だって、誰も悪くない
過去に書いた話です。部誌に寄稿したものを少しだけ修正。後味は多分あまりよくありません。
静かな石畳の街道で、僕は初めてあの娘に出会った。
この出会いは運命ではなかったけれど、それでも確かに、僕の人生を狂わせた。
じりじりと焼け付けるような陽の光にはうんざりとしていたけれど、芯から凍り付きそうな寒さの方が僕は嫌いだ。階段を下りながら不用意にも手すりに手を掛ける。鉄製のそれは皮膚を引きはがしにかかる凶器だ。びゃっと慌てて手を離し、すっかり冷えてしまった指先に熱を込めた息を吹きつける。感覚もなくなっていた末端はこれしきの熱では足りないとばかりに震えたままだ。キンッ、と張りつめた空気が運んでくる風は、その勢いで頬を切り裂かんばかりの凶悪さだと思う。
今の感情を端的に言うと、凄く寒い。めっちゃ寒い。やばいくらいに寒い。
とりあえず、寒い。
平成最後の冬は、夏の狂気的な暑さに負けず劣らず極悪だ。年号が変わるという事実を強調するかの如く猛威を振るう寒波には、白旗を振って降参するしかない。
無論、既に過ぎ去った猛暑にも完敗だった。寒いほうが苦手だが、暑さに強いわけではないのだ。
「こんにちは、黒井君」
後方から声を掛けられた。歩みを止めて振り返れば見知った顔。
「こんにちは。今日も寒いね」
「うん、本当に。とっても寒い。雪でも降りそうなくらい」
にこりと微笑んで彼女は僕に追い付き、隣に並んで歩き始める。次の講義を彼女と受けるのは割と良くあることだった。どうにも眠くなる内容だが、僕が眠ってしまえば彼女がメモを写させてくれる。その逆も然り。助け合いの精神は大切だ。まあ、僕が写させてもらう割合の方が圧倒的に多いのだけれど。
彼女の歩き方はぴょこぴょこと飛び跳ねる雀のようだ。楽しそうに足を踏み出すたびに、耳よりも高い位置で纏められた髪が元気よく揺れる。白いマフラーの両端は背中側で跳ねていた。
「ね、今日の授業はどっちが先に寝落ちするかな」
「寝落ちするのが前提なの? ……まあ、僕の方じゃないかな」
「その心は?」
「昨日、夜更かししたから」
「そっかぁ。それじゃあ仕方がないね」
「というわけだから、メモは任せた」
「仕方ないなぁ。今度コーヒー奢ってね」
「了解」
彼女は結構なお人好しなので、僕は偶に、誰かに騙されて利用されたりしないだろうかと心配になる。そう直接彼女に言えば、朗らかな笑みで「でも私、友達少ないから大丈夫だよ。頼ってくるのは黒井君含めても両手の数に満たないくらいしかいないもの」と答えてきた。明るい表情で言うには、少し虚しい。しかし、本人があまり気にしていないようなので、彼女に合った人間関係の在り方なのかもしれない。
浅く広くよりは、深く狭く。そう考えれば、別に寂しいことではないだろう。
なんて、軽く思案しながら目的の教室の扉を押し開ける。暖房によって暖められた、少し熱いくらいの室内。十列くらいは席の並ぶ教室の、前方四列目の席が僕らの定位置だ。いつの間にか決まっていた暗黙の了解で、彼女が右側、僕が左側。二人並んで腰かけて、いつものように教授が現れるまでの数分を彼女と話しながら過ごす。
いつまで起きていられるかはわからないが、せめて起きている間だけでも真面目に聞いておこうとペンを取り出し、左手側に置く。彼女の方もルーズリーフを広げ、右側に消しゴムや赤ペンを待機させていた。利き手が分かれていると卓上のスペースが被りにくくて便利だねと、彼女は良く口にする。彼女は典型的な右利きで、僕は生粋の左利きだった。
眠気と戦って、多分いつものように負けて、そのことを彼女に笑われる。
そんな普通の、いつも通りの平凡な日になる筈だった。
結局その後、教授は教室に来なかった。授業開始のチャイムが鳴っても、それから十分経っても何の連絡もない。不審に思った学生が数人、事務の方へ確認を取ってようやく、教授の急病により休講となることが分かった。
