7 千方にあらず
武蔵権守の任を終えて京に戻った満仲を、間も無く災難が襲う。舘が強盗団に襲われたのだ。
京で評判の兵である満仲の舘を襲うとは、強盗団も大した度胸だ。
屈強な郎等達が大勢居る満仲の舘を襲えば、多大な犠牲が出る可能性が有るし、下手をすれば頭目自身が捕らえられてしまう可能性も有る。
物盗りだけが目的なら、誰も、こんな割に会わない仕事はしないだろう。
確かに物は盗って行ったが、真の動機は恨みであろうと誰もが思った。
多くの郎等達を連れて、満仲が不在だった処を狙われたことも、行きずりの盗賊の仕業などでは無いと見られる理由だ。
留守居の郎等達の何人かは傷を負い、多くの財貨が奪われた。満仲の悔しがり方、腹立ちは半端では無かった。
そんな或る日、郎等のひとりが聞き込んで来た噂に、満仲は目を見張った。
「なに? あの男が京に居ると言うのか」
「はい。確かに藤原千方は京におります。兄の千晴殿の舘で見掛けた者が何人かおると言うことです」
『荷駄や懐の暖かそうな富貴の者では無く、屈強な郎党衆を襲うとは、何とも呆れ果てた大胆な賊で御座いますな』
武蔵の国衙に呼び付けた時、そう言い放った千方の顔を、満仲は思い出した。
「あ奴か。いや、そうに違い無い。
くそっ、舐めおって。今度こそひっ捕らえて、何もかも吐かせてやる」
「さっそく検非違使に報せて、千方の周辺を探らせましょう」
「いや、検非違使などに任せて置く訳には行かぬ。あ奴は我等の手で捕らえる。満季を呼べ」
満仲、満季、そしてその郎等達を総動員しての探索が始まった。
だが、満仲と満季は、間も無く大きく落胆することになる。
事件の有った日、千方は、まだ京には入っていなかったのだ。
近江におり、伊賀・甲賀、両郡の郡司・望月兼家の舘を訪ね一泊していた。多くの者の目に触れている。
当てが外れた満仲は落胆したが、だからと言って探索を途中でやめる分けには行かない。
そんな中、怪しい人物が浮かび上がって来た。
倉橋弘重という男だ。
満仲邸から持ち去られた盗品の中のひとつを持っていた。
満仲の舘に出入りしている者のひとりが弘重の知り合いで、弘重が満仲邸で見た物と同じ物を持っているのを見て、自分まで一味と疑われては堪らないと思い、慌てて訴え出て来たのだ。
弘重は、さる公卿の家人だったが、不始末を犯し放逐されていた。
その際、その公卿邸に出入りしていた満仲が、公卿の依頼で、放逐前に弘重を打ち据えており、弘重はそのことを深く恨んでいた。
満仲はと言えば、そんなことは余り覚えていない。
満仲自身が乗り込み、弘重を捕らえて来て、痛め付けて吐かせた結果、共犯者ふたりが判明した。
何と、ひとりは王と言う身分を持つ者であり、もうひとりは、満仲と同じ清和源氏であった。
さすがの満仲も、自身で捕らえることは憚られた為、弘重を検非違使に引き渡し、事情を説明した。
検非違使が弘重を再吟味した結果、ふたりの容疑が固まり、検非違使別当(長官)・藤原朝忠に伺いを立てた。
従三位・参議でもある朝忠でさえ、即答は出来なかった。
朝忠は、大納言・高明と左大臣・実頼に相談する。
二人の同意を得、太政官の裁可を得た上で、朝忠の指示の許、検非違使が捕縛に向かった。
主犯とされたのは、醍醐天皇の第六皇子・式明親王の次男・親繁王である。
母は、光孝天皇の元姫皇子で、臣籍降下後、源和子として醍醐天皇の女御と成って親繁王を生んでいる。
さすがに検非違使別当も自身での判断を避け、太政官に諮ったと言う訳である。
強盗の容疑で親繁王を捕縛吟味すると太政官から通告された式明親王は、狼狽した。
親繁王は痢病(下痢)を患っており、とても吟味には耐えられないと申し立てるが、認められなかった。
