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エピソード2.5:居場所が見つかるその日まで㊦

「――動け」


 麻里子が結唯香に向けて言い放った言葉は、広いフロアに反響して……静かに消えた。


「え……?」

 端的すぎる答えに結唯香が困惑した表情を浮かべる一方、麻里子は景色を見つめながら、力強く言葉を続ける。

「立ち止まらんと、動き続けるったい。目の前にある可能性にしがみついて、全部自分の血肉にすればよかやろうもん。そこで得た結果が、結唯香を勝手に大人にしてくれるやろうけんな」

「で、でも……」

「1つ言っておくと、『縁故』は特殊な分、稼ぎが良い仕事だ。慣れてくれば高校生でも月に十数万は稼げるし……当然、将来的は経済的にも独り立ち出来る」

「え? お、お金……?」

 麻里子の言葉に結唯香が目を丸くすると、麻里子は「ああ」と力強く頷いた。

「働いて得られる対価は、自分への真っ直ぐな評価だ。今の結唯香に足りないのは自己肯定感やけんな。その才能を伸ばして、自分にどれだけの価値があるのか……この機会に試してみる気はないか?」

「あたしに……価値なんか……」

「今、自分で決めてどげんすっとか。結唯香には10年早かったい」

 麻里子はそう言って結唯香を笑い飛ばすと、困惑する彼女を見つめて……口元に笑みを浮かべる。

「人に迷惑をかけたくない、それが君の意思なら……それを叶えるために動けばいい。そのための環境を整えるのは、大人の役割やけんな」

 彼女はそう言って外の世界を見つめ……ガラスにうつっている少女を横目に捉えつつ、言葉を続けた。



「あとは結唯香がどげんするか、それだけやんか。自分のことも決めきらん奴が、己の価値を決めようとするんじゃなか」



 これまで、自分の意思を聞かれたことなんて……過去すぎてすぐに思い出せない。

 習い事も、洋服も、髪型も……自分のことは全て父親が決めてきた。母親はそれに頷くだけで、否定はしなかったけれど……心からの肯定をしてくれたわけでもない。

 少しでも自己主張をすれば、真顔で否定されてきた。そんな自分の選択に自信が持てるはずもない。


 けれど……。



 目の前にいる麻里子は、これまでに自分が出会ったことのないタイプの女性だ。

 自信があり、1人で真っ直ぐに立っていられる大人の女性。自分の母親とは正反対で……強くて、眩しくて、思わず萎縮してしまうようなタイプの。


 もしも、もしも母親が、麻里子のようなタイプだったら……自分の運命は、変わっていただろうか。

 物応じせず自己主張する、肯定もするし、否定もする。そんなタイプの女性だったら……。


「あたしは……」



 彼女の側にいれば……今の自分を変えるために、動き出すことが出来るだろうか。



「あたしは――!!」




 ――次の瞬間、展望フロア内に閉館を告げる自動アナウンスが鳴り響く。

 それを聞いた麻里子は、にべもなく言い放った。


「結唯香、君は今日から私の家で修行だ」

「えぇっ!?」

「さっき言ったやろうが。閉館のアナウンスが鳴るまでに決まっとらんかっらた私が決めるって。決めるのが遅かったいさっさと決めんけんやろうが」

「そ、それは……そうですけど……ってちょっと!!」

 しれっとエレベーターへ向けて歩き出した麻里子の背中を、結唯香は慌てて追いかけた。そして早足で隣を歩きつつ、整った横顔に訴える。

「ちょ、ちょっと待ってください!! あたし……!!」

「時は金なりって言うとぞ、結唯香。追加料金を請求される前に私は帰る。結唯香は……どげんするとか?」

 こう言ってエレベーター前に到着した麻里子は、下を向いたボタンを押してエレベーターの到着を待った。結唯香はその態度に呆然としつつ……彼女を見上げ、半ばやけくそで言い返す。

