第1話 ドッペルゲンガー
「ドッペルゲンガーを知っているか?」
退屈は罪だ――そう思うほどに憂鬱で、憂鬱であるほど退屈であった。
その退屈を感じているのは自分だけではない。その証拠のように、その噂は町中にはびこっていた。
「ドッペルゲンガーに捕まると、そいつは偽者と入れ替わってしまうのさ」
常葉楓の目の前の席に座る男子生徒、麻生は唐突にそんな話を切り出した。次の授業の教科書を揃えている最中だった楓は、麻生の話をそれほど聞いていなかった。
「何のことだ?」
何の話かと聞いたつもりが、どうやら誤解を招くきっかけになった。
「今流行ってるだろ、知らないのか?『ドッペルゲンガー』だよ」
知っているか、と聞いたくせに知らない相手に対してずいぶんな表情をするものだ。怪訝な顔をする麻生から、「なんだ、コイツ遅れてる」という真意を掴み取る。
だがドッペルゲンガーの話を、楓は知らないわけではなかった。ただ聞き方が悪かっただけで。
「知ってるよ。もう何度も聞いた、それ。もう知らない奴なんかいないだろ」
「あれ? そうなの。楓はそういうの疎いから、知らないと思ってた」
包み隠さず言う奴だ。素直と言うか正直と言うか、馬鹿正直と言うか、デリカシーの無い奴と言うかは自分次第だ。もう少しオブラートに包んだ言い方をしてほしい。
「そりゃ悪かった。……でもその話、不謹慎だろ。あんまり俺は話したくないんだ」
「ああ、失踪者の話ね」
こいつは、本当にはっきりとものを言う奴だ。きっと長生きできない。
――失踪者。ここ最近この都会とも田舎ともいえない町で、失踪者が相次いでいる。最初の失踪者が出てからもうすでに一ヶ月がたった。一ヶ月がたっても、最初の失踪者が見つかるどころか、失踪者は増えるばかりだ。警察は何をやっているのだろう。
「ドッペルゲンガーって死ぬ前に見るとか、見た人間は死ぬとか、殺されるとか、色々噂はあるよな」
「でもドッペルゲンガーを見たから失踪したって訳じゃないだろ。そんな話があってたまるか。大体、何でドッペルゲンガーなんだ?」
「皆さ、言うんだってよ。失踪する直前に『ドッペルゲンガーを見た』ってさ。だからドッペルゲンガー」
そうだった。失踪者には共通点があり、失踪する直前に必ずそういったことを口にするらしい。
楓の友人、失踪した仁井田勝馬は例外として。
「ドッペルゲンガー……ね」
身近に出てしまった失踪者の事件はすでに他人事ではなく、学校内でも失踪者の話をすることは殆ど禁句のようなものだった。
だがそれを生徒達は恐れる半面、面白がっているようにも思えた。故に「ドッペルゲンガー」の噂はまことしやかに囁かれ、「都市伝説」が流行ってしまっているのだ。彼らは「失踪者」の話を、ただ単に「ドッペルゲンガー」に置き換えて話しているに過ぎない。
結局のところ、皆、現実に飽き飽きしているのだ。
「勝馬の奴、まだ見つかってないのかな」
「失踪者はまだ一人も見つかってないってニュースで言ってたろ」
それにしたって、友人である勝馬の失踪を憂えないはずのない自分の前で、そんな話をしなくたっていいのに。麻生のそういった世間体を気にしないところは、むしろ尊敬に値する。
勝馬は確かに目立たない人間だった。必要以上に友達を作らない奴で、だが成績も悪くなければ顔も悪いわけではなく、むしろ美少年という枠に分類されるような人間だった。ゲームや漫画が好きという共通点があって仲良くしていたが、学校に来ないこともしばしばあって大した付き合いはない。勝馬にしてみれば一番付き合いのあった自分ですら、時々忘れることもあったのだ。
だが失踪した直前から学校では彼の名前が囁かれ、彼のいないところではまるでヒーローのように語られた。ただの被害者だというのに。教師も毎日のようにそれを憂いては、生徒にそれを語る。授業にもまともに出ていなかった勝馬の、何を知っているというのだろう。
いなくなってから、人々は憶えになどない勝馬を必死に思い出そうとしている。なんだろう、この矛盾は。
「そっか。早く見つかるといいな」
「……死んでるとか、考えないのか」
「はっきり言うね」
ああ、つい本音が出てしまった。
だが本当のことだ。勝馬が失踪してもう一週間と三日が立った。これほど日がたつとそろそろおかしい。
夜、コンビニに夜食を買いに行ったという勝馬が、朝になっても戻ってこなかったという一週間と三日前。財布と携帯以外何も持たずに出た人間が、そこから家出をするという発想にはまずたどり着かないだろう。仮に誘拐され、監禁されたと考えても、失踪者はもはや数十名。そんな人数を監禁する意味はどこにあるのだろう。
誘拐され、殺されたと考えるのが一番納得できる答えだ。そんなこと誰も言わないが。
「俺も考えてなかったといったら嘘になるけど」
「やめようぜ、こんな話」
勝馬がもし死んだと分かったら、きっと俺は泣くだろう。だってそれが当然のことだ。
そうしたらきっと、学校の生徒も教師も、今以上に彼を称えるだろう。
嫌だろうな、勝馬。お前は目立つことが嫌いだった。