エピソード1:結果、行方知れず。④
どうしようもない。
どうしようもない。
言い聞かせるのは、この言葉ばかり。
自分一人では、『どうしようもない』のだ。
だから、全てが終わるのを待つしかない。
たった一人、この部屋の中で。
「……ふぁ……」
とあるマンションの一室、パジャマからやっと着替えを済ませた時、時刻は朝の10時を過ぎようとしていた。
今日は土曜日、本来ならば仕事が休みなのだが……この部屋の主である山本麻里子は、休日出勤ということで既に外へ出ている。
だから、部屋の中には一人きり。
とりあえずのそのそと動いて冷蔵庫を開けてみた。週末ということもあって、嫌な予感はしていたのだが……見通しが良い冷蔵庫の中に入っていたのは、いも焼酎と塩辛と味のり。これで一体どうしろと。
「……おなかすいた……」
空腹を知覚した瞬間、とてつもない虚脱感が襲ってくる。しかめっ面と一緒に冷蔵庫を閉めて、深々とため息をついた。そして……無意識の内に、彼らの名前が口をついて出る。
「政宗やったらこれで十分かもしれんし、統治がおったら、これでも何か作ってくれるんかな……」
口に出した瞬間、後悔をため息に変えたくなくて……1人静かに、唇を噛み締めた。
何を言っているんだ。
ここは福岡県福岡市、彼らから1000キロ以上離れた場所だ。連絡を取ることは禁止されているし、取るつもりもない。だから……この事態が収束するまで、何も出来ない。
それにもしかしたら、もうすぐ『彼女』に――
「――バカバカしい」
脳裏をかすめる最悪のシナリオを消したくて、大きく頭を振る。
そしてリビングに戻ると、机の上に置いていた財布、部屋の合鍵と自転車の鍵がセットになっているキーリングを手に取った。
このままでは『彼女』より先に、空腹に命を奪われそうだ。
「ローソンにでも行って、何か買ってこようかね……」
呟いた後、そこについているお守りを握りしめて……彼女は静かに、部屋を後にする。
目深に被った帽子から、それ以上の表情を伺うことは出来なかった。
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律儀に青信号を待っていたかのようなタイミングで、こちらへ向かって静かに歩いてくる女性。
長い髪の毛を前方に垂らし、死装束のような白い長袖のワンピースを身に着けている。海の近くにいる『痕』によく見られるような、水に濡れた形跡は特になく、ただ、歩く時に少しだけ右足を引きずっているように見えた。
「統治、ちょっと離れるぞ」
「あ、ああ……」
政宗の指示で、2人は横断歩道を渡るの諦め、そのまま角を右折した。女性が横断歩道を渡りきった時点で、20メートルほど距離を取って状況を注視しているが……今は周囲に人が多くないこともあり、彼女が放つ禍々しい雰囲気を全身で感じ取ってしまう。
そして、そんな彼女の左手には、どす黒く変色した『関係縁』が2本。はっきり目視出来る状態で残されている。
そんな彼女が放つ禍々しい雰囲気に、統治は覚えがあった。
そう、昨日の夜――博多駅で感じた気配と一致する。
恐らく彼女が、昨晩、あの場に偶然居合わせたであろう『遺痕』だ。
昨日は一瞬だったこと、人が多かったことなどもあって、特に深追いしなかったけれど……ここまで近づいてみると、その判断が正しかったことが分かる。これはむしろ、闇雲に追わない方がいい。
あの『関係縁』がどんな人物と繋がっているのか分からないが、今の彼女は最早恨みの権化だ。瘴気のような禍々しい空気は、強い覚悟としっかり用意をして対峙しなければこっちが飲み込まれてしまうほどに。
何よりもここは福岡だ。統治も土足で彼らの陣地を荒らすつもりはない。けれど……。
「福岡で一体、何が起こっているんだ……?」
街中をこれだけ盛大に徘徊する『遺痕』に対して、福岡支局が何もしていないとは考えたくない。統治はとりあえず気持ちを立て直して、冷静さを取り戻すために一度息を吐いた。そして彼女に残る『関係縁』から何か掴めないかと、刻まれている情報を読み取ろうとして――
「なっ……!?」
刹那、それが何なのかを確信した統治が目を見開いて声を漏らし、慌てて口に手を添えた。
2本残る、彼女を現世に繋ぎ止めている『関係縁』、そのうちの1本が繋がっている先、それは――
次の瞬間、スマートフォンで写真を撮影する時のシャッター音が耳に入る。
音が聞こえた方――自分の隣に視線を向けると、政宗が自身のスマートフォンを彼女の方へ向けて、写真を1枚撮影していたのだ。