「……ついていきます!! 帰るところなんか、ありませんから」

「上等だ」

 こう言って麻里子がニヤリと笑った、次の瞬間――エレベーターが到着し、目の前の扉が開いた。


 その後、2人は徒歩で移動し……麻里子が住んでいるというマンションの前へとやって来た。

「あ、あの、すいません麻里子さん……その、いきなり押しかけて良いんですか?」

 麻里子はその答えの代わりに、結唯香へ部屋の鍵を手渡し、部屋番号を告げる。そして……。

「この鍵をあそこにかざすと、自動ドアが開くけん。私は酒ば買ってくるけんが、先に入ってベランダのカーテン閉めとってー。あ、その鍵は孝高に渡してよかよー」

「えぇぇぇっ!?」

 盛大に雑用を押し付けられた結唯香の言葉を背に受けて、麻里子は振り返らずにエントランスを出ていった。

 1人残された結唯香は……手の中に残る鍵を見下ろす。

 こんなに無防備なことが、あっていいのだろうか。

 ほぼ初対面の自分に、家の鍵を預けるなんて……しかも孝高って誰だマジで。

「……言われたことはちゃんとせんと、何言われるか分からんね……」

 結唯香は苦笑いで鍵を握ると、部屋番号を反すうして……壁に備え付けられているインターフォンに鍵をかざし、オートロックを解除した。


 そして、言われた番号の部屋に行ってみると……。


「――あ、ユカちゃん、おかえりなさいー」


 扉の音で廊下に出てきた瑠璃子が、笑顔で出迎えてくれたのだ。


 あれ? 部屋を、間違えた……?

 予想外の人物の出迎えに、玄関先で固まる結唯香。一方の瑠璃子は先程の服装の上からエプロンをつけており、廊下の電気をつけながら笑顔を向ける。

「麻里子さんに頼まれとったとよ。今日は仲間が増えるけんが、夕ご飯ば作っとってって」

「な、仲間……?」

「そう。ユカちゃんの好きなものが分からんかったけんが、とりあえずカレーにしたっちゃけど……カレーは食べれるー?」

「あ、はい……」

「それは良かった。ほら、上がって上がってー」

 最早誰の家なのか分からない。考えることを放棄した結唯香は、成り行きに任せて廊下を歩き、リビングへ続くであろう扉をくぐった。


 扉を抜けた先にあったのは、開放感のあるリビングダイニング。扉の近くにあるシステムキッチンでは瑠璃子が鍋の様子を見ながら料理を続けている。そして……視線の先にあるリビング部分には長方形のテーブルが設置されており、長身の男性が机の上を片付けていた。

「っ……!!」

 見慣れない人物に結唯香の体が強ばる。そんな彼女の反応を見た瑠璃子は、鍋の火を一度切ってから結唯香に近づき、彼女の肩をポンと叩いた。

「あの人は、古賀孝高さん。私達と同じで、麻里子さんの……そうやねぇ、麻里子さんの相棒ってところかなー」

「相棒……?」

 瑠璃子の曖昧な物言いではピンとこなかった結唯香が首をかしげると、瑠璃子は「どげん説明したもんやかねぇ……」と、苦笑いで肩をすくめる。

「孝高さんは、麻里子さんの次に偉い人なんよ。やけんが、ユカちゃんもこれから色々とお世話になると思うっちゃけど……怖い人じゃないけんねー」

「そ、そうなんですか?」

「そう。あげな雰囲気やけん、勘違いされることも多いっちゃけどねー」

 こう言って笑う瑠璃子に、結唯香は少しだけ体の力を抜いた。すると、そんな2人のやり取りに気づいた孝高が、まとめた雑誌を手に持ったまま、2人の方へ近づいてきて……静かに、結唯香を見下ろす。

 そういえば先程、麻里子に鍵を返すよう言われていた。その相手が孝高だったはずだ。結唯香が握っていた部屋の鍵をオズオズと差し出すと……それを受け取った孝高は、無言で鍵と結唯香を見比べた。

 身長が180センチ以上――結唯香の1.5倍程度はあるので、彼女から見ると未知の領域の大人だった。孝高は結唯香をじぃっと見下ろした後、静かに扉の方を指差す。

 もしかして、出ていけということだろうか……つばを飲み込んで身構える彼女に対して、孝高は静かに口を開いた。

「……手を洗うなら、洗面所はリビングを出て右側にある。うがい用のコップは、緑色のものを使ってくれ」

「は、はい……」

 コクコクと頷く結唯香に、瑠璃子が苦笑いを向けた。

「孝高さーん、自己紹介くらいしてくださいよー」

「……古賀孝高だ。麻里子がすまない」

「へっ……?」

「麻里子のことだ。大方自分が御大層に語った上で君を巻き込み、自分は酒を買いに行ったのだろう。自分のペースだけで他人を巻き込んで放置するな、と、何度も言っているんだがな……」

