5 満仲と千晴 2
王と呼ばれる身分だった者が帝の臣下に降り、その子は家臣(貴族)の家臣、即ち陪臣となってしまう。
皇族が増え過ぎ、国家財政で養えなくなってしまった為、平安時代の初期に始まった臣籍降下だが、降下した者の多くが、次の代には庶民の身分にまで落ちて行くことになる。
母の実家からは、他家の家臣となることを強く勧められた。だが満仲は、それを拒否し続けていた。
その結果居づらくなり、一人、父の許へ移っていた。
猟官のため無報酬で、その上、貢物まで贈り続けて仕えている、主に五位の貴族の子弟と違って、朝廷が認めた家臣であれば、わずかながら俸給が貰える。
家計のことを考えれば当然そうすべきなのだが、満仲は、貴族への道を諦めたくはなかったのだ。
将来得るであろう子や孫への、己の責任を感じていた。一旦他家の家臣となれば、子や孫もそこから浮かび上がることは出来ないだろう。
『このまま終わってたまるか! 』
満仲は強く思った。だが、現状は最悪だ、打開の道は無い。
そんな中でもがき苦しんでいた満仲に、幸運は突然訪れた。
将門が実際に謀叛を起こしたのだ。
経基が訴えた時には、将門に謀叛の意思など全く無かった。
常陸の国衙を襲い謀叛に踏み切った事件とは、全くの別件なのだ。
現代の刑法の原則からすれば、経基の讒言の罪が消える理由にはならない。
ところが、経基は許され、解き放たれたばかりでなく、昇進し、従五位下と成ったのだ。
貴族である。
当然、満仲にも貴族の嫡男としての道が開ける。
将門が謀叛を起こしたことに寄って救われた一家が、ここに確実に存在した。正に、『将門サマサマ』である。
五位の者の嫡男は、蔭位によって、二十一才になると従八位上に叙せられることになっている。
だがそれは、飽くまで建前であって、五位の者の子弟が実際に官位官職を得ることは、容易ではない。
大臣の曾孫まで官職に就いてしまうので、貴族としては最下位となる五位の者の子弟が、実際に官職に就くには大変な努力と出費が伴うことになるのだ。
陪臣とならずに済んだ。しかし、一生下級官人で終わるつもりも、満仲には無かった。
『何としても、己の力で貴族に上って見せる』
そう決意した。
父・経基が更に出世すれば、黙っていても、満仲が五位に上れる機会は近付く。
当初、経基は張り切っていた。
解き放たれたことと、続いての叙爵の沙汰に訪れる客も増え、経基の周りに人が戻って来た。
来訪者の中には、満仲が頼った時、居留守を使った者、すげなく断った者も含まれていた。
「いや~良かった。実は麿もな、命の解き放ちに付いては、兼ね兼ね、さる公卿にお願いしておったのよ。
だが、思いがけぬ成り行きで、解き放たれたばかりで無く、叙爵となって、本当に良かった。我がことのように、喜んでおりまするぞ」
やってもいないことを恩着せがましく言う。
父は父で、
「思いがけなくとの仰せですが、麿には、いずれこうなることは分かっておりました。
あの、将門と言う男が叛意を持っていることは、とうに見抜いておりましたからな。
武蔵では、麿が京に向かったのを知って断念したので御座いましょう」
などと強がりを言って、会ってもいない将門の人物評価までしている。
「人とは、所詮こんなものか」
満仲は覚めた目で、そんなやり取りを見ていた。
その経基、最初のうちこそ張り切っていたが、将門追討の機会を逸し、更に、純友追討に於いても大した手柄を立てられなかった為、すっかり意気消沈してしまった。
『災難に遭ったようなもの』
と他人に吹聴していたが、実際は自業自得である。
『興世王の儲け話に乗ったのが受難の元』
そう考えて、強引なことはやらず、無難に過ごすことのみを考えるようになった。
何か問題を起こして、せっかく得た貴族の地位を失いたくは無かったのだ。
元は皇族だけに、決して打たれ強くは無い。
投獄されたことが余程堪えたと見える。その為、国司を歴任するも、余り財を残せなかった。
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国許からの援助が得られる地方豪族の子弟と違って、満仲は自分で稼がなければならない。
その上で、公卿達に貢物を贈って、猟官運動をする。
まともなことをやっていたら、とても賄えるものではい。
何でもやった。臨時の警護などは勿論のこと、或る公卿が、
「あの男、虫が好かぬ」
とでも言えば、提案して、盗賊の振りをしてその男の牛車を襲う。
襲われた方は、恐怖の余り取り乱して烏帽子も脱げ、裸足で牛車から逃げ出す。
それを陰から見ていた依頼主は、腹を抱えて笑い、
「いやぁ、愉快、愉快」
と満仲に謝礼を渡す。
荘園で揉め事が起きていると聞けば、出掛けて行って納めて来る。
話し合いなどでは無い。大抵は脅しだ。
公卿達に頼まれれば、どんな汚れ仕事でもする。
そんな噂が、公卿らの口から口に伝わり、謝礼も結構集まるようになった。
彼等の秘密も色々と知るようになった。小悪党なら、それをネタに物をせびるような真似をする処だが、満仲はそんな真似はしない。
いつ誰の前でも、全く知らない顔をしている。
それは、頼み事をする際にも同じで、
『アレをしてやったではないか』
などと言う素振りは一切見せないのだ。
勿論、己自信の保身の為にもそれは必要なことなのだが、公卿達にして見れば、満仲なら後ろ暗いことでも安心して頼めると言うことになる。
素振りは見せなくとも、後ろ暗いことを頼んだ方にはその意識が有るから、満仲の猟官運動も比較的順調に進むようになった。
貸しが有ると思える公卿に対しても、満仲は常に下手に出て、貢物をせっせと贈る。
汚く稼いで気前良く使う。それが満仲のやり方だった。
そんな訳で、表向き満仲を悪く言う公卿は少ない。と言うよりも、脛に傷持つ者は、悪く言えないのだ。
稼いだ財を使って郎党も増やし、京では並ぶ者の居ない兵へと満仲は成長して行った。
そこへ現れたのが藤原千晴である。
下野藤原氏の財力を背景に、大勢の郎党達を引き連れて上洛し、高明の従者となった。
満仲は、千晴のように、高明にだけ張り付いて無償奉仕している訳には行かない。
まず、稼がなければいけないし、多くの公卿の許へ出入りして、出世の道を切り開いて行かなければならないのだ。
『目障りな奴だが、当分、辛抱であるな』
千晴に付いて、満仲は己にそう言い聞かせた。
館に戻った高明が奥に姿を消すのを見送って、千晴が満仲の方に歩いて来た。
「いや~、いつもながら、大したお勤め振りでござるな、千晴殿。麿には真似が出来ぬわ」
「いや、大納言様は、同じ源氏として満仲殿をいたく頼りにしておられる。麿に出来るのは、雑用くらいですから」
「ご謙遜召さるな。千晴殿の姿が見えぬと、小藤太は何処じゃ、と直ぐ仰せになるほど命を頼りにされておる」
「何の。満仲殿のご指導あってのこと。どうか、今後ともご鞭撻下さい」
高明邸の庭で、ふたりは屈託無さげに笑い合っている。