その音が聞こえた瞬間、近づいてくる彼女が微かに目線を上げて彼を睨んだような気がしたが……一瞥した後、足を引きずりながら、2人が歩いてきた方向へ――中学校や地下鉄の駅の方へと直進していく。
程なくしてその姿は角に消え、気配も徐々に遠ざかっていった。それらを確認した政宗が、安堵した表情でスマートフォンの電源を切る。そして、皮肉交じりに呟いた。
「福岡、すげぇな……あんなのを野放しにしてるのかよ……」
「佐藤、先程の女性は――」
そんな政宗へ、統治が昨晩の出来事を改めて口に出そうとした、次の瞬間――
――鼓膜に響く轟音に、思わず全身を強張らせる。
その音が事故の音だと気付くまで、さしたる時間はかからなかった。
2人が交差点まで戻り、音がした方を――自分たちが歩いてきた道を見ると、交差点から数メートルほど離れた場所で、軽自動車が電信柱に衝突していたのだ。
フロント部分から白い煙が細くたなびき、運転席から女性が一人、長い髪を振り乱しながら車外へと這い出して……その場にへたり込む。恐らく自損事故だろうし、運転手も自力で脱出してきた様子なので、命に関わる怪我ではなさそうだ。
ただ……2人が見ているのは、そこではない。
周囲にいた他の人が駆け寄って彼女の無事を確認したり、警察や消防へ通報している中、政宗と統治は、事故を起こした女性の背後で静かに佇んでいる、先程の『彼女』の姿を捉えていた。
2人以外は誰も気付いていないけれど、『彼女』はただ静かに、そこに佇んで……事故を起こした女性を見下ろしているようにも見える。
そのため、表情までは『視えない』けれど……『彼女』が見ているのは、困惑している事故の当事者、ただ1人だ。
『遺痕』は時に、生きている人間に対して不幸な干渉をする。
もしも『彼女』が、あの事故の原因であるのだとすれば。
昨日、博多駅で怪我をした女性がいたのは、政宗と統治が数分前までいた場所だった。『彼女』が足を引きずるような歩き方をしていなければ、鉢合わせになっていたのは2人だったかもしれない。
駅に行く前に会ったセレナは、右手を怪我していた。
その時に、何を言っていた?
――対応しとった『遺痕』が急に逆上して襲いかかってきたことがあってね。結局私は取り逃がしちゃったんやけど……あれ、どげんなっとるとやか。
『彼女』が、セレナ達が――福岡支局が取り逃がしている『遺痕』だとすれば、『彼女』は襲いかかってくる逆上タイプだ。いくら目の前にいるとはいえ、『縁切り』をする上で必要な名前などの情報も一切持たず、名杙の優位性さえ怪しい今は、迂闊に手を出さないほうがいい。
しかも――
「っ……!!」
刹那、彼女と目が合った政宗は、泣きそうな表情で首を横に振った。
似たような『遺痕』の表情を、10年前に見たことがある。
あの顔は――あの眼差しは、生者を裏切り、道連れにする目だ。
「統治……やばい、退くぞ」
政宗の言葉に頷いた統治は、瞬時に踵を返して交差点を改めて右折、『遺痕』と物理的な距離を取るため、2人でがむしゃらに地面を蹴った。
早く、早く離れなければ――その恐怖心だけで足を動かすことしか出来ない。
心臓が脈打ち、呼吸が乱れた。それでもただ、本能で足を動かし続ける。
今は1メートルでも遠くに逃げなければ――10年前の二の舞になるのは、自分たちだ。
200メートルほど走った先、百道中央公園の隣に位置する福岡市博物館の前まで到着したところで……2人は乱れた呼吸のまま足を止め、恐る恐る後方を確認した。
「お、追ってきてない、よな……」
「ああ、大丈夫そうだ……」
2人で身の安全を確保した後、それぞれに瞬きをして世界の視え方を元に戻した。
そして……盛大に溜息をつく。
「福岡っておっかねぇな……俺、あんな強いのを目の当たりにしたの、初めてかもしれない」
政宗は先程の様子を思い返しながら、一人、背筋を凍らせていた。
『遺痕』となってしまった存在は、その場に留まることでその土地や繋がっている人間に悪影響を及ぼす。それこそ地縛霊のようになってしまい、そこに行くと必ず転ぶ……というように、目に見える形で影響が出ることもあるのだ。
もっとも……視線を向けられただけで事故を起こすような、そこまで強力な『遺痕』に出会ったことはなかったけれど。
ただ、今……福岡には、非常に危険な存在が野放しになっている。それは疑う余地もない事実だ。
「とりあえず、一誠さんに写真も添えて連絡しておくか……」