「え、えっと……その……」

 麻里子をフォローしたいが、大方彼の言った通りなので何も言えない。言葉を探すことを諦めた結唯香は、「て、手を洗ってきます……!!」と言い残して部屋を出ていった。

 そして、彼に教わった通りの場所にあった洗面所で、手を洗ってうがいも済ませた結唯香は……鏡にうつっている自分の顔を、マジマジと見つめる。

 そして……麻里子を含め、ここにいる大人は変な人達ばかりだ、と、己の常識が通用しないことに苦笑いを浮かべるしかなかった。


 その後、どうしていいか分からない結唯香に、瑠璃子が細々した手伝いを頼んでいると……玄関のほうがにわかに騒がしくなる。声の主の1人は麻里子だということが分かるが、あと2名は……結唯香の知らない男女のようだ。

「……から……して……っかり……!!」

「……らほらー、頑張ってくださぁーい♪」

 テンションの異なる声と一緒に、複数の足音が廊下を進んでくる。そして……。


「おっつかれさまでーすっ!!」


 一際テンションの高い女声が部屋に響き、結唯香は思わず全身をビクリと震わせた。

 声を発したのは、派手な格好をしている若い女性だった。赤みががった色に脱色した髪の毛をたらし、左右にリング状のピアスをつけている。服装は、大胆なオフショルダーの黒いニットワンピース。右手にダッフルコートを持っているので、ここに来るまでは着ていたのだろう……多分きっと。そして、ワンピースの下は素足のようにも見える。

 青いアイシャドウと長いまつ毛が印象的な彼女が、キッチンから自分を凝視している結唯香に気づいた。そして、「ルリちゃーん、その子なのぉー?」と瑠璃子へ尋ねた後、瑠璃子が首肯したことを確認してから、笑顔で近づいてくる。

「うわー本当に小学生なんだねーっ!! すっごーい、わっかーい!!」

「え、えっと……その……」

「あ、誰って感じだよねー。ゴメンゴメン。私、早坂環南(かんな)、環南ちゃんって呼んでくれていいよー★」

「は、初めまして……緒方結唯香、です……」

「ユイカちゃん!! かわいぃねー!! っていうか名前似てない? 『ゆいかんな』ってユニット組めそー!! ってリコさーん、ユイカちゃんって偽名なのぉー?」

「ぎ、偽名……?」

 彼女――環南の言っている意味が分からずに目を白黒させる結唯香に、瑠璃子が「後でじっくり説明するけん、今は聞き流しとってよかよー」と笑顔でカレー鍋をかき混ぜる。

 部屋に入ってきた麻里子もまた、瑠璃子と共に台所へ立っている結唯香を見つけると、口元に笑みを浮かべた。

 そして。


「だ、誰か……手伝って、くだっ……」


 両手に大量の荷物――後に缶ビールや焼酎だったことが判明する――を持って、ヨタヨタとやって来た男性が、扉をくぐった瞬間に力尽きた。彼もまた、結唯香が知らない人物だ。

 どうしようかとワタワタする結唯香の後ろから、瑠璃子がスッと前に出た。そして、彼の荷物を半分持ちあげる。

「一誠、情けなかよー。シャンとせんね」

「しょ、しょうがないだろ!? 6人分の酒とジュースを1人で持たされたんだぞ俺は!!」

 瑠璃子から『一誠』と呼ばれた彼は、断固抗議して周囲を見渡した後……自分を凝視している結唯香に気づいて、慌てて起き上がった。

 孝高と同じくらい背が高く、短髪ではっきりした顔立ち。黒いダウンジャケットとジーパンという出で立ちで、他の人よりも線が太い印象を受ける。

「っと……騒がしくてスマンな。俺は川上一誠。えっと……緒方結唯香ちゃん、やったよな。宜しく」

「よ、宜しくお願い……します……」

 とりあえず悪い人じゃなさそうだと結唯香が心の中で全員を評価したところで……キッチンの奥にある炊飯器が、米の炊きあがりを告げた。


 その後、全員でカレーライスやサラダを食べながら……一誠以外の4人はアルコールも摂取しだして、最早宴席になっていた。

 と、言っても……4人ともどれだけお酒を飲んでも、顔色1つ変えない。大人はお酒を飲むと酔っ払うとテレビで見たことがあった結唯香が面食らっていると、彼女の隣でコーラを飲んでいた一誠が、ヒソヒソと声をかけた。