急病、ということで多少の動揺はあったものの、休講自体は珍しいことでもない。もう少し早く知らせてくれればいいのに、とは思ったが、それよりも突然空いてしまったこの時間をどう過ごそうかに悩まされる。今日の講義はこれで最後だったし、用事があるわけでもないのでそのまま帰っても良かったのだが、なんとなくこのまま帰る気分にもなれず、この後にもう一つ授業が残っているので図書館にでも行くと言った彼女に別れを告げ、特に目的もなく街の方へ向かった。
財布には野口と樋口が一枚ずつ。諭吉はなし。今月は金欠というわけでもないが、金に余裕があるというわけでもない。ぶらりと店を見て回って、少し歩いたら帰ろうと決める。
本屋を少し回り、電気屋で充電器を眺め、服屋をちらりと覗く。欲しいものは特になかった。敢えて挙げるなら手袋が欲しかったのだが、今日見た物は少しばかり手の届かない値段をしていたのでまた後日探すことにする。まあ、こう言っておいて結局探さないのが常だったりするのだが。
色々な店を出たり入ったりすると、外の寒さと店内の暖かさのギャップでなんだか少し疲れてきた。そろそろ家に帰るか、と駅の方に歩みを進める。気付けば空はうっすらと灰色の雲に覆われていた。ぽつりぽつりと街灯が点き始めている。
少し歩けばすぐに目的地は視界に入る。遠目に見える駅はあまり賑わっていなかった。ここを利用するのはほとんどが学生なので、授業半ばの時間である今、人通りは普段よりも大分少ないようだ。
歩きながら定期を取り出す。改札まであと十歩程度の辺りでふと視線を感じ後ろを振り返った。しかしながら特に知り合いがいるでもなく、また僕の方を見ている者もいない。勘違いか、と白い息を吐く。彼女に話したら自意識過剰なんじゃないのかと笑われてしまいそうだ。その場面を想像して少しばかり口角を緩める。そのまま前を向き直り帰路につこうとしたところで、予想外の光景に目を奪われた。
この寒さの中に浴衣という、季節外れの出で立ちをした少女がそこに居た。
灰色の中で黒い金魚が泳いでいる。くしゅりと縮れた帯も、金魚に負けず劣らず真っ黒だ。ああいう帯は兵児帯と呼ぶのだと、つい最近調べた事柄が頭に浮かぶ。
しかし帯の両端が長く伸び、地面すれすれまでふわりと揺れる様を見る限り、一般的な規格の物ではないだろう。ただそこに立っているだけでゆらゆら、ふわふわと風に靡いている。
「また、あえたね」
肌も白く、髪も純黒。着ているものと合わせて全く彩度を感じられない姿の中で唯一、真っ赤に熟れた唇が音を紡ぐ。
水が跳ねるように、風がそよぐように。可愛らしくささやかな甘さを含んだその声は、同時に僕を脅えさせ、浮足立たせてしまう不思議な声だった。
「君、は……」
この少女に出会ったのはこれで二回目だ。漠然とした不安と歓喜。言葉にできない感情がただひたすらに、もう取り返しがつかないという警鐘を鳴らし続けている。
「あたし、あんたにあいにきたのよ」
「……僕に会いに?」
「そう。あんたはあたしの、たったひとつのみちしるべ。だからあたしは」
つうっ、と。地面を滑るように、少女は一息で僕の目の前まで移動してきた。白い腕がすらりと伸び、僕の頬に触れる。ひんやりと冷たい手が、徐々に僕の体温を奪っていく。
「あんたに、えらんでもらわないといけないのよ」
耳元で囁かれた声が脳を揺らす。じっくりと、乾いた砂地に水が吸い込まれていくように、少女の声が染み込んでいく。何か大事なものが塗り潰されていくような恐怖に体が震えた。少女の声が、手が、僕から熱を消していく。
恐怖の中咄嗟に小さな白い手を掴もうとすれば、丁寧に黒く塗り揃えられた指先はするりと逃げてしまった。近づいてきたとき同様に一瞬で離れていった、くすくすと笑う少女の声。
「いまはまだ、まだそのときじゃないの」