歩道の隅に寄った政宗は、スマートフォンを操作してメッセージを作リ始めた。そんな彼の横顔へ向けて、統治は口の中に溜まったツバを飲み込んだ後……恐る恐る問いかける。
昨日は気付けなかった。けれど、先程しっかりと確信したことがある。
もしも、政宗がそれに気付いていなければ――早めに事実を共有しておきたいから。
「先程の『遺痕』に残っていた『関係縁』、2本あった。佐藤は……気がついたか?」
彼の言葉に政宗は顔を上げると、一度だけ首を縦に動かす。
この口ぶりから察するに、統治は既に気付いている様子だ。そして。
「……あぁ。多分、さっき双葉さんに能力強化されたからだろうな。嫌でも分かったよ」
操作を終えた政宗は、スマートフォンをパーカーのポケットにねじ込んで……苦々しく吐き捨てる。
彼もまた、気付いてしまった一人だから。
「あの『関係縁』の先にいる1人は――ケッカだ」
統治も、そして政宗も、彼女の『関係縁』を見た瞬間に理解してしまった。
『彼女』の縁が結んでいる相手が、自分たちの探している女性だということに。
「これではっきりしてきたな。ケッカはあの『遺痕』とのいざこざに巻き込まれてる。彼女が表に出てこないのも、セレナちゃんが怪我をして回復が遅いのも、恐らく彼女が原因なんだろうな」
「ああ。あの色味と残り方は……生前に相当の恨みがあったと想像出来る。昨日、博多駅で俺が感じたのも、彼女の気配だった」
「マジかよ……ってことは、俺たちが危なかったかもしれないな。逃げ切れて助かったな」
今更のように背筋が寒くなってきた政宗は、乾いた笑いを浮かべて……頭を振った。
そして、気になることを口にする。
「ケッカみたいに恨まれてるのがこの世にあと1人いるのか。誰なんだろうな……」
先程の『遺痕』は、これまでに遭遇してきたものの中でも、特に強い部類に入ると思っている。
もしもユカ本人が彼女と対峙して、10年前のようなことになったら……。
考えただけで、背筋が寒くなる。
そんな不安を払拭したくて、左手を強く握りしめた。
繋がっているはずなのに。
普段であれば自分の能力で、その繋がりを感じられるはずなのに……。
「……」
政宗はふと、自分の左手をまじまじと見下ろした。
そして先程、双葉から言われた言葉を思い出す。
――短時間であればこの土地での人探しに向いているかと思います。
その言葉の意味を、確かめてみるしかない。
政宗は周囲の気配を確認した後、自身の左手の小指を見下ろして……研ぎ澄ませた感覚と共に瞬きをして、改めて視界を切り替える。
そして、小指から伸びるユカとの『関係縁』に神経を集中させて、彼女の居所を探った。
これまで――福岡に来る前も、来てからも、折を見てユカとの『関係縁』から彼女の居場所を探せないかと試みているが、どうしても彼女のところまで至れないのだ。
でも、今ならば……出来る気がする、そんな、確証のない自信。
「俺はここにいるぞ、ケッカ」
そう呟いて、神経を集中させた次の瞬間――彼女の気配を掴んだ、そんな気がして目を見開いた。
「……え?」
間の抜けた声で前方を見つめる政宗に、統治が訝しげな顔で問いかける。
「佐藤、何か分かったのか?」
「ケッカが……ケッカが、この近くにいる気がするんだ」
「本当か?」
「あ、ああ。多分今なら、この『関係縁』を辿っていけば会える気がする」
政宗はそう言いながら、自身の左手を眼前にかざした。
小指から一本だけ繋がっている、紫色の『関係縁』。これが繋がっている相手は、この道の先にいる……そんな、強い確信がある。
そう思った瞬間、強烈にのどが渇いてきた。視線の先にはコンビニの看板が1つ。先程全力疾走したこともあって、とりあえず一息つきたい。
「とりあえず……あのコンビニにでも行っていいか? 喉乾いてしんどいんだ」
「分かった。何か気付いたことがあれば教えてくれ」
そう言って統治が指差す先には、ローソンの看板。目測100メートルほどの距離を、2人は静かに歩き始めた。
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ユカは最寄りのローソンである程度の食料や飲み物を買い込むと、キャスケットを目深に被り、周囲を警戒しながら外へ出た。
秋の日差しが降り注ぐ土曜日。近くには博物館や福岡タワーという観光地があることもあり、歩道を観光客らしき人がちらほらと歩いている。