捜索の結果、親繁王の納戸から、満仲邸盗品の殆どが発見された。
親繁王は元より、式明親王も『男を進めざる』ゆえを以て罪を科せられた。
『男を進めざる』とは、男らしくするよう言い聞かせなかったと言うことか? とすれば、それが罪に問われるとは厳しい。
もうひとりの共犯者は、満仲と同じ清和天皇の皇孫・源蕃基である。
蕃基は貞真親王の子で、元は王の身分にあった。自身が臣籍降下した二世源氏であり、満仲の父・経基と同じ立場だ。
今度こそ千方の尻尾を掴もうと勇み立った満仲だったが、結果を見れば、ひとりは主・高明の異母兄の子、もうひとりは父と同じ立場の二世源氏であったのだ。
特に、蕃基の置かれた立場の厳しさが分かるだけに、満仲といえども、その心境は複雑だった。
首謀者三人の内二人は、身分の有る者だ。
特に親繁王は親王の子。同じく王と名乗っていても、五世の興世王などとは訳が違う。
なぜ、こんな身分の有る者が強盗など働いたのか?
一口に言ってしまえば、そんな時代だったのだ。
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飛鳥から奈良時代に掛けての天武系皇統は、男子の皇位継承者が生まれなかったり、生まれても、幼くして死亡してしまったりした為、中継ぎとして何人もの女帝が起つことになった。
天武系最後の女帝は、未婚のまま皇太子となり帝位に就いた孝謙・称徳女帝である。
宇佐八幡神の御託宣に因り、僧・弓削道鏡に帝位を譲ろうとした。
その真偽を確かめに行った和気清麻呂に寄って、御託宣は覆されて混乱が生じる。
混乱の中、女帝が崩御し、天武系皇統は終焉を迎えたのだ。
それを教訓として、天智系では、兎に角多くの子を設けることが推奨された。
皇后、中宮と呼ばれる正室の他に、源氏物語の表現を借りれば、
『女御更衣あまたさぶらいける』
と言う状況になって行くのだ。
元気な帝は、数十人の子を設ける。その子がまた数十人の子を設けると言うことになれば、鼠算式に皇族が増えて行くことになる。
五代までは皇族としての扱いを受け、王と名乗ることが出来る。
その数はとんでもなく多くなり、彼等を養う為の予算は膨大な額になってしまった。
遷都、蝦夷討伐と併せて出費は嵩み、一方で荘園が増え、本来国に入るべき税収が、公卿や寺社の懐に入ってしまう為、朝廷は財政破綻一歩手前まで追い詰められる。
桓武天皇は、蝦夷討伐に区切りを付け、辺境を除いて、それ以外の国軍を廃止した。
そして、桓武系三代目(光仁天皇から数えれば四代目)の嵯峨天皇の時から、臣籍降下が行われるようになった。
高明のように、臣籍降下後も政治的に重要な地位に在り続けることが出来る者は、ごく少数でしか無い。
大方は、数代のうちに、身分が急降下して行くのだ。
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親繁王は次男である為、臣籍降下の沙汰がいつ来るかと怯えていた。
向こう気だけは強いが、内心は弱い。不安を忘れようと遊び回り、仲間を募り乱行を重ねていた。
遊び仲間の一人が源蕃基であり、その蕃基が仲間に誘い込んだのが倉橋弘重である。
「面白い。その怨み、麿が晴らして遣わす。
不浄の身を顧みず、都大路を大手を振って歩いているのを、兼ね兼ね不快に思うておった。
饅頭めに吠え面かかせて見せよう。弘重手引き致せ。天罰を下してくれようぞ」
弘重の満仲に対する怨み話を聞き終わると、親繁王が意気込んで笑いを浮かべながら言った。
他に七人のならず者を雇って、犯行は実行された。