「まだって、何が」
「それはないしょ。……またくるわ。それじゃあね」
待ってくれと、そう声を発する前に、突き刺さるほどの寒さが風に乗って襲い掛かる。思わず顔を庇い、目を閉じる。風が収まってから少女に向きなおろうと顔を上げたが、その時にはもう、その場には僕しかいなかった。
あまりにも現実感のない邂逅。白昼夢か何かだったのだろうか。そう冷静に考える理性とは別に、心臓はかつてないほどに早鐘を打って暴れている。
あの少女は、何か良くないものだ。ひやりと冷え切った頬に手を当てながら、自然とそんな感覚が脳内を支配していた。
「何か考え事?」
「ん、いや、大したことじゃないよ」
「そっか」
一週間が過ぎた。あの日から特に何事もなく、只いつも通りの平穏が続いている。やはりあれはただの夢だったのだろうかと、あのひんやりとした恐怖が薄れた今はそんな風に考えてしまうほどだ。
「今日は休講じゃないかな」
「どうだろう。流石に二週連続だと心配になってくるし、今日はやって欲しいけど」
「そうだよね」
いつも通り、僕が左側で彼女が右側に座って話している。他愛のない話題を転々としていれば、前方の扉から教授が入ってくるのが見えた。
「よかった。今日は授業あるみたいだね」
「そうだね」
そういえばこの授業を取っている他の友人が「先週に引き続き今週も休講である可能性に、俺は賭ける!」とかなんとか言っていたことを思い出す。あいつは確か既に三回サボっていたので、多分もう単位は来ないだろう。この授業は四回欠席で落単だ。あの馬鹿は卒業できるのだろうか。
彼女にその話をしていたら授業開始のチャイムが鳴った。話し声が静寂の気配に吸い込まれていく。僕も彼女もそっと口を閉ざす。
ひそひそ声すら聞こえてこない空間で、授業は淡々と進んでいく。先週の急病は何だったのかと思うくらいにいつも通り。教授の話が微睡みを誘うのも、黒板の上を走る綺麗とは言い難い教授の字も、普段とまったく変わらない。
それなのに、何故か違和感がある。どうしようもなくささやかで、しかし見逃せない程度にははっきりとした差異。黒板にチョークを走らせる音がやけに耳に残る。ほんの少しの間違い探しが上手くいかない。あと少しで掴めそうなのに、届きそうで届かない。
ぐるぐると思考を巡らせていると、いつの間にか終業のチャイムが鳴っていた。ぐっ、と伸びをしながら彼女がこちらに向き直り、にこりと穏やかな笑みを浮かべる。
「珍しいね、今日は寝てない」
「ああ、うん。ちょっと考え事してた」
「真面目に聞いてたとか、そういうわけではなく?」
「うん」
「あらら。褒めようと思ったのに褒められないじゃない」
まったくもう、と憤慨する彼女を横目に思案を重ねる。何が違うのか、そのことが嫌に気にかかった。
相手にしないでいると、彼女は諦めたように隣で机の上を片し始めた。左手にペンケースを持ち、シャーペンや蛍光ペンを次々と仕舞い込んでいく。彼女は一体何本ペンを持っているのだろうか。
「あ」
その光景に、閃いた。答えが急に目の前で主張し、思わず声が零れた。
「どうしたの、突然」
「わかった……」
「何が?」
「教授は右利きだったはずだ」
「へ?」
「何かおかしいと思ったんだ。ああ、すっきりした」
掴みどころのない違和感が、答えを得たことで明瞭な結果に置き換わる。分からないということへの不安感から解放され一息つけば、僕の言葉を聞いてから一瞬呆けたように動きを止めていた彼女がはっとしたように声を上げる。
「ちょ、ちょっと待ってよ、何の話?」
「何の話と言われても……なんとなく、変だなぁって感じたから、なんでだろうなぁって考えてただけだよ」
「ええぇ……それで、えっとなんだっけ、教授は右利きだったはず、だっけ?」
「そう」