「……ここにおる4人は、酒が主食やけんな。緒方ちゃんはこげな大人になるんじゃなかぞ」

 刹那、机の角を挟んで彼の隣に座っていた瑠璃子が、笑顔で釘を刺す。

「一誠、聞こえとるよー」

「イッセーさんひっどぉーい!! 私達がまるでお酒しか飲んでないみたいじゃないですかぁー!! ほらぁ、ちゃんと枝豆も食べてますよぉー!!」

「カレーを食えよ!!」

 一誠のツッコミに、環南が笑いながらビールを煽った。そんな彼女を見ながら、麻里子はニヤニヤと芋焼酎を一升瓶からコップに注ぎ、孝高は無言でハイボール缶を飲んでいる。


 全員が自由過ぎて……理解が追いつかない。


「あ、あの……」

 思わず口を開いた結唯香に、瑠璃子が「どげんしたとー?」とすかさず声をかけた。全員の視線が注がれる中、結唯香は意を決して言葉を続けた。

「その……皆さんも、あたしと、同じように、糸みたいなものが……」

「うんうん、ここにいるぜーいん、『縁』が見えるよぉー」

 結唯香の前に座っていた環南が間髪入れずに首肯する。そして、困惑している彼女を見つめて……楽しそうに目を細めた。

「ここに集まってるのはぁー、リコさんとシカさん以外は中途覚醒なんだよねぇー。だから私も、生きてる途中から能力者になったよー」

「そ、そうなんですか……?」

「そ。私、実家が中洲で屋台やってるんだけどねぇー……あ、いつかユイカちゃんも来てねサービスするよー。あ、それでぇー、開店準備手伝った後に、キャナルのスタバ行こうと思ったらー……厚底サンダルがガスの線に引っかかって転んだのー。それで、頭をゴチーンって!! もぉ、すっごい星飛んでたよぉー」

「そ、そうなん、ですか……」

「そ。人生何があるか分からないねぇー。で、私が変なこと言うって、パパがリコさんに相談したら、今の仕事を紹介してもらってここにいるのー。もう、マジで行き当たりばったりで生きてるからねー何とかなるよぉー」

「そ、そうです、か……あ、あの、環南さんって、お年は……」

「えぇーそこ聞いちゃうー? エヘヘ、今年25歳でーす♪」

「……」

 こう言って右目の横でピースサインをする環南に、結唯香は愛想笑いを浮かべながらりんごジュースをすすった。

 環南はそんな結唯香をニコニコした表情で見つめつつ、手元のカレーを一口食べて「おいしー!! さっすがルリちゃーん!! 料理の鉄人ー!!」と盛大に瑠璃子を褒め称える。瑠璃子は「いえいえ」と適当に謙遜しながら、結唯香を見つめ……こんなことを尋ねた。

「ここに集まっとるんは、ここ数年で知り合ったメンバーなんやけど……何やろうね、もうずっと一緒におるような、そげな気分になることがあるっちゃんねー。これも『関係縁』のせいなのかもしれんけど」

「『関係縁』……?」

 疑問符を浮かべる結唯香に、瑠璃子は自分の両手から伸びている、赤い『縁』を指差して。

「この、指からたっくさん伸びとる赤い糸があるやろ? これが『関係縁』、見える人間関係ってことやね。今日、結唯香ちゃんとも繋がったんよー」

「あたしとも……」

「そう。この『関係縁』が切れると、だんだん疎遠になっていって忘れるっちゃんねー。私達『縁故』は、こげな『縁』を上手いこと調整して、お金を稼いどると。正直、綺麗事ばっかりじゃないっちゃけど……でも、何だかんだ楽しくやっとるよ」