犯行の行われた当日、千方の姿は近江(現・滋賀県)の甲賀に在った。
晩年の父・秀郷から、
『上洛する際には、その前に甲賀を訪ねよ』
と言われていた。
秀郷の知己・甲賀三郎こと望月兼家が、承平の乱で挙げた手柄に因り、甲賀郡の郡司と成り、その後、伊賀国・伊賀郡(現・三重県西部の伊賀市付近)の郡司をも兼ねるようになっていた。
伊賀国は、天武天皇九年(六百八十年)に伊勢国から分離されており、近江国・甲賀郡と境を接している。
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「朝鳥。始めての土地だが、この景色、何か懐かしい気がせぬか」
馬の歩を進めながら、千方が朝鳥に話し掛ける。
「左様。どこと無く、下野の隠れ郷に似ているような気が致しますな」
「そのほうも、やはりそう思うか。景色ばかりの話ではないな」
秋の刈入れの季節である。多くの農民達が田や畑で働く姿が見える。
皆忙しそうに働いており、千方と朝鳥に視線を送る者はひとりとしていない。それが、下野の隠れ郷を思い起こさせた。
いくら忙しく働いているとは言え、明らかに余所者と思われる者達が入ってくれば、一瞬でも、立ち止まって視線を投げ掛けるはずである。
まして、乗馬で太刀を帯びているふたりなのだから、関心を持たない方がおかしい。
相手に気取られず、無関心を装って密かに観察する術を心得ている者達だ。
ただの農夫では無い。
「郡家に行く道を尋ねてみようか」
「お~い! 」
と朝鳥が呼び掛ける。
「忙しい処を済まぬ。郡家に行きたいのだが、道を教えては貰えぬかのう」
「真っ直ぐ行けばええで。道なりに進んで行けば、目を瞑っていても行けますわ」
一人の男が、手を止めて答えてくれた。
骨太で、腕の筋肉が盛り上がっている。
「そうか。手を止めさせて済まなかった。礼を申す」
「いんや、何の」
と言っただけで、男は何も問い掛けては来ず、直ぐに下を向いて刈入れ作業を始めた。
「やはり、只者ではありませんな」
「兼家殿の手の者であろう」
「兼家様は、郡司でありながら細作も生業とされているそうですから、郷の者の多くが手練れと言うことで御座いましょう」
「その通り」
突然後ろから声がした。
千方も朝鳥も、キッとなって馬を廻した。
笠を被った小柄な農夫が、いつの間にかふたりの後ろに立っている。
「秋天丸か? 」
千方が尋ねる。
「お待ちしておりました」
笠を取りながら、秋天丸は笑顔で答え、頭を下げた。
千方と朝鳥は東海道を来たが、下野から東山道を経て、秋天丸達は前日に甲賀に入っていた。
「ご案内します」
「一本道と言われたぞ」
千方が笑って答える。
「では、露払い致します」
秋天丸が走り出した。千方らふたりは、馬首を廻らし早足で後を追う。
舘の前では兼家が出迎えていた。
朝鳥が農夫に道を尋ねる以前に、早くも報せの者が走っていたのだろう。そして、兼家の後ろには、夜叉丸、祖真紀らの姿が有る。
「ようこそお出でなされた。千方殿。お待ちしておりました」
千方らは馬を降り、頭を下げる。
兼家の案内で広間へ通ると、千方、朝鳥、祖真紀、夜叉丸、秋天丸の順で左側に着席した。
その下座に既に座っている者がひとり居た。犬丸である。
兼家は正面奥まで進み、向き直って腰を下ろす。
右側には、千方の知らぬ四人の男達が座っている。だがそれらの男達が誰なのかは、千方には分かっていた。
「ようこそお出でなされた、千方殿」
兼家が声を掛け、千方らが揃って頭を下げる。
「大勢で押し掛け、申し訳も御座いません。お世話をお掛け致す」
「何の。今の麿が有るのも父上・秀郷殿のお陰。また、千方殿には、信濃のことで大変お世話になっております。何もお構い出来ませぬが、どうぞ、我が家と思うてお寛ぎ下され」
