第2話 一週間と三日の失踪者
夜の闇を照らすのは月光ではなく、街に灯る人工の光だった。
月は雲によって光を遮られ、時々その姿を見せてはまた隠れてしまう。
とあるビルの屋上に、二つの影があった。二人はその姿をさらすまいと、頭からかかとまで布を被っており、男か女かの区別もつかない。一人は常人に比べて大きな体躯をしており、身長190センチは軽く超えているだろう。
一方もう一人は布の上からでも分かるように、細身の体躯をしているようだった。大きな影と比べてしまうとその細さが際立つ。
「なぁなあ、羅刹さん」
小さな影が言う。声からして男のようだが、まだ幼さの残る声音だ。
「……なんだ?」
羅刹と言われた巨漢は、どうせまたろくなことを言わないのだろうと予想しつつ、しかし無視するとさらにろくなことをしないと知っていたので、とりあえず聞いておく。
「月の光なんて、あってもなくても同じような気はするけど、なくなったらなくなったで困るものかねェ」
「そうだなぁ。あるに越したことはないんじゃねえか。光がないところでは頼りになる」
「……悲しいねェ」
そういいつつも、その男の口の端は弧を描いていた。
「何がだ?」
「何かがなくならないと、そのものの価値がわからないことが、かな」
こいつは凄まじく楽天的な奴だ――「悲観的」なことを「楽観」しているのだ。だからこうして嘲笑っている。どうしようもなく狂った奴だ。
「楽しいねェ。……可笑しいねェ」
「……そうかい」
適当な相槌を打つほかない。下手に「何がおかしい?」などと聞けば、この狂人は狂ったように笑い叫びながら、その理由を言うだろう。そんな状況は願い下げだ。
「ああ、悲しいね」
それは一週間と三日前の夜の話のことだった。
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そして一週間と三日後の放課後。
「あかね」
楓は、昇降口で靴を履く女子生徒の背中に呼びかけた。
女子生徒は呼びかけに応じて振り返ると、涼しげな顔で「常葉君」と驚いたように言ってみせた。
「今帰りか?」
「そうですよ。誰かさんが掃除をサボるので、電車一本遅れるなぁ、これ」
「え?……あぁ」
そう言われて、ようやく自分が掃除当番だったことを思い出す。他の連中も覚えてはいないだろう。
「悪い、すっかり忘れてた」
「しょうがないなあ、明日来なかったら何か奢ってよね」
おどけるこの女子生徒は、西園寺あかね。ひらがなで「あかね」だ。腰まで届く長い髪が特徴的で、切り揃えられた毛先が清楚さを感じさせる。
「行くよ、行く行く。そういえば部活は?」
「今はさ、ホラ、あれでしょ? 失踪者が出てるからって、早めに帰るよう言われてるの」
確かに、普段なら7時くらいまで活動している運動部も、そそくさと帰り支度を始めている。弓道部に所属するあかねも、どうりで下校が早いわけだ。
それから他愛のない話を続け、あかねと帰路を共にする。遠い学校に行くのが面倒だという理由で地元の高校にした者同士である。近所に住んでいるわけではないが、途中まで方向は一緒だった。
あかねは可愛い。小学校からの幼馴染であり、彼女と初めて同じクラスになった時からそう思う。実際美少女であり、自分の欲目なしにも、誰に聞いても可愛くないとは答えないだろうと思っている。
昔から何度も男子に告白されているのにも関わらず、断り続けている理由を詳しくは知らない。聞くと、「好きになれない」と結構冷たい答えが返ってくる。振られた男子には聞かせられない。
恋愛感情を抱いていないといえば嘘になるが、「好きになれない」と言われるのが恐ろしく、小学3年に出会ってから現在高校2年までの8年間、一度も想いを告げたことは無い。大した破壊力である、その言葉。
お互いの帰路の分かれ道に差し掛かったところで立ち止まり、あかねは唐突に疑問を投げかけた。
「ねぇ、仁井田君でどんな人だったの?」
「それは好奇心で聞いてるのか?」
彼が失踪してから、彼のことについてよく聞かれることがあった。もうその質問にはうんざりしている。
それにしても、あかねまでその「失踪者」の話をするのか。別に咎める気はないが、よくそんな話ができるな、とは少し思う。世間的に、という話だが。
「そうね。話したことがなかったから」
「別に、何てことない普通の奴だったよ。普通。ほんとに。とりとめて言うこともないくらい」
特に秀でているということもない。顔がいいことをあまり自覚していない奴ではあったが。
「そうよね」
「どういう意味だ?」
「皆が、仁井田君のことをすごい人みたいにいうから。ただ知りたかっただけ」
「何も知らないんだよ。知らないから言える」
「常葉君は知ってるの?」
「よく知らない。でも他のやつよりは知ってる。……ような気がする」
こんな暗い話をあかねとしたいわけではない。そう思って明るい方向に持っていこうとし、皆が面白がって言っている「ドッペルゲンガー」を思い出す。
「失踪者が皆ドッペルゲンガーを見たって話、変だよな」
だが、予想に反してあかねの反応は悪かった。顔は平然としているが、冷たく、
「面白がってるのね」
と言った。
「俺が?」
「あなたもよ」
「…………」
その言い方からすると、俺はあの大多数の不謹慎な連中と一緒、という意味だろうか。
だが否定も肯定も、どちらもすることはできなかった。自分は結局現実に飽き飽きしていて、身の回りで起きている事件に少なからず期待している。非現実をもたらしてくれると。
ドッペルゲンガーがいたらいいと思っている。子供が夢を見て何が悪いのか。体のいい現実逃避を見つけた。
そういえば、勝馬は現実逃避に溺れていた。ゲームや漫画の世界に没頭し、現実での自分の世界を捨てていた。類は友を呼ぶ――自分も例外ではない。現実なんて、つまらないと思っている。退屈は罪だ、そう思っている。
「でも常葉君が仁井田君の失踪を悲しまなきゃいけないなんてことはないよね」
「そうか? 普通逆じゃないか」
「心の問題だよ」
「今日のお前は、何だか刺々しい言い方をするな」
「うん」
否定しない。ここにきて、背中からざわつくような気がした。ざわざわする。落ち着かない。嫌な予感がする。
「明日、掃除ちゃんと来てよね」
「……どうしたんだよ」
「私、明日掃除に行けるかわからないから」
「…………どうして」
聞いてはいけないような気がしたが、聞いてしまった。踏み入れてはいけないような気がしたが、踏み入れてしまった。後悔先に立たずというが、聞く前から俺は後悔していたような気がする。
だってこのあかねの表情を見てみろ。
「私ね、私のドッペルゲンガー、見ちゃったの」
冬に突入せんとする、秋の風が吹きぬけた。
「……嘘だろ?」
あかねは答えず、緩やかに微笑む。その笑顔は「嘘だよ」と言っているようでもあり、その答えを拒否しているようでもあった。
「それじゃあね」
手を振り、続く一本道へ小走りに去っていく。
楓はそれを呼び止めることもなく、ただ呆然と立ち尽くし、あかねの背中を見送った。
そのときの俺に何ができるわけでもないと知っていたからだ。あかねが失踪するわけがないと、信じてやまなかった。嘘だと思っていた。
明日にはきっと、窓側最後尾のあの席に座っているはずだ。