてしまったらしい。ショック死をしないだけ自分を褒めてやりたい。
男は残酷な遊戯に興じ、それはもう実に愉快そうな笑みを浮かべていた。
俺がどうやって死ぬのか、死んだらどうなるのか――多分そんなことぐらいしか考えてない顔だ。慈愛や憐憫、自責の念など一切感じてなどいないだろう。むしろ、そんな感情がこの男にあるのかすら妖しいが。
男はふと、思い出したような顔をした。
「お前の名前、そいうえば聞いてなかったなァ。なんだって?」
答えられるわけが無い。一秒でも長く生きようと、全身が働きかけているのだ。全く意味は無いが。
「何だ、もう答えられないのか。なぁ、冥土の土産に一つ教えてやるよ、聞こえてたらだけどな」
まだ音は聞こえている。目も見える。ちゃんと生きていたときよりもずっと感覚が鮮明になっているようだった。
早く言ってくれないと、もう死にそうだ。
「俺はカルマ・ファーデンス。お前の友達、仁井田勝馬の片割れだよ」
そう男は名乗り――羽織を脱ぎ捨てた。点滅する街灯が男の顔を照らし出す。
「か……つ、ま?」
そいつは確かに仁井田勝馬の顔をしていた。
暗闇の中で残酷なほど不敵に笑う、仁井田勝馬の顔を最後に見て、楓の意識はさらに深い暗闇へと落ちていった。