「お言葉に甘えさせて頂きます」
「一応、お引き合わせ致しましょう」
兼家が自分から見て左側に居並ぶ四人を指して千方に言った。
「昔父上から譲り受けた者達で、今は我が郎等達で御座る。
手前から順に、大道国家、駒木時家、広表忠家、広岡義家に御座います。
元は、それぞれ、国影、時影、忠影、義影と名乗っておりましたが、変えました。
ご承知の通り、細作なども生業としておりますので、名に影が付いていては、少々不都合なことも御座いましてな。
また、国家には近く山中を名乗らせるつもりでおります。
祖真紀殿の弟ゆえ、大道の名乗りを捨てさせるのは忍び無いが、山中は土地の名門で、跡継ぎが無く絶えておった。
国家に再興させようと思っております。
また、忠家は、妻が服部持安と言う者の女でしてな。服部家は、男の兄弟が全て身罷ってしまい跡継ぎがおりません。
いずれ、忠家が服部の跡を継ぐことになりましょう。祖真紀殿、宜しいかな? 」
兼家が祖真紀に尋ねた。
「弟も含め、皆、兼家様の郎等。手前に異存の有ろうはずが御座いません」
そう答えて、祖真紀が頭を下げた。
「いや、ひと言断って置きたかったのよ。
ところで千方殿、昨夜は、この四人と祖真紀殿を交えて話が盛り上がりましてな。
将門を討った、北山の戦いの話で御座るよ。
千方殿も、或いは父上からお聞き及びかも知れませんが、当時、古能代と名乗っておった祖真紀殿の活躍は大したものであった。
麿の手柄など、それに比べれば、大したことは無い。のう朝鳥殿」
「いえ、兼家様のご活躍は大したもので御座いました」
「それも、祖真紀殿の助けが有ってのこと」
「飛んでも無い」
祖真紀が少し頭を下げた。
「何の。秀郷殿の命で、開戦を遅らせる交渉の為、単身、将門の陣に乗り込むわ、麿が将門に近付く為の道を切り開くわ、それは大変なものであったぞ」
将門を射殺したのが、貞盛では無く、実は古能代(祖真紀)であったことだけは兼家は知らないし、それを知っている四人も、そのことだけは、主である兼家にも、決して漏らしてはいない。
「そう仰って頂けるのは有難いことですが、買い被りに御座います」
「相変わらず、欲の無い男じゃな」
「朝鳥殿も交えて、今宵も語り明かそうぞ。千方殿が初めて聞く話も有るやも知れぬ」
「楽しみに御座います」
千方が応じる。
「ところで千方殿。京には、どのくらいおられる予定か」
「当分おることになりましょう」
「人手が必要な時には、いつでも、気軽に声をお掛け下され。京に潜伏している者も多くおりますので、急な時にもお役に立てると思います」
「さすが兼家様。京の動きも常に見張っていると言うことで御座いますな」
そう言ったのは、朝鳥である。
「元はと言えば、それも、秀郷殿を見習ってのこと。
秀郷殿が将門に勝てた理由としては、将門のことを調べ尽くしていたことが大きい。
将門が兵の多くを帰したことを、いち早く察知したことが何よりの勝因と見ました。
世の動きを知ること、中でも敵の動きをいち早く察知することは、誰に取っても大事なこと。
己でそれが十分に出来ぬ時は、対価を払ってでも手に入れたいと思うはず、己の身の安全の為、また、財を得る為、それを生業としようと思いましてな。
忠家ら四人が身に付けていた技が大いに役立っております。
正に、下野藤原家とは一心同体。困り事があれば、いつなりと気軽にお申し出下され。出来るだけのことはさせて頂きます」
酒を酌み交わしながら、夜遅くまで話は続いた。
翌朝兼家は、郎等達を率いて、千方達を郡境まで送ってくれた。そして、その様子は多くの人の目に触れていた。