とりあえず『彼女』の気配がないことに安堵しつつ、カゴに荷物を乗せてロックを解除した。籠の重さでハンドルがふらつき、慌てて両手で握る。冷蔵庫の惨状を目の当たりにしたことで、ついうっかり色々買ってしまい……ただでさえ慣れない自転車なのに、ペダルも重たいことになりそうだ。バランスを崩さないように気をつけねば。
耳に届くのは、久しぶりに聞いた波の音。頬を撫でる海風に目を細めつつ……ユカはハンドルを握ったまま、少しだけ立ち尽くしていた。
「……いい天気」
これだけ気候がよければ、海沿い等をサイクリングしたいところなのだが……生憎、今の自分にそんな自由時間はない。許されているのは生活圏内における最低限の移動のみ。自転車で部屋に戻ってからは、またしばらく引きこもりだ。そのために大量のお菓子を買い込んだとはいえ……1人に慣れるまで、もう少し時間がかかりそう。
「しょうがなかね……」
ユカが精一杯の感情を一言に込めて吐き捨て、気持ちを切り替えてスタンドを蹴った、次の瞬間――
「――ケッカ!!」
「っ!?」
福岡にいるはずのない人物の声と、聞くはずのない名称が大声で届き、ユカは盛大に身をすくめる。
反射的に声がした方を振り向いてみると……20メートルほと後方にある交差点から、政宗と統治がこちらへ向けて走ってくる姿が見えたことで、盛大に目を見開いた。
「はぁっ!? な、なして!?」
脳が一気に混乱するが、すぐに冷静さを取り戻して彼らに背を向けることを選択する。
巻き込めない。
彼らがどうしてここにいるのかは分からないが、ここで彼らに頼ったら、自分が福岡に残った意味がなくなってしまうから。
選択肢は1つ、彼らに背を向けて、麻里子の部屋に戻ることだ。最悪どこかに身を隠してでも、彼らに捕まるわけにはいかない。
仮にもしも、もしも『彼女』に見つかったら……腹をくくって、この指で切ろう。
「こ、このまま帰ってもいかんよね……とりあえず移動せんとっ……!!」
ユカは脳内で周辺の地図を思い描くと、ペダルを踏んで自転車を漕ぎ出した。案の定、普段使わない自転車であること、更に今は籠の荷物のせいもあって思ったほどのスピードは出せないが、それでも人間の足よりは早い。真正面にある福岡タワーを越えて左折し、細道の多い住宅街を目指す。
「あぁっ!? チャリかよちょっ……ケッカ!! 待てって!!」
背後で政宗の焦った声が聞こえたような気もするが、今は振り返っていられない。とりあえず2人と物理的に距離を取らなければならないのだから。
いくら彼らの運動神経が良くても、こちらは自転車なのだ。しかも土地勘だってある。彼ら2人を撒くことなど造作もないことだ。
「っ……!!」
唇を噛み締め、迷いを押し戻す。こみ上げる感情を、これ以上外へ出すわけにはいかない。
話をしたい。
顔を見たい。
――頼りたい。
足を動かし、前を見据えた彼女に去来するのは……そんな感情ばかりだ。
「――あぁもうっ!! 1.5リットルのコーラ2本も買うんじゃなかった!! お節介バカ政宗ぇっ!!」
自分の中にいる何かを振り払うように、ユカは海沿いの道を走る。十数秒後、地元テレビ局の前から対岸にある小学校の方へと右折することにした。特に信号機や横断歩道もないため、道路を斜めに横断することになる。
ユカはペダルを踏む足を動かしながら、後方から車が来ているかどうかを確認するために軽く振り返った。
後ろから追いかけてくるのは、統治一人。
「え……?」
おかしい。先程は2人いたはずだ。別行動を取るにしては判断が早すぎるし、何よりも……。
「政宗、どこに――っ!?」
視線を後方から前方に戻したユカは、急ブレーキをかけて両足でアスファルトを踏みしめる。
「……お節介で、悪かったな……!!」
いつの間にか進行方向に先回りしていた政宗が、息を激しく切らしながら彼女の前に立ちはだかった。
額に汗を滲ませ、籠を握っている彼に睨まれ、ユカは苦虫を噛み潰したような顔で視線をそらす。
そして、ハンドルを握っている左手を見つめ……切っても切れない『腐れ縁』に、ため息をついた。
挿絵が、増えたんです!! おが茶さんが描いてくれました。ありがとうでは足りない感謝が溢れてくる……!!
見てくださいこの見事な挟み撃ち!! これを自転車で突破するには、政宗へダイレクトアタックするしかない!!(駄目だよ)
背景は恐らく玄界灘です。うっすら見えるのは能古島あたりですかね。こんな青空の元で再会出来た喜びをもっと噛み締めてほしいなケッカちゃん!!(今は無理だよ)
脳内で妄想していた画像が出力される喜びは、何度経験しても嬉しいですね。本当にありがとうございます!!