教授の板書はいつも通り読みにくかった。読みにくかったけれど……普段と比べて、何か違ったのだ。書かれた文字が目に入って来るテンポとでも言えばいいのだろうか、そんな感覚的な部分でのズレ。普段と異なる手で板書が為されていたためにそのような差異が発生したのだと、気付いてしまえば簡単だった。
漠然とした違和感は払拭された。マイクやスクリーンの操作、配布資料の配り方など、利き手が逆になれば動作にも何かしらの変化はある。それらの小さな積み重ねが、僕の頭を妙に悩ませていたのだ。
ということを簡潔に彼女に説明すると、眉を顰めて小さく「ううぅ」と唸り始めてしまう。
「黒井君の言い分はわかったけど……」
「なんなんだよ、渋い顔で」
「でもさ、教授の利き手なんてよく覚えてたね? まずそこに吃驚だよ」
「まあ、なんとなく」
昔から、そういう細かい部分は記憶に残りやすい質なのだ。今まで役立ったことはなかったが、今回初めて役に立ったと思うべきか。それとも、教授の利き手を無意識に覚えていたからこそこんなに悩まされたというべきなのだろうか。
曖昧に流した僕を生暖かい眼で見ながら、彼女は溜息とともに言葉を続ける。
「あとさ、なんでそこまで分かったのにそれで終わっちゃうのかな?」
「どういうこと?」
「だから、教授が右利きなのに今日は左手を使っていたって話だよね?」
「まあ、そうだよ」
「なら普通、その原因の方も気になるんじゃないかな」
「あー……」
言われてみれば、確かに彼女の言い分も正しいだろう。普段右利きの人間が急に左手を使っていることに気付いたら、何故だろうかと訝しむのは極々普通の流れだ。
僕としては、違和感の原因を発見して万事解決くらいの考えだったのだが。
「……まあ、右手に怪我でもしたんじゃないの?」
「してるように見えた?」
「見えなかったけど……」
正直、あまり興味が湧かない。湧かないのだが……この流れは多分、彼女の方が。
「ね、気になるよね?」
鞄を抱えて彼女は囁く。俯いている彼女の表情は見えない。
ここまで来て断れるほど、僕は強情ではなかった。
「……少しは」
にぃっ、と。嬉しそうに挙げられた顔に浮かぶのは、いつもの穏やかな笑みに足されたほんの少しのスパイス。結わえられた髪が、猫の尻尾のように気ままに揺れた。
「あんまり来たことないなぁ、こういうところ」
「私もないよ」
「その割にはズカズカ進んでいくね?」
「そんなことないよ。黒井君がビクビクし過ぎてるんだよ」
教授の研究棟。よほど真面目な学生くらいしか訪れないだろうと勝手に想像していた場所に、今僕は足を踏み入れている。踏み入れている、というか、首根っこ掴んで引っ張られている、と言うべきかもしれないが。
彼女との付き合いはそれなりに長いはずなのだが、こんなに好奇心旺盛な面があるとは知らなかった。にっこりと笑って、余裕のある声で僕に話しかける姿ばかりが印象に残っている。正直、意外だ。
研究棟は意外と賑やかだった。教授に真面目に質問しに来ている者もいれば、何やら楽し気に談笑しているグループもちらほらと見える。漏れ聞こえる会話には、卒論だとか、ゼミ発表といった単語が散りばめられていた。卒業はまだ遠いことに思えるし、ゼミにも参加していない身としてはそう言った会話がどうにも眩しい。
教授の研究室は何号室だっけ、と話しながら進む。学部や専門ごとに大まかな部屋割りは為されているようで、文学部の研究室のゾーンに辿り着いてからまた更に迷いそうになった。間違えてあまり使われていない部分に進みかけた時には、接続が悪いのか点灯を繰り替えす蛍光灯と蔓延る蜘蛛の巣に肝を冷やされる。
幸い、そう何度も迷うことはなく目的の場所を見つけることが出来た。扉には、目線よりも少し高い位置にプレートが掛けられている。その名前を確認してノックをしようという段階で、今更ながらに緊張が込み上げてきた。
彼女の方に向き直る。きょろきょろと周りを見回しながら進んでいた彼女は、僕よりも数歩遅れた位置に居た。目が合うと、ぱぁっと顔を上げて駆け寄ってくる。
