94 母と、教授と
康太視点になります。
「……私としたことが、ついつい吉野君との話しに夢中になってしまって。相崎さん……悪かったね。退屈させてしまったんじゃないかな」
沙紀に向って申し訳なさそうに謝る木下教授に、彼女の方があわてる。
「い、いえ。あたしはただ、この人について来ただけですから……」
そう言って康太をチラッと横目で見た。
「そうですか? ならいいんですけどね。じゃあ、今度は私から質問してもいいかな? 」
「は、はい。なんでしょうか」
沙紀は椅子に座りなおすと、背筋をピンと伸ばして、教授の質問を待った。
「お二人はその……恋人同士でいらっしゃるのかな? まあ、聞くまでもないことだとは思うけど……」
あまりにもストレートな問いにどう答えるべきか迷った挙句、沙紀は康太にすがるような目線を送った。
「あっ、はい。そのとおりです」
沙紀をかばうように康太が単刀直入に答える。
「いいねえ。同じ趣味で繋がった二人の絆はさぞかし強い物なんだろうね。あの時聞かせてもらった連弾で、すぐにピンときたんだけどね。じゃあ、相崎さんも吉野君と同じ大学の学生さんなのかな? 」
「はい。彼は小学校課程で、あたしは幼稚園課程なんです」
「おお、そうなのですか。いや、奇遇だな。私の妻も幼稚園に勤めているのでね。あっ、合唱部出身ならご存知かもしれないね」
「はい。風の森幼稚園の園長先生ですよね。優しそうでとても素敵な先生でした」
沙紀は高校時代に三年間続けて風の森幼稚園の演奏会に参加していたので、教授の奥さんとは顔見知りの関係だ。
そして、毎年その話を聞かされていた康太も、会ったことのない園長に興味を抱いてはいた。
「ははは……。そう言っていただけると彼女も喜びますよ。妻はね、ああ見えて、かなり苦労してここまできてますからね、私としても彼女には頭があがりません。おっと、いけない、いけない。君達にこんな話しをしてどうするんだろうね。で、ずっと気になっていたんだが吉野君のお母さんはおいくつくらいの方なのかな? いやね、私もこの大学の出身だから、知ってる人かもしれないので」
康太はいよいよその時が来たとばかりに全身に緊張が走ると、膝の上にある手に力を籠めた。
親の年齢など、聞いてもすぐに忘れてしまうのだが、確か、二十六歳で出産したというのを思い出し、単純に自分の年を足して咄嗟に計算した数字を答える。
一歳くらいの誤差はかまわないだろう。
「多分、四十四歳くらいだと思います」
沙紀にも康太の緊張が伝わったのか、息を潜めて話を聞いているのがわかる。
「四十四歳ね……。私は五十だから、ちょうど講師をしている頃だな。因みに、旧姓はなんとおっしゃるのかな? 」
「森山……です」
「なっ……」
教授は声とも息とも見分けの付かない吐息のような音を発し、康太を食い入るように見つめている。
「もりやま……なつ……こさん、ですか? 」
教授の口から絞り出されるように発せられる言葉に、やはり教授は母親のことを知っていると確信した。
「そうです。森山夏子です」
「で、君が、夏子さんの……息子なのか? 」
「はい……。木下先生。こんなことを聞くのは大変失礼なことだとは充分承知しています。でも……。もしかして、先生と母がなんらかの形でその昔に接点があったのではないかと思っています。違いますか? 」
教授はしばらく黙って俯いたまま、何の返答もよこさなかったが、徐に顔を上げるとその重い口を開いた。
「確かに、君の言うとおり、接点はあったよ。私は大学ではピアノ専攻だったのだけれど、院に行ってからは声楽に首をつっこんでしまってね。ここの講師をしている時、たまたま夏子さんに私の歌の伴奏をお願いして、音楽上のいい意味でのパートナー関係を結ぶことになったんだ」
「そうだったんですか……。でも音楽上のパートナーなら、何も問題はないはずですよね? なのに母はもちろんのこと、母の弟の叔父もあまり当時のことを話したがらなくて。うちに古い歌曲の楽譜が何冊かあるのですが、子どもの頃に母にそのことを訊ねても、伴奏の勉強をしていたとしか言ってくれないのです。もちろん先生のことも何も話してくれませんでした。子どもの頃はあまり気にも留めなかったのですが、先日、先生にお会いしてから、いろいろな過去の疑問点が再浮上してきて、それがなんとなくすべて先生と結びついているような気がしてならないんです」
康太は心の中にもやもやと抱えていた物をすべてさらけだすように、一気に話し切った。
「そうか……。夏子さんは何も話したがらなかったのか。ははは、いやはや、私も相当嫌われていたものだな。まあ、君ももう大学生だし、いろいろ恋も経験しているだろうからわかるだろうけれど、確かに、私と夏子さんも、世間一般でいうところの、恋愛関係にあったのかもしれない。でも、成就しなかった。そういうことです。でもまさか君が夏子さんの息子さんだとは、今でも信じられないよ。そう言えば君と夏子さんの面影が重なる気がするよ。目元とか、話し方とか」
「そうですか。昔から母似だとよく言われています。血液型は父なのですが、見かけは母にそっくりだと、子どもの頃はよく言われました。さすがに今はそこまで言われませんが」
「なるほど。でもまあ、これも何かのめぐり合わせかな? ただしそれとこれとは別だから。君のレッスンは遠慮なくやらせてもらうよ。もし君の都合が悪いのなら、夏子さんにも叔父さんにも、このことは黙っててもらえれば、支障はないと思う。どうかな? 」
康太の中ではまだ全ての問題が解決した訳ではないので、心の中のもやもやが晴れないままだったが、母や雅人の隠している部分もそのうちわかるだろうし、わかったところでたわいのないどこでもありがちな失恋話の類なのだろうと、気楽に構えることにしたのだ。
そして、教授の提案通り、家族には内密に来週からレッスンを開始することになった。