「……」

「結唯香ちゃんも、本当に大変やったと思う。私達に結唯香ちゃんの辛さは分からんやろうけど……だからこそ、これからはもっと自分のために生きて欲しいって思うかなー。私達は、法律でも切れない親子の縁だって切れる。誰とどこで、どげん生きるか……全部自分で決めていいっちゃけんねー」

 瑠璃子はこう言って、手元のビール缶を最後まで飲み干した。そして、一誠の側にあるコーラのペットボトルを引き寄せると、その中身をガラスのコップに注ぐ。そして、その上から日本酒を同じ割合で注いでいった。

 隣に座っている一誠が若干引いた目で見ていることなど気にもせず、美味しそうにアルコールを嗜む瑠璃子。先程から孝高に絡んで無視されている環南に、1人でほくそ笑みながら焼酎を楽しむ麻里子。

 言ってしまえば……誰も、結唯香のことは気にしていない。勿論気にかけてくれているとは思うが、そんな素振りを見せないのだ。


 これまでは、食事中の一挙手一投足も誰かに監視されているような気がして、息苦しかったけれど。

 ここでは……全て、自分次第。


 結唯香の中に芽生えた、新たな感情。その明確な答えを見つけられないままだが、不思議と、不快な気分ではない。

 いずれ分かるだろう、そんな、良い意味で『適当』な感じ。

 結唯香は静かにスプーンを手に取ると、目の前のカレーを最後まで食べきった。



 結局……宴会は深夜まで続いたらしい。途中で一抜けし、リビングの隣にあるゲスト用の寝室で寝た結唯香が翌朝、恐る恐るリビングに行ってみると……既に起きていた麻里子が、スウェット姿で、ビールの缶を洗っているところだった。

 彼女の足音に気づいた麻里子がボサボサの頭で「おはよう」と告げると、リビングで所在なさげにしている結唯香へ、テーブルの上を指差す。

「結唯香、そこの缶ば全部持ってきてくれんか?」

「えぇー……」

 机上ではビールやチューハイなどの空き缶が至る所に残っており、これを集めるのは少し大変そうだ。第一、飲んだのは自分じゃないのに……正直な反応が不平になって口をついて出る結唯香に、麻里子はしたり顔で反論する。

「昨日、カーテンを閉めとらんかったやろうが。その分、働かんとね」

「……はーい……」

 そう言われると反論出来ない。結唯香は大人しく缶をかき集めると、限界まで持ったところで麻里子の元へ持っていった。そんなことを何往復か続けて、ようやく机の上が綺麗になった頃……時刻は朝の7時になろうとしていた。

「さて……結唯香、君は今日、どげんする?」

「え? えっと……」

「今日はまだ、春休み期間のはずやけんな。私は昨日の事務所で仕事があるけんが8時10分には家を出る。事務所に行けば瑠璃子や環南がおるし、結唯香の荷物も置いてあるけんが、宿題でもすればよかね。勿論、ここで1人になってもよか。ただ、その場合は単独での外出はやめてくれ。昼食は孝高か一誠に持ってこさせようかね……」

 麻里子は矢継ぎ早に結唯香へ選択肢を告げると……彼女を見つめて、その意思を問いかけた。

「結唯香、どげんするとか?」

「あたしは……」

 結唯香は少し考えた後、麻里子を見つめて返答した。

「一緒に……行きます。宿題も進めたい……ので……」

 