「そこ?」
「そう、みたい」
「よぉし、じゃあさっそく」
と、何の迷いもなく拳をドアに打ち付けた。コンコンコン、子気味いい音が三回分、辺りに響く。
慌てるのは僕の方だ。まだ全然心の準備はできていない。出てきた教授にまず何を言えばいいんだと、軽く混乱状態に陥る。
文句を言いたい気持ちと、彼女がいなければここで覚悟を決めるのに数分を要しただろうという予想、さらにそもそも彼女がやる気にならなければ態々ここまで来なくて済んだのにという見当はずれな恨みが綯交ぜになった結果、乾いた笑いで彼女の旋毛を眺める状況が生まれた。それを見た彼女はあまりじろじろ見るなと不満そうだ。
そうして半ば現実逃避に近い時間が訪れたのだが、中からの反応は無い。試しにと教授の名を呼んで彼女がもう一度扉をたたくが、やはり応答はなかった。どうやら留守のようだ。
肩透かしを食らった。ここまで来たのは無駄足だったようだ。まあ、教授訪問という非日常が失敗に終わりそうだとほっとしている自分がいることも否定はできない。
諦めて帰ろう、そう口に出そうとしたのだが、彼女は僕の予想の斜め上を行く。ドアノブに手を掛け、なんでもないようにくるりと捻った。
「ちょっ」
「あ、鍵はかかってないみたい。入っていいのかな?」
「いやいやいや……駄目でしょ、普通」
制止も虚しく遠慮なく彼女は室内に足を踏み入れていく。毒食わば皿まで、ここまで来たら置いていくわけにもいかず、周りを気にしながら彼女の後に続く。
部屋には大きな机が一つ。書類の山が何個も積み上げられており、壁に備え付けられた本棚から溢れ出た本も雪崩を起こしかねないバランスで配置されている。
「なんか、研究者の部屋って感じだね」
「どういう感じだよ。まあ、言いたいことはわからなくもないけど……」
「でしょ?」
何を表しているのか良くわからない、猫と牛と山羊と蜻蛉を足したような謎の生物を模した木彫りの像が書類を置くべき場所を大分奪っている。変な趣味だと思うべきなのだろうか、それとも仕事熱心だと感心すればいいのか。確か教授の専門は民族説話だったはずだが、こんなわけのわからん生物も存在するのだろうか。もうわけがわからない。
書類の束が机を埋めているせいで、本来の机の色が白に埋められている。元から白だったと錯覚してしまいそうだ。
ふと、その白い海の中に混じる黒い島が目についた。目を凝らしてみてみれば、やけに詳細な図入りの書類が一枚混じっていた。目につく範囲にある他の紙はほとんど文字のみのものだったので、それだけが妙に目を引く。
手に取って図を眺める。
「何、それ。黒い……鯉?」
「鯉じゃなくて、これは……」
黒い金魚の、生き生きとした絵がそこには閉じ込められていた。水の上に浮かべてあげればすぐにでも泳いでいきそうだと、そう確信させる力を持っている。遠目で見たときにはただの黒い何かとしか思わなかったのに、今こうして見ればもう目が離せなくなる。
冷たい。凍えてしまいそうなくらいに冷え冷えとした、氷よりも鋭い目。ただの絵だ、本物の目玉じゃない。それなのに、僕はこの金魚に見られているとしか思えない。真っ黒で彩度のない、頼りなく水の中で漂うこの姿は……。
「ええっと……とある集落に伝わる、黒い“何か”の民話について?」
横から彼女が紙面を読み上げていく声が聞こえる。聴き慣れた声が今は耳に痛い。理解したくないものを無理やり脳に流し込まれていく感覚に、背筋が泡立つ。
「ね、なんだろ、これ」
ちょっと怖い話だね、と彼女がこちらを振り返る。
曖昧な返事を返した後の記憶は、ほとんどない。
帰り道。彼女と別れ、街灯に照らされた道を歩いていく。目に入る石畳は僕の影に染められていた。石の繋ぎ目によって影が歪んでいる。雑に切り貼りされたその歪みは、こんな風に目を凝らして見なくては気付かなかっただろう。