 自分で決めて、自分で動く。

 その先にある結果を積み重ねて……いつか、自分が思い描いた自分になれるように。


 彼女の答えに麻里子は、「分かった」と頷いた後、食器棚からカレー皿を2枚取り出した。そしてそれをキッチンの作業台に置く。

「じゃあ、昨日のカレーを温めておいてくれ。米は炊飯器に残っとるけんな」

「あたしがですか!?」

「電子レンジでよかぞ。大人は用意に時間がかかるったい」

「えぇっ!? あ、ちょっ……!!」

 視線を右往左往させる結唯香の前から颯爽と立ち去った麻里子は、自分の寝室へと消えていった。

 閉ざされた扉を見つめつつ……結唯香は改めて、空っぽのカレー皿へと視線を向ける。

 次のミッションは、二人分の朝食を用意することだ。



 その後、徐々に『縁』や『縁故』についての知識を深めていった結唯香は……『縁故』という存在について、働き方について、なと、じっくり知識を蓄えていった。

 そして――この場所で迎える初めての夏の始まりに、麻里子からある提案を受ける。

「研修……」

「そうだ。その新人研修を私が担当することになったけんが、結唯香もついでに受ければよかよ」

「何ですかその雑な感じ……」

 牛乳を飲みながらジト目を向ける結唯香に、麻里子は口元に意味ありげな笑みを浮かべる。

「今回は……少し遠い所からの生徒やけんな。福岡では今後、お目にかかれんと思う。きっと、結唯香にとっても刺激になるはずだ。瑠璃子や一誠もおるぞ」

「はぁ……まぁ、いいですよ別に。麻里子さんがおらんくなるのに、あたしが居座るのは違う気がするし」

 こう言ってトーストを頬張る結唯香へ、麻里子はコーヒーを一口すすった後……彼女を見つめて、言葉を続ける。

「じゃあ、名前を決めんといかんな」

「あ……」

 麻里子の言葉に、結唯香はトーストを皿の上に置いたまま、言いかけた言葉を飲み込んだ。


 『縁故』として生きるならば、仕事で使う偽名が必要になる。

 これまでにも一誠や瑠璃子、環南から聞かされていた。

 この通名は仕事のみならず、学校や一部の公的な書類で使われることもあるらしい。「かんな、って響きは可愛いっちゃけど、画数がねぇー。空き缶の缶にすればよかったぁー」……と、環南が愚痴をこぼしていたのを聞いていた。


 自分の未来に関わる、大切な名前。

 これを一人で決めることが出来れば……きっと、小さな一歩を踏み出すことが出来る。


「結唯香はもう、決めとる名前があるみたいやな」

 麻里子から言い当てられ、結唯香は再度口をつぐんだ。しかし、麻里子の視線は自分を見据えて離さない。

 結唯香は一度、呼吸を整えると……麻里子を見つめ、はっきりとその名を口にする。


「ユカ……が、いいです」


 彼女の言葉に、麻里子が「瑠璃子からそげん呼ばれとるからか?」とからかうように笑った。彼女は「それも、ありますけど……」と苦笑いで前置きをした後、静かに言葉を続ける。

「環南さんから聞いたんです。偽名を名乗ってる『縁故』が、自分の本名を教えるのは……その、基本的に結婚する相手にだけだ、って」

「ああ、そうやな」

「今のあたしはまだ、全部未熟で……何も足りなくて、自分の居場所を与えられています。だから、これから少しでもいいから頑張って……結果を重ねて、自分の居場所を見つけるまで、『()』の音は抜いておこうと思うんです。いつか、あたしと一緒にいてくれるような、そんな人に出会えたら……この漢字を戻そうと思います」


 どこにいるのか分からない、どこにもいないかもしれない。

 自分と特別な色の『関係縁』で結ばれた、唯一の誰か。

 いつかの未来で、そんな人に出会えたら……きっと、その人の隣が、自分の居場所になるから。


 彼女の言葉に「分かった」と頷いた麻里子は、コーヒーを飲みながら続きを尋ねる。

「漢字や名字は考えとるか? 書類上、名字までつけてもらわんと困るっちゃんな」

「え、えっと……名前の漢字は、『結ぶ』っていう字と、果物の『果』で、ユカで」

「ふむ……それだと『ケッカ』にならんか?」

 麻里子からの冷静なツッコミに、彼女は声を荒らげて反論した。

「い、いいんです!! 結果を追い求められる大人になるためですからっ!!」

「なるほど。まぁ、一度説明すれば読み違えられることもないやろうけんな。それで、名字はどげんするとか?」

「名字は……」

 彼女は一度呼吸を整えると、麻里子を改めて真っ直ぐに見据えて――その答えを告げた。



「……山本、で、お願いします」



 一緒に住んでいて、とても、彼女のようになれるとは思えないけれど。

 少しでも……その強さにあやかりたい。

 まずは『縁故』として一人前になる、その目標を達成するために。


 彼女の言葉に麻里子は再度、無言で頷いて……自分を見つめる彼女へ、改めて言葉をかける。



「分かった。これからは『山本結果』、やな」



 その言葉に、彼女――ユカは、一度だけ強く頷いた。

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