冷え冷えとした風が髪を攫って行こうと戯れる。体の芯はすっかり冷え切ってしまったのに、風に吹かれる外側にばかり熱が集まっては掻き消えた。
風が弱まってきた。肌を突き刺す寒さではなく、乾いた空気に熱が吸い込まれていく。その変化にふと顔を上げた。
「……久しぶり、かな」
真っ黒な少女。さらりと流れる髪は、先程までの強風にも関わらず乱れがない。
「そうね、ひさしぶりだわ。あんたにあえないってだけで、じかんはこんなにもながくかんじるものなのね」
目を細めて笑う少女は、ほうっと温い息を吐きだした。この娘にも熱はあるのだなと、ぼんやり考える。
「あたし、がまんできるとおもっていたのよ。まっているのはなれているもの」
甘い、甘い声。脳を溶かす、舌足らずな毒の囁き。
「でもだめね。もうがまんできないわ」
少女が僕の肩を掴む。背伸びして目を覗き込んでくる少女から、その目から、逃げる。この目を見てはいけない。
白い足袋に包まれた、小さな足。黒く塗られた下駄に、同色の鼻緒。白と黒が、ここでも迫る。
「ねえ、あたしをえらんで?」
耳から毒が侵入してくる。あまりにも自然に、するりと隙間を縫って、抗い難い甘い声が。くらりと、眩暈。
冷えた蜜が身体を巡る。それと入れ替わりに熱が逃げる。寒いと感じることすらもうなかった。固まった指先が、ぴくりと痙攣して痛みを覚える。
目を、見てはいけないと頭ではそう考えているのに。
「あんたのめ、きれいよね。あったかいいろをしているわ」
「君の眼の方が……綺麗だよ、多分。真っ黒で、吸い込まれてしまいそうな……」
「あら、あんた、おせじがおじょうずね」
すべてを塗り潰す深い闇の色。意志を、理性を、常識を……飲み込んで、呑み下して、丸ごと溶かす、魔性の眼。
人の形を模った少女は、ニヤリと笑って僕の顔を冷たい手で撫でた。滑らかな白磁の肌は、現実感のない少女の存在をはっきりと実感させて来る。
その小さな手に自らの手を重ねて、僕は自分の答えをそっと少女に告げた。
あの部屋で彼女が読み上げた文章が何度も繰り返し胸を叩く。痛々しい焼印よりも鮮烈に、脳の奥深くまで押し付けられてしまった。
「黒い“何か”はある日いきなり現れて、初めて見た人間に付きまとう」
「そして最後には……黒い“何か”は、その人間を独り占めしようとし」
「周囲から孤立させたり」
「秘密の場所に閉じ込めたり」
「自分の生まれた世界に連れ去ったり」
「そうやって、宝物を仕舞い込むように」
「その人間を支配する」
「……黒い”何か“の目的は分からない」
「何故なら、それに執着された人間もまた、それに魅入られてしまうのが常だったから」
「それに出会うのは偶然だ。しかし、それは確実に」
「その者の人生を、狂わせる」
嗚呼、今ならはっきりとこう断言できる。漠然とした予感ではなく、形を持った確信として。
この出会いは運命ではなかったけれど、それでも確かに、僕の人生を狂わせた。
一週間後の同じ時間。僕は彼女と共に再び教授の研究室を訪れていた。
「どうしたの? 今日は乗り気だね」
「まあ、二回目だしね」
「ふうん」
訝しげな表情を浮かべたのも束の間のこと。すぐに顔を緩め、やる気があるのは良いことだと言う。
それに対して返答せず、破顔した彼女に要件を済ませるように急かしたが、特に疑問を抱いた様子も無い。今日は要るだろうかと話す声には、この間から主張を激しくしていた好奇心を滲ませている。
コンコンコン。きっちり三回、軽快なノックの音が響く。先週と同じように。
先週と違ったのは、直後に室内から応答があったという点だ。入室を促す声に、彼女はこちらを振り返り無言で軽い頷きを寄越してくる。同様の動きを返せば、彼女は満足気にまた一つ頷いてドアノブに手を掛けた。
「失礼します」
決して大きくはないが、しっかりと人の耳に届くくらいの声量だった。ぺこりと頭を下げる姿は、普段よりも少し恭しいものに見える。友人に対する態度とは異なるその姿勢に少し調子が狂う。
そんな彼女に続いて、後からそろりと足を踏み入れる。室内の様子を過剰に伺うあまり、入室の挨拶も控えめな声になってしまった。あまり緊張するのも逆効果だと、わざとらしい行動にならないよう自戒する。
彼女が要件を問われている間に、静かに扉を閉め直した。あらかじめ用意していた授業内容に関する質問を淀みなく口にした彼女は、それに対する返答を得てから世間話の体で利き手に関して探りを入れるつもりらしい。
あはっ、と。その計画に失笑する。漏れ出た笑い声は僕ではなく、彼女が向き合っていた相手のものだ。
「……へ?」
くすくすと、嘲り馬鹿にする声が響く。風のように、雨のように。甘い毒が充満していく。
きょとん、彼女は唖然と教授を見て固まった。いきなり笑い出したその挙動を訝しみ、明らかに先程までと異なる声音に不信感を露にする。
「ああ、おかしいの。あんた、なぁんにもおしえてあげなかったのね」
舌っ足らずな、高い声。どろりと教授の姿が融ける。
表面がどろりと崩れ、その中から真っ黒な中身が顔を出す。その中身もまた形を崩していき、粘性の強い闇がびちゃりと床に広がった。どろどろと、少しずつ、表面から落ちていく。
数秒のその変化は、彼女に過剰な衝撃を与えたようだ。ひっ、と喉が引き攣る音が聞こえた。
「……ふぅ。ああ、うっとおしかった。やっぱりこのまんまのすがたがいちばんね」
黒い少女は、にこりと彼女に微笑みかける。頬についた泥のような黒を拭い、教授の姿を脱ぎ捨てた少女は音もなく彼女に近づく。彼女の顔を下からそっと覗き込み、真っ赤な上着の裾を摘まむ。
「ねえ、あたしにゆずってくれる?」
ぐい、っと。如何にもひ弱で、幻の様にすら感じられる朧げな少女の姿からは予想もつかないほどの力強さ。裾を引っ張られた彼女が体勢を崩す。
「ね、いいでしょう? もうきめちゃったのよ、あたし。だから、いやだなんてわがままはいわないでちょうだいね」
「な、にを……言っているの?」
「しらなくたってもんだいないわ。しょうだくしてもきょぜつしても、けっかはかわらないんだから」
「どういう……え、ねえ、どうしたの。黒井くん、何か言ってよ……」
「……ごめん」
こちらに視線をやる彼女から目を逸らす。僕にとって、大学入学後にできた大切な友人。穏やかでお人好しで、それでいて好奇心は意外と旺盛。笑顔を浮かべながら軽口の応酬をする時間は、僕にとって大切な時間だった。きっと、彼女にとっても。
でも、僕はもう選んでしまった。彼女ではなく、目の前でにたりと笑みを浮かべる、人の振りをした“何か”を。
「くろい、く、ん」
「僕は……自分の意志で、君を、見棄てる」
「だから、ばいばい。あたしがちゃんと、そこでしあわせになってあげるわ」
「ま、待って、待ってよ、いったいこれは、どういう」
「じゃあね、かわいそうなひと」
呆然と、こちらを見ながら。
大切な友人で、もしかしたら……特別なひとになっていたかもしれない彼女は、黒い少女に呑み込まれた。
僕はその光景を、ただただじっと見つめた。
悪い夢を、見ていた気がする。
微睡みの心地良さを振り払い体を起こせば、隣に腰掛ける彼女がにこりとこちらを見やる。どうやら、また寝落ちていたようだ。講義を進める声が耳に入る。
まだ授業は終わっていない。大分寝てしまったようでもうどこの話だか分からないが、一応は聞き直そうとペンを左手に持った。説明されている部分に追い付こうと右手で資料のページを捲る。
ふと、右肩に彼女の腕が当たる。無言のまま目線でごめんと伝えてくる彼女は、小さめの綺麗な字を左手で書き連ねていた。
これを書いた頃はクトゥルフ神話TRPGにハマっていました。多分影響